第十八話
その日の三神零は、朝から完璧なスケジュールを組んでいた。
午前中に部屋の掃除と一週間分の数学の予習(赤点の反省である)を終わらせ、昼食は軽く済ませる。そして午後イチの電車に乗り、隣町にある大型ショッピングモールへと向かう。
すべては、本日の午後三時から上映される『劇場版 魔法少女クロニクル 〜星屑の絆〜』を万全の態勢で鑑賞するためである。
(ついにこの日が来た……! テレビシリーズの最終回から半年、長かった……!)
ショッピングモールの最上階にあるシネマコンプレックス。そのロビーのふかふかした絨毯を踏みしめながら、零は内心で小躍りしていた。
『魔法少女クロニクル』は、現実の魔法少女をモチーフにしつつも、熱い友情と魔法バトルを描いた大人気アニメだ。今回の劇場版は完全オリジナルストーリーであり、作画監督には業界最高峰のクリエイターが名を連ねている。オタクを自負する零にとって、これを見逃す選択肢は存在しなかった。
チケットは一ヶ月前のネット予約で、ど真ん中の最高の席を確保済みだ。
売店でキャラメルポップコーンのLサイズと、メロンソーダを購入する。完璧だ。これ以上ないほどの休日の過ごし方である。日々の魔獣討伐や、協会との水面下での駆け引き、そして数学の補習で擦り切れた精神を癒すための、究極のオアシス。
「……よし」
薄暗いシアター内に入り、指定された座席に深く腰掛ける。
周囲には親子連れや学生のグループ、そして零と同じように一人で真剣な表情を浮かべる大きなお友達がひしめき合っている。やがて館内の照明が完全に落ち、巨大なスクリーンに映画泥棒のCMや予告編が流れ始めた。
零はポップコーンを一つ口に放り込み、メロンソーダのストローを咥えながら、これから始まる約二時間の至福の時に思いを馳せた。
本編が始まる。
圧倒的な作画クオリティと、映画館ならではの重低音サラウンド。スクリーンの中で魔法少女たちが空を舞い、光の魔法が炸裂するたびに、座席までがビリビリと震える。
零は瞬きすら惜しむように画面に食い入っていた。
そして、物語は中盤の山場へ。
主人公たちが絶体絶命のピンチに陥り、絶望的な強さを持つ敵幹部がとどめを刺そうと巨大な魔法陣を展開する、まさにその瞬間だった。
『————ウゥゥゥゥゥゥゥゥゥッ!!』
突如として、映画の重低音とは全く異なる、耳を劈くような甲高いサイレンがショッピングモール全体に鳴り響いた。
「え……?」
「な、なんだ!?」
館内の観客たちがざわめき始める。スクリーンにはまだアニメの映像が流れているが、足元から突き上げるような微細な振動が断続的に伝わってくる。
零の手製アプリが、ポケットの中でけたたましくバイブレーションを放っていた。
『緊急警報! 緊急警報! 本施設付近にて、中型魔獣の発生を確認しました。お客様は直ちに係員の指示に従い、地下シェルターへ避難してください!』
無機質な館内アナウンスが流れ、非常灯が点滅を始める。
パニックに陥った観客たちが、ポップコーンやジュースを放り出して我先にと出口へ向かって殺到し始めた。
(……マジかよ。よりによって、こんな時に)
零は座席から立ち上がり、忌々しげに舌打ちをした。
魔獣の発生自体は日常茶飯事だが、なぜ今なのか。あと一時間、いや、せめてこの戦闘シーンが終わるまで待てなかったのか。
周囲の一般客が逃げ惑う中、零はとりあえず避難の列に加わろうとした。自分がここでゴーストに変身すればパニックに拍車をかけるし、中型程度ならすぐに協会の防衛部隊が駆けつけて対処するだろうと思ったからだ。
しかし。
運命は、休日のささやかな幸せを求める少年に、どこまでも残酷だった。
ドゴォォォォォンッ!!!
