第百八十二話
次の瞬間、二人が姿を現したのは、遊園地から数キロ離れた人気のない裏山の展望台だった。
すっかり日が落ちた夜空の下、眼下には宝石を散りばめたような街の夜景が広がっている。
人気は完全にない。夜風が、木々の葉をカサカサと揺らす音だけが響いていた。
ゴーストはゆっくりと緋雪を地面に下ろすと、少し距離を取って向き直った。
「……大丈夫? 怪我はない?」
「……」
緋雪は答えなかった。
いや、答えられなかった、というほうが正しい。
トップエースとして、これまでどれほどの死線をくぐり抜けてきても揺らがなかった彼女の心が、今、完全に処理落ちを起こし、ショート寸前だった。
目の前にいるのは、ずっと恋い焦がれてきた三神零。
そして同時に、白百合の盾と魔法少女協会が総力を挙げて警戒し続けてきた、裏社会の頂点に君臨するとされる存在——ゴースト。
その二つが、寸分違わず同じ人物の中に同居しているという事実が、彼女の中でどうしても一つの像として結ばれない。
「……緋雪さん?」
心配そうに、いつものゴーストの声音で名前を呼ばれ、緋雪はようやく我に返った。
震える唇から、絞り出すような一言がこぼれる。
「……あなたが、ゴースト……なの?」
その問いに、ゴーストは——いや、零は、答える代わりにゆっくりと自分自身の変身を解いていった。
闇色のオーラが淡く光を放ちながら霧散し、漆黒のドレスが元の私服へと戻っていく。
やがてそこに立っていたのは、いつも通りの、少しやんちゃな髪型をした平凡な男子高校生——三神零、その人だった。
「……うん。ごめん。ずっと、黙ってて」
夜風の吹く展望台で、二人はしばらくの間、ただ黙って見つめ合っていた。
零は、震える緋雪の視線を正面から受け止めながら、静かに、そしてゆっくりと口を開いた。
「……全部、話すよ。緋雪さんには、知る権利があると思うから」
零は、ぽつり、ぽつりと言葉を紡ぎ始めた。
二年前、恩人である周防凛音——今は亡き、優しかった魔法少女の死。彼女の無念を胸に、二度とあんな悲劇を繰り返させないために、誰にも頼らず、ただ大切な人たちの平穏を守るためだけに力を振るい続けてきたこと。
家族にも、親友にも、誰にも本当のことを話せないまま、孤独の中で独りで抱え続けてきた重圧。
「表社会が追ってる『裏社会の真の総帥』とか、福音の鐘を支配しているとか、そんな大層なものじゃないんだ。俺はただ……大事な人が傷つきそうになった時に、見過ごせなかっただけで。……ただの、高校生なんだよ」
訥々と語る零の言葉に、緋雪はしばらく声を失っていた。
「……じゃあ、私たちが命がけで追い続けていたのは……ずっと、零くんだったの……?」
「うん」
あまりにあっさりとした肯定に、緋雪はめまいすら覚えた。
国家すら恐れる『裏社会の真の総帥』。狂信的なカルト教団・福音の鐘に神として崇拝され、冷酷な世界的組織・星監の指導者すら一目置く絶対的な存在。
その正体が、家事に情熱を注ぎ、スーパーの特売日に命を懸け、そして今日、自分と一緒にジェットコースターに乗って手を繋いでくれた、ごく普通の同級生男子だったなど——誰が信じられるだろうか。
しかし、緋雪の脳裏には、次から次へと過去の『ゴースト』との記憶が、強烈な光を伴ってフラッシュバックしてきていた。
——夜の廃工場で初めて交戦した時。
私の『氷の太刀』を圧倒的な重力で受け止めながらも、なぜか決して致命傷を与えようとはしなかった。あの時、私を殺す機会はいくらでもあったのに、彼女はただ武器を弾き飛ばすだけだった。
——月明かりの下で、言葉を交わした時。
『甘いわね、氷のトップエース。その優しさが、いつかあなたの命を奪うわよ』
冷たく厳しい言葉だった。でも、その声の奥には、確かな気遣いと、不思議なほどの『優しさ』が滲んでいた。
これまで断片的だった記憶の欠片たちが、一つの太い線として繋がっていく。
トップエースとしてゴーストに抱いていた尊敬にも似た畏怖と、一人の少女として零に抱いていた純粋な恋心。
その二つの巨大な感情が、実は最初から、たった一人の同じ人物へと注がれていたのだと知った時。
緋雪の目からは、自然と大粒の涙が溢れ出していた。
「……ひどいわ」
「緋雪さん……」
「ずっと、ずっと一人で抱え込んで……」
