第十七話
微分、積分、ベクトル、数列。
三神零の脳内は、無機質な数字と記号の羅列によって完全に埋め尽くされ、ショート寸前だった。
「……終わった。色んな意味で」
放課後の教室で一人、居残り補習のプリントを提出し終えた零は、夕暮れ時の街をゾンビのような足取りで歩いていた。
先日の大規模攻勢とレガリアのテロ事件。裏で首都の崩壊を防ぐために奔走した結果、数学のテストで『28点』という致命的な赤点を叩き出してしまった代償は大きかった。三日連続の放課後補習。魔獣と戦うよりも精神的な疲労は大きく、今の零は干からびたスルメのように生気を失っている。
(甘いもの……。脳が糖分を要求してる……)
帰路の途中、零はフラフラと吸い寄せられるように、駅前のコンビニエンスストアへと足を踏み入れた。
目当ては、一番甘そうなチョコレートパフェのアイスだ。ついでに、レジ横に並んでいた『魔法少女クロニクル』の拡張パックを、無意識のうちに二つほどカゴに放り込んでしまう。
公式が「次弾でゴーストを最速カード化する」と発表して以来、自分がオタクたちから美少女扱いされているという事実から目を逸らすため、あえてカードを買って「自分はただのプレイヤーだ」と自己暗示をかけるという、よく分からない防衛本能が働いていたのだ。
「ありがとうございましたー」
無気力な店員の声を背に、零は買ったものを入れたビニール袋を提げて、自動ドアの前に立った。
ウィーン、とドアが開く。
外に出ようと一歩踏み出した瞬間。
「あ……」
「わっ」
入店しようとしてきた人物と、鉢合わせる形になった。
零が慌てて身を引こうとしたが、疲労で足元がおぼつかなかったせいでバランスを崩し、相手の肩と軽くぶつかってしまった。
その拍子に、零の手からビニール袋が滑り落ち、中に入っていた参考書とカードパックがバサッと地面に散乱する。
「す、すみません! 俺、前を見てなくて……!」
零は慌てて謝罪し、しゃがみ込んで散らばった荷物を拾い集めようとした。
「いえ、私の方こそ考え事をしていて……申し訳ありません。お怪我はありませんか?」
頭上から降ってきたのは、鈴を転がすような、どこか凛とした響きを持つ透き通るような女性の声だった。
その声の主もまた、しゃがみ込んで零の荷物を拾うのを手伝ってくれる。
「大丈夫です、すみま——」
零が顔を上げ、相手の顔を見た瞬間。
彼の心臓が、ドクンッ! と早鐘のように跳ね上がった。
深く被ったつばの広い麦わら帽子。大きめの伊達メガネ。そして、清潔感のある薄水色のワンピースに白いカーディガンという、清楚な私服姿。
変装のつもりなのだろう。しかし、帽子の下から零れ落ちる美しい銀色の髪と、メガネの奥で静かに瞬く蒼い瞳は、零の記憶に深く刻み込まれているものだった。
(は、羽衣緋雪……!?)
日本支部現エース、『氷の女王』の異名を持つ羽衣緋雪大佐。
一週間前、自分が大剣でその刀をへし折り、黒炎で吹き飛ばした相手。そして先日、山間部で特級超えの巨大魔獣と死闘を繰り広げていた姿を、スカイツリーの上から見守っていた相手だ。
彼女は現在、重傷を負って医療センターに入院しているはずだった。それがなぜ、こんな駅前のコンビニに一人でいるのか。
(お、落ち着け俺。バレるわけがない。ゴーストの時の俺は女だし、顔も髪の色も声も全部違う。今の俺はただの男子高校生だ……!)