鼓膜が破れんばかりの凄まじい轟音と共に、劇場の前方——巨大なスクリーンが設置されていた壁面が、外側から物理的に粉砕されたのだ。
舞い散るコンクリートの破片と粉塵。そして、無惨に真っ二つに引き裂かれ、火花を散らして垂れ下がる白銀のスクリーン。
その向こう側、ショッピングモールの外壁に張り付くようにして現れたのは、巨大なカマキリとムカデを掛け合わせたような、禍々しい姿をした六本腕の魔獣だった。
「ギシャァァァァァッ!!」
魔獣が鋭い鎌を振り上げ、映画館の中に威嚇の咆哮を放つ。
逃げ遅れていた数人の観客が悲鳴を上げて腰を抜かし、スタッフもパニック状態で逃げ散っていく。
そして、最後列の座席に一人立ち尽くす三神零は。
引き裂かれたスクリーンと、その裏側に露出した無骨な鉄骨を、ただただ無表情で見つめていた。
(……俺の、映画が)
足元には、誰かが逃げる際に蹴り飛ばして散乱したポップコーン。
手の中には、ぬるくなったメロンソーダ。
そして目の前には、半年間待ちわびた最高のエンターテインメントを、文字通り物理的に粉砕してくれた醜悪な怪物の姿。
ブチッ、と。
零の頭の中で、何かが決定的に切れる音がした。
「……許さない」
誰もいなくなった暗闇の劇場で、零はメロンソーダのカップをゴミ箱に投げ捨てると、胸のペンダントを強く握りしめた。
「変身」
暗闇をさらに深い『闇』が飲み込む。
少年の輪郭が溶け、紫がかった漆黒のロングヘアが爆発的に膨れ上がる怒りの魔力と共に逆立った。白と黒の魔装を纏った『ゴースト』の紫の瞳には、かつてないほどのドス黒い殺意と、理不尽に対する強烈な憎悪が渦巻いていた。
「……よくも、俺の休日を台無しにしてくれたわね」
ゴーストは、背に負っていた漆黒の大剣を抜き放ち、ギチギチと鞘が軋むほど強く柄を握りしめた。
周囲の気温が急激に低下し、映画館の座席や壁面が、怒りの魔力に当てられてメリメリと霜を吹き始める。
「ミンチにしてやる」
ゴーストの姿が、陽炎のようにブレて消失した。
同じ頃、ショッピングモールの周辺空域。
中型魔獣の発生警報を受け、魔法少女協会・日本支部のエース部隊が現場へと急行していた。
「目標の魔獣は、モールのシネマコンプレックス外壁に張り付いています! 市民の避難は完了しつつありますが、モール内の被害は甚大です!」
上空からドローンを操る新実由鶴少佐が、インカム越しに報告を飛ばす。
「了解。これ以上の施設破壊は許さないわ! 鈴乃、飛鳥、突入するわよ!」
「応ッ!」
羽衣緋雪大佐の号令と共に、炎の双剣を構えた新堂鈴乃中佐と、風の槍を携えた新飛鳥大尉が、モールの吹き抜け部分からシネマコンプレックスのフロアへと突入をかけた。
しかし、彼女たちが破壊された劇場の壁面から内部へ飛び込んだ瞬間、そこで目にしたのは、予想だにしない異様な光景だった。
「——深淵の顎」
底冷えするような、ひどく冷たく、そしてドス黒い怒気を孕んだ女性の声。
「ギ、ギャアアアアアッ!?」
六本腕の巨大カマキリ魔獣が、空中で見えない力に打ち据えられ、無惨な悲鳴を上げていた。
否、見えない力ではない。ゴーストだ。
彼女は闇の瞬間移動を連続で発動させながら、魔獣の周囲を文字通り「飛び回り」、大剣の『腹』の部分で魔獣の関節を一つ一つ執拗に叩き潰していたのだ。
バキィッ! ドゴォッ!