涙声で零を責めながら、緋雪は一歩踏み出し、零の胸元にポスッと頭を預けた。そして、その制服の裾をぎゅっと握りしめる。
「あんなに強いのに……こんなに大きくて重いものを、ずっと一人で。どれだけ……どれだけ怖かったの」
ポカポカと、緋雪の小さな拳が零の胸を叩く。それは正体を隠されていたことへの怒りではなく、彼が一人で背負ってきた痛みを思っての、悲しみと底知れない愛おしさだった。
そして、自分が恋した相手が、かつて共に戦い、言葉を交わしたあの『好敵手』であったことへの、理屈ではない深い安堵感。
「周りを……巻き込みたくなかったんだ」
零が、緋雪の背中にそっと手を添えながら、絞り出すように呟く。
「緋雪さんは、白百合の盾のトップエースだ。もし俺の正体を知ったら、その立場が危うくなるかもしれない。そんな重荷、背負わせたくなくて……嫌われたくなかった」
「バカ」
緋雪は涙を拭いながら、零の顔をまっすぐに見上げた。
「そんなの、私が決めることよ。……あなたが勝手に、私のために我慢しないで。だって、ゴーストの時のあなたにも、私は何度も命を救われてきたんだから」
その言葉に、零は目を見開いた。
これまで誰にも打ち明けられなかった秘密を、初めて他人と分かち合えたという事実が、彼の胸の奥に温かいものを広げていく。
「……さっきの続き、言うわね」
しばらくの沈黙の後、緋雪が涙の跡が残る顔で、ふわりと微笑んだ。
その表情は、先ほど観覧車の中で見せていた、恋する少女そのものの顔だった。
「零くん。……あなたの正体が、私がかつて戦いったゴーストでも。お料理が得意なただの三神零くんでも。私は関係ない。私はずっと、あなた自身のことが好きだった」
「緋雪さん……」
「だから……これからも、私の隣にいてくれ
る? ずっと、側で守らせてほしい」
星空の下で、緋雪はまっすぐに、まるで戦場で刃を交える時のような真剣で熱を帯びた眼差しで、零を見つめていた。
零は、少しだけ泣きそうな顔で微笑み、緋雪の身体をそっと抱きしめ返した。
「……うん。ありがとう、緋雪さん。俺も……緋雪さんが好きだ」
夜風の吹く展望台で交わされた、誰に見られることもない、二人だけの約束。
しかしそれは、これまでのどんな戦場での勝利よりも、二人にとって大きくて確かな意味を持つ瞬間だった。
ひとしきり気持ちを確かめ合い、二人の鼓動が落ち着きを取り戻した後。
緋雪はふと真顔に戻り、腕を組んで考え込んだ。
「……でも、これから困ったことになるわね」
「え?」
「私、白百合の盾のトップエースなのよ。今の今まで、命がけでゴーストの正体を追う任務の最前線にいた。それなのに、その正体を知ってしまった……しかも、誰にも報告しないつもりでいる」
緋雪の表情に、初めて緊張とも呼べる硬さが浮かんだ。
これは、単なる恋愛の秘密ではない。組織への能動的な裏切りにも等しい、重大な情報の隠匿だった。
「……ごめん。緋雪さんにそんな立場、押し付けるつもりじゃ」
「謝らないで」
緋雪は、きっぱりと零の言葉を遮った。
「私が、自分で決めたことだから。……零くんを売るくらいなら、私が全部背負うわ。それが、トップエースの意地よ」
その声には、迷いも後悔もなかった。
トップエースとしての忠誠と、一人の少女としての想い。相反するはずの二つを、彼女は自らの意志で、後者を選んだのだ。
「これから、姫嶋さんや湯野さん、由鶴たちにも黙っておかないと……正直、どこまでやれるか自信ないけど」
緋雪が困ったように呟くと、零も苦笑いを浮かべた。
「俺も、緋雪さんに全部背負わせるつもりはないよ。何ができるかは分からないけど、一緒に考える」
「ふふっ。頼りにしてるわ。……それより、まずは家に帰らないと。お母様やお義父様が心配するわ」
「あ、そうだ! 今日の夕食を作らないと!」
緊迫した告白と重大な秘密の共有の後だというのに、あまりにも日常的すぎる零の言葉に、緋雪は思わず吹き出してしまった。
「……ふふ、あははっ! そういうところ、本当にあなたらしいわね」
完全に夜の帳が下りた展望台を、二人はしっかりと手を繋いだまま、静かに後にした。
これから待ち受けているであろう、数え切れないほどの困難と、組織に対する罪悪感と嘘。
それでも、この瞬間だけは、ただの高校生カップルとして、確かな幸福と絆の中にいた。