零は内心で冷や汗を滝のように流しながら、必死にポーカーフェイスを保った。
「あの……お荷物、どうぞ」
緋雪が、拾い上げた数学の参考書と、クロニクルのカードパックを零に差し出す。
その手首には、まだ痛々しいテーピングが巻かれていた。完治していない体で、こっそりと病院を抜け出してきたのだろうか。
「あ、ありがとうございます……」
「高校生ですか? お勉強、お疲れ様です」
緋雪は伊達メガネの奥の目を細め、ふわりと柔らかく微笑んだ。
普段の戦闘時の、氷のように冷徹な表情からは想像もつかない、年相応の女の子らしい温かな笑顔。零は思わず見惚れそうになるのを、己の太ももを抓って堪えた。
「……あら。これは『魔法少女クロニクル』ですね」
緋雪が、カードパックを見てクスリと笑う。
「あ、はい。まぁ、息抜きというか……」
「ふふ。誰か、お気に入りの魔法少女はいるのですか?」
純粋な興味からくる質問。しかし零にとっては、地雷原でタップダンスを踊るような状況だった。
ここで「羽衣緋雪です」と答えれば、ファンとしてサインを求めたりする流れになりかねない。「ゴーストです」などと言おうものなら、どんな顔をされるか分からない。
「えっと……みんな、かっこいいと思います。いつもこの街を守ってくれて、本当に感謝してますから」
零がひねり出した無難かつ本心からの言葉に、緋雪は少しだけハッとしたように目を丸くした。
そして、どこか安堵したように、再び優しく微笑む。
「……ありがとうございます。そう言っていただけると、私たち……いえ、彼女たちも、きっと戦う意味があると思えるはずです」
その言葉には、重い責任を背負って戦い続ける彼女の、偽らざる本音が滲んでいた。
零は荷物を受け取り、軽く頭を下げて立ち去ろうとした。これ以上関わればボロが出る。
「あの、差し支えなければ、一つお伺いしてもよろしいでしょうか?」
しかし、緋雪の呼び止める声に、零はビクッと肩を揺らして足を止めた。
「な、なんでしょうか……?」
「この近くに、『クレープ』という食べ物を売っているお店をご存知ないでしょうか? 実は、病院の……いえ、友人が、どうしてもそれが食べたいと我儘を言い出しまして。こっそり買ってきてあげようと街に出たのですが、少し道に迷ってしまい……」
少し困ったように眉を下げる緋雪。
どうやら、同じく入院中である只野真奈あたりにパシリ……もとい、お使いを頼まれたらしい。お忍びで街に出たはいいが、普段は任務で空を飛ぶか専用車で移動しているため、下界の細かな地理には疎いのだろう。
(断って逃げるべきだ。……でも)
テーピングの巻かれた彼女の腕を見た瞬間、零の世話焼きな気質が、理性を上回ってしまった。
「……あー、それなら駅前の裏通りに有名な店がありますよ。ちょっと入り組んでて口で説明するのは難しいんで、案内します」
「よろしいのですか? お勉強のお疲れのところ、お引き留めしてしまっては……」
「平気ですよ。アイス食べながら歩くんで」
零が買ったばかりのアイスの袋を揺らして見せると、緋雪は「ありがとうございます」と、深々と頭を下げた。
夕暮れの街を、二人は並んで歩いていた。
零にとっては生きた心地のしない数分間だったが、緋雪の方はすれ違う人々や、ショーウィンドウに並ぶ服、カフェで談笑する学生たちを、ひどく愛おしそうに見つめていた。
「……素敵な街ですね。平穏で、活気があって。私は、この景色が好きです」
緋雪が、ぽつりとこぼした。
その横顔には、魔獣の恐怖に晒されていた先日までの過酷な戦場の影は微塵もない。ただ、この平和な日常を愛し、守り抜こうとする強固な決意だけが静かに燃えていた。
「……そうですね。俺も、好きです。この街が」
零の言葉は、変身後の「ゴースト」としての本音でもあった。
緋雪は嬉しそうに頷く。