「痛い? 痛いわよね? でも私の心の痛みはこんなものじゃないのよ!」
ゴーストが斬撃ではなく『打撃』で魔獣を甚ぶっている。
大剣を振るうたびに黒炎が吹き出し、魔獣の硬い甲殻をチリチリと焼き焦がしていく。一瞬で倒せるはずの相手を、あえて生かさず殺さず、最大限の苦痛を与えるようなオーバーキル。
「な、なんだアレ……」
突入した鈴乃が、双剣を構えたまま呆然と立ち尽くした。
「ゴ、ゴースト……ですよね? あの髪と魔装は」
飛鳥もまた、冷や汗を流しながら槍を下ろす。
彼女たちの知るゴーストは、常に冷静沈着で、魔獣に対しては一撃必殺の無駄のない動きで対処する存在だった。レガリアのメンバーなど人間相手には手加減を見せる優しささえ持っていたはずだ。
それが今はどうだ。まるで親の仇でも見つけたかのように、ただの虫型魔獣に対して容赦のない暴力を振るっている。
「おい、由鶴……あいつ、めちゃくちゃキレてないか?」
『……ドローンの観測データによると、ゴーストの魔力波形に、測定不能レベルの「極度のストレス」と「激しい怒り」が検知されています。周囲の空間魔力まで歪むほどです』
「一体何があったというの……」
緋雪は、映画館の惨状——無惨に引き裂かれたスクリーンと、散乱するポップコーンを見て、ゴクリと唾を飲んだ。
「もしかして……映画を、邪魔されたから……?」
まさか、あの超然としたトリプルスペルの持ち主が、そんな俗っぽい理由で激怒しているとは、エースたちには到底信じがたいことだった。しかし、目の前の異常なまでの八つ当たりを見れば、そうとしか思えなかった。
「……これで、終わりよ」
ゴーストの底冷えする声が響いた。
ボロボロになり、もはや原型を留めていない魔獣の頭上へと瞬間移動した彼女は、大剣に氷と炎と闇の三属性を同時に展開した。
先日の巨大魔獣を消し去った究極魔法、『深淵の極光』の超圧縮版。
「スクリーン代、身体で払いなさい」
大剣が振り下ろされる。
極彩色の漆黒の光が魔獣を包み込み、悲鳴を上げる間も、爆発の余波を周囲に撒き散らすこともなく、カマキリ型の魔獣を文字通り『空間ごと』チリ一つ残さず消滅させた。
完全なるオーバーキル。中型魔獣相手に放っていい火力の魔法ではない。
静寂が、破壊された映画館に戻ってきた。
ズタズタになったスクリーンの前で、ゴーストはゆっくりと大剣を鞘に収めた。
そして、背後に気配を感じたのか、ゆっくりとエースたちの方へと振り返る。
紫の瞳には、まだ怒りの余韻が燻っていた。
彼女の周囲から放たれる、特級魔獣すら逃げ出すほどの威圧感とドス黒いオーラに、歴戦のエースである緋雪たちですら、思わずビクッと肩を震わせて一歩後ずさりしてしまった。
(や、やばい……機嫌が悪すぎる……)
鈴乃が冷や汗を流し、飛鳥が槍を握る手に力を込める。
もし今、ここで協会として彼女に接触しようとすれば、あの八つ当たりの矛先が自分たちに向いてしまうかもしれない。そんな理不尽な恐怖が、エースたちの足を縫い止めていた。
しかし、ゴーストは緋雪たちを一瞥しただけで、何も言わなかった。
いや、何かを言おうとして口を開きかけたが、すぐにため息をついて首を振った。
(……八つ当たりしても、俺の映画の続きは見られないんだよな。最悪の気分だ)
内心で涙を流しながら、零は足元の影を展開した。
深く、重い、絶望に満ちたため息を一つ映画館に残し、ゴーストの姿は空間の歪みと共に完全に消え去った。
「……行っちゃった」
真奈が、ホッとしたようにへたり込む。
緋雪は、ゴーストが消えた空間と、引き裂かれたスクリーンを交互に見つめ、複雑な表情を浮かべていた。
「あの強大な力を持つ彼女を、あそこまで本気で怒らせるなんて。……魔獣は、本当に恐ろしい存在ね」
「いや、大佐。あれは絶対、映画のいいところを邪魔されてキレてただけだと思いますよ……」
由鶴の冷静なツッコミも、今の緋雪の耳には届いていないようだった。
数日後。
三神零は、隣の県のさらに遠くにある別のシネマコンプレックスのロビーに立っていた。
あの日見逃した『劇場版 魔法少女クロニクル』の続きを、どうしても劇場で見たかったからだ。わざわざ魔獣の出なさそうな地域を選び、ネットでチケットの空き状況も確認してきた。
しかし。
チケット発券機の前に立った零は、無情な赤い文字を見て、膝から崩れ落ちた。
『本日分の「劇場版 魔法少女クロニクル」は、全席完売いたしました』
「……嘘だろ」
よく見れば、ロビーには「ゴースト参戦決定記念! クロニクル応援上映イベント開催中!」という横断幕が掲げられている。
あの日のニュースでゴーストの姿が大々的に報じられ、さらにはカード化が決定したことで、作品自体の人気が社会現象レベルに爆発。熱狂的なファンたちが連日映画館に押し寄せ、チケットはどこも数週間先まで予約で埋まるという事態に発展していたのだ。
自分が魔獣を倒し、世間の注目を集めすぎたせいで、自分の見たい映画のチケットが取れなくなる。
完璧なまでの自業自得、あるいはマッチポンプ。
「……もう、嫌だ」
映画館のロビーでうなだれる一人の男子高校生の悲哀は、華やかに飾られた魔法少女たちの等身大パネルに見下ろされながら、誰に知られることもなく虚しく響くのであった。




