第百八十一話
夕暮れの茜色が、ゆっくりと園内を染め上げていく時間帯。
県内最大級のテーマパーク『ファンタジー・ランド』のシンボルである巨大な観覧車は、今日一日の楽しさを名残惜しむかのように、いつもよりわずかにゆっくりとしたスピードで回転しているように感じられた。
その一台のゴンドラの中。
三神零と羽衣緋雪は、向かい合うようにして座り、二人きりの静かな時間を過ごしていた。
地上では、過保護な裏社会のトップたち(清掃員とポップコーン売りに変装したヴィクトリアとルディア)が互いに牽制し合い、少し離れた物陰では非番の白百合エースたち(真奈と鈴乃)が息を潜めて隠し撮りをしているという、前代未聞のカオスな状況が繰り広げられていた。しかし、地上数十メートルまで昇ってきたこの密室には、そんな喧騒は一切届かない。
オレンジ色の西日が、ゴンドラ内を優しく、そしてどこか切なく照らしていた。
「……零くん」
緋雪が、白いワンピースの裾をきゅっと握りしめながら、意を決したように口を開く。
ゴンドラが頂上へと差し掛かるにつれ、彼女の頬は夕焼けのせいだけではない、りんごのような赤みを帯びていった。
今日一日、ずっと緊張し通しだった。表社会のトップエースとして、幾多の死線をくぐり抜けてきた彼女でさえ、この『恋の告白』という未知の戦場においては、ただの震える十七歳の少女でしかなかった。
「うん、どうしたの?」
「あのね。……今日、ずっと一緒にいて。ジェットコースターも、お化け屋敷も、メリーゴーランドも……全部、すごく楽しかった」
「俺も楽しかったよ。お化け屋敷で緋雪さんが俺の袖をずっと掴んでたの、可愛かったし」
「も、もうっ! あれは本当に怖かったんだから忘れてって言ったじゃない!」
零が屈託なく微笑むと、緋雪は恥ずかしそうに抗議しながらも、その笑顔に勇気をもらったように、小さく、しかし深く息を吸い込んだ。
(言うのよ、羽衣緋雪。……今なら、言える)
ずっと胸の奥に秘めてきた想い。彼の手の温もりを知って、もう後戻りはできないと悟った確かな感情。
「私……零くんのことが」
——ガンッ!!
緋雪の魂からの言葉を無残に遮るように、ゴンドラの外壁に鋭く重い金属音が響き渡った。
「……っ!?」
緋雪の表情が、一瞬にして恋する少女から、白百合の盾トップエースの冷徹な顔へと切り替わる。
窓の外、遠く園外にある廃ビルの屋上に、夕日を反射してギラリと光る、無機質な銃器のようなシルエットがいくつも並んでいるのが見えた。
時刻を少し遡る。
都内の地下深く、政府の極秘施設。
「対象を捕捉しました、御子柴先生。ゴーストの寵臣と目される少年、及びトップエース・羽衣緋雪が、観覧車のゴンドラ内に完全に孤立しています」
郷田理事の報告に、国防委員会の重鎮である御子柴は、忌々しげに葉巻の煙をゆっくりと吐き出した。
「良い。ロールアウトを前倒しにした甲斐があったな。……対魔法少女用装備『ダインスレイブ』の試作初号機を投入しろ。あの男(三神零)を確保できれば、必ず裏社会の総帥——ゴーストが姿を現す。それこそが我々の狙いだ」
昨日のXデーにおいて、裏社会の圧倒的な連携攻撃によって壊滅的な敗北を喫した政府暗部の執念。それは皮肉にも、白百合の盾の情報班・新実由鶴と全く同じ結論——「三神零はゴーストにとって極めて重要な『架け橋』である」という強烈な誤認に基づいていた。
ただし政府の場合、その誤認は「人質として拉致、あるいは負傷させてゴーストを誘き出す」という、はるかに直接的で非道な手段として実行に移されようとしていた。
「特選部隊、配置完了。対魔法少女用広域狙撃ユニット『ダインスレイブ』、魔力無効化フィールド展開。……発射」
ゴンドラの狭い密室の中。緋雪は瞬時に戦闘態勢へと切り替わろうとしていた。
(強力な魔力波長……人型魔獣じゃない、機械的な反応! 狙撃タイプの特化兵器……!)