「ええ。先日、とても恐ろしいことがありましたけど……皆さんがこうして笑顔で日常を送れていることが、何よりの救いです。……実は私、少しだけ迷っていたんです。自分たちの力が、本当に誰かを守れているのかって」
「迷い、ですか?」
「はい。私たちよりもずっと強くて、不思議な力を持つ方が現れて。その方は、私たちを助けてくれたのに、何も言わずに去っていってしまいました。……私は、彼女に追いつきたい。そして、今度は私たちが彼女の助けになりたいんです」
緋雪の口から語られた「ゴースト」への思い。
それは、敵対心でも警戒でもなく、純粋な敬意と、届かない背中を追いかけようとする切実な願いだった。
零は、心臓の奥がキュッと締め付けられるのを感じた。
自分が彼女たちを傷つけ、遠ざけようとしたにもかかわらず、緋雪は自分を味方だと信じ、共に歩もうとしてくれているのだ。
「……その人、きっと、あんたたちのこと……すごいって、思ってますよ」
「え?」
「あ、いや。なんか、その人も不器用なだけっていうか……。本当は、感謝してるんじゃないかなって、勝手な想像ですけど」
しどろもどろになる零に、緋雪は伊達メガネの奥で目を瞬かせ、やがてふふっと柔らかく笑った。
「そうですね。そうだと、嬉しいです。……ありがとう、優しい学生さん。あなたとお話しできて、なんだか心が軽くなりました」
やがて、裏通りにある小さなクレープ屋の前に到着した。
甘い匂いが漂う店の前で、緋雪はメニューの多さに目を丸くして戸惑っていた。
「こんなに種類があるのですね……。ええと、友人は『チョコバナナ生クリームマシマシ』と言っていたのですが、それはどれ……あっ、ありました。これを一つ。それと……」
緋雪は自分の分として、いちごが乗ったシンプルなクレープを注文し、さらにもう一つ、カスタードのクレープを追加した。
そして、出来上がった三つのクレープのうちの一つを、零に差し出す。
「あの、先ほどは助けていただいたお礼です。一つ、いかがですか?」
「えっ? いや、そんな、案内しただけなんで……それに俺、アイス買っちゃったし」
「私の気が済まないのです。どうか、受け取ってください」
緋雪の真っ直ぐな視線に気圧され、零は渋々、温かいクレープを受け取った。
「……ありがとうございます」
「いいえ。こちらこそ、道案内ありがとうございました。……あなたのような優しい人がいるこの街を、これからも守っていきたいと、改めて思いました」
緋雪は深く一礼すると、クレープの袋を大切そうに抱え、病院の方角へと歩き出した。
その背中を見送りながら、零はふと、口を開いた。
「……怪我、気をつけてくださいね」
ピタリと、緋雪の足が止まった。
振り返った彼女の表情には、わずかな驚きが浮かんでいる。
「え?」
「あ、いや! 最近、魔獣とかテロとか物騒なんで……! 夜道とか、気をつけて帰ってくださいって意味で!」
テーピングのことに触れたと悟られないよう、零は必死にごまかした。
緋雪は数秒間きょとんとしていたが、すぐに納得したように微笑んだ。
「……ふふ、はい。お気遣い、ありがとうございます。あなたも、お勉強頑張ってくださいね」
今度こそ、緋雪は夕暮れの街角へと消えていった。
一人残された零は、右手に溶けかけのアイス、左手に温かいクレープを持ったまま、彼女が消えた方向をじっと見つめていた。
(……俺が傷つけたのに。でも、やっぱり強くて……綺麗な人だな)
魔法少女協会のエース、『氷の女王』。
しかし、今日彼が出会ったのは、街の平和を愛し、友人のために道に迷い、クレープのメニューに戸惑う、等身大の優しい少女だった。
「……よし。帰って、数学の復習するか」
零はクレープを一口齧り、その甘さに少しだけ口角を上げた。
彼女たちが守ろうとしているこの街の日常に、自分も確かに生きている。その事実が、赤点で沈んでいた彼の心を、ほんの少しだけ軽くしてくれていた。