トップエースの直感が、あれがただの物理兵器ではなく、魔法少女の魔力障壁を貫通し無効化する『対魔法少女用』の恐るべき兵器であることを告げていた。
しかし、彼女の得意技である『氷の太刀』は、この密室では抜けない。無理に巨大な氷塊を生成して防ごうとすれば、ゴンドラそのものが内部から崩壊し、何の力も持たない一般人である零を空の彼方へ放り出してしまう。
その一瞬の逡巡が、トップエースの動きを致命的に遅らせた。
「零くん、伏せて——!」
緋雪が咄嗟に自らの身を挺して零を庇おうと覆い被さった、その瞬間。
二発目の着弾がゴンドラの窓ガラスを激しく軋ませ、蜘蛛の巣状の亀裂を走らせた。
軌道は、明らかに緋雪の背中——あるいは、彼女に庇われている零の急所を正確に狙っている。
(このままじゃ、緋雪さんが……!)
零の脳裏に、迷いはほとんど生まれなかった。
これまで幾度となく、家族のために、友のために、そして見知らぬ誰かのために振るってきた力。
今、目の前で自分のために震えながら覆い被さってくれている、愛しい少女を守るためだけに、その力を使わない理由などどこにもなかった。
「……ごめん、緋雪さん」
零の静かな呟きに、緋雪が驚いたように振り向く。
その視線の先で、零の身体の輪郭が、深い深海のような『闇色のオーラ』に包まれていった。
緋雪は、今まで幾度となく『ゴースト』と対峙してきた。
遠くの戦場で背中を見た。夜の廃工場で交戦した。魔獣を相手に共闘した。
だが、これほどまでに至近距離で、しかも変身の過程そのものを目にするのは、もちろん初めてのことだった。
零の輪郭が陽炎のように揺らぎ、着ていた私服がひとりでに黒いフリルとリボンをあしらった豪奢なゴシックドレスへと再構築されていく。少し骨張っていた少年の体つきが、しなやかで神秘的な少女のそれへと置き換わり、艶やかな黒髪が肩から滑らかに流れ落ちる。
その一部始終を、緋雪は息をするのも忘れて、まばたきひとつせず見つめていた。
「……え……」
声にならない声が、彼女の震える唇から漏れる。
狭いゴンドラの中に、漆黒のドレスを纏った絶世の美少女——世界中が恐れる最強の死神・ゴーストが、たった今生まれ落ちたかのように佇んでいた。
「——動かないで、緋雪さん。今だけは、私を信じて」
凛とした、底知れない女性の口調。
しかし、その声の奥底には、緋雪がよく知る「三神零」本来の優しく、少しだけ不器用な震えが確かに混ざっていた。彼自身もまた、ついに最も隠したかった正体を明かしてしまったことへの恐怖を抱えていたのだ。
「私を、信じて……?」
緋雪が呆然と呟くのと同時に、三発目の『ダインスレイブ』の特殊弾頭が、窓ガラスを突き破ってゴンドラ内へと飛び込んできた。
魔力を無効化するはずのその凶弾に対し。
ゴーストは、ただ片手を軽く振るっただけだった。
ゴゴゴゴォォォッ!!
目に見えない『深淵の重圧』が空間そのものを強烈に歪め、着弾コースを無造作に捻じ曲げた。魔力無効化フィールドすら飲み込む絶対的な重力場に捕らわれた弾丸は、ひしゃげて虚しく空を切り、遠くの観覧車の柱に着弾して火花を散らす。
「なっ……馬鹿な、ダインスレイブの直撃を防いだと!? それに、ゴーストがなぜあのゴンドラの中に——!」
廃ビルの屋上で、特務執行官が驚愕の声を上げたのも束の間。
「……目障りよ」
もう片方の手で緋雪の肩をそっと抱き寄せながら、ゴーストは冷たく言い放った。
次の瞬間、数キロ離れた園外の建物の屋上にずらりと並んでいた狙撃ユニットと特選部隊が、まるで巨大な見えない手に上空から叩き潰されたかのように、一斉に鉄塊と化して圧壊した。
メキメキメキッ、という不気味なコンクリートの砕ける音が遠くから響いてきたが、緋雪にはそれを気にする余裕すら残されていなかった。
「零くん……あなたが……」
緋雪の紫水晶の瞳に、驚愕と、混乱と、そしてまだ言葉にならない巨大な感情の渦が吹き荒れていた。
ゴーストは、そんな彼女の様子を見て、切なげに、ひどく申し訳なさそうに目を伏せた。
「話は必ずするから。……今は、安全な場所まで運ぶわね」
ゴンドラの床に、ゴーストの影が底なしの沼のようにスゥッと広がる。
空間跳躍による『影移動』。
緋雪の体を優しく抱きかかえたまま、ゴーストは自身の影の中へと二人分の姿を沈み込ませていく。
最後に緋雪の視界に映ったのは、観覧車の下でザワめき始めた見物客たちと、遠くの空に上がる黒煙。
そして——自分を抱きかかえるゴーストの、零と同じ、どこか泣きそうな横顔だった。




