第十六話
数万規模の魔獣の巣『深淵の揺り籠』掃討作戦、および首都圏における犯罪組織『レガリア』の同時多発テロから、数日が経過した。
魔法少女協会・日本支部の最上階にある大作戦会議室は、かつてないほどの異様な緊張感と、重苦しい沈黙に包まれていた。
円卓を囲むのは、日本支部のトップである姫嶋結衣大将、副会長の湯野麗香中将。そして、戦闘統括、補給、結界、情報など各部署の責任者を務める、色分けされた腕章をつけた『統括管理部』の元魔法少女たちだ。
彼女たちの視線は、部屋の正面に展開された巨大なホログラムモニターに釘付けになっていた。
「……以上が、横田基地におけるレガリア残党の制圧、および山間部に出現した『二体目の巨大魔獣』討伐に関する、未登録魔法少女ゴーストの戦闘記録です」
右腕を真新しいギプスで固定した新実由鶴少佐が、タブレット端末を操作しながら報告を締めくくった。
モニターには、ゴーストが放った最後の一撃——極彩色に輝く漆黒の斬撃『深淵の極光』によって、特級超えの巨大魔獣が文字通り「空間ごと消滅」する映像が、何度も繰り返し再生されている。
「信じられませんね。結界班が全力を挙げても抑えきれなかったあの化け物を、たった一振りで消し去るとは……」
「横田基地の映像も凄まじいですよ。自衛隊を背後で完璧に守りながら、レガリアの大尉クラスのたちを赤子のようにねじ伏せている。一切の無駄がない、洗練され尽くした戦闘機動です」
統括管理部の責任者たちが、冷や汗を拭いながらヒソヒソと意見を交わす。
しかし、結衣大将の表情は険しいままだった。
「由鶴少佐。あなたが先ほど言及した、ゴーストの『魔力波形』についての追加報告を」
「ハッ」
由鶴はキーを叩き、モニターの映像を三つの複雑な波形グラフへと切り替えた。
「ゴーストの戦闘データを、ドローンの高精度センサーで解析した結果……魔法少女の常識を根底から覆す事実が判明しました。皆さんもご存知の通り、魔法少女の因子が発現する際、適性を持つ属性は『地・水・火・風』などの基本属性、あるいはその派生のうち、生涯でただ一種類のみです。これは魔法少女の歴史が始まって以来の、絶対不変の法則であるはずでした」
ゴクリ、と。会議室の誰かが息を呑む音が響いた。
由鶴は、エメラルドグリーンの瞳に理知的な光を宿して続ける。
「しかし、ゴーストは違います。彼女は横田基地での戦闘において、『氷』の領域展開と、『闇』の瞬間移動を使い分け、さらに逃走する敵には『炎』の追尾弾を使用しました。そして山間部での最後の一撃では、これら三つの相反する属性を同時に、かつ完全に独立した波形を保ったまま、高密度で融合させて放っています」
「三つの属性を、同時に……?」
麗香中将が、眼鏡のブリッジを押し上げながら驚愕の声を漏らした。
「はい。つまりゴーストは、魔法少女史上において過去に一人も確認されていない……『トリプルスペル(三属性保持者)』であると断定せざるを得ません」
トリプルスペル。
その言葉が会議室に落ちた瞬間、統括管理部の歴戦の元魔法少女たちでさえ、言葉を失った。
一つの属性を極めることすら至難の業とされるこの世界で、氷、炎、そして未知の闇という強力な三属性を完璧に制御し、同時に行使するなど、まさに神か悪魔の所業である。
「さらに不可解なのは、以前にも報告した通り、彼女の氷と炎の魔力波形が、十一年前の特級魔獣討伐戦で戦死した英雄……故・周防凛音様のものと99.9%一致している点です。魔法少女の魔力因子は一代限り。たとえクローン技術を用いたとしても、記憶や経験に基づく魔力波形まで完全に再現することは不可能です」
由鶴の報告を受け、結衣大将は深く目を閉じた。
顔も分かっているのに戸籍が存在しない。過去の英雄の魔力を持ち、魔法少女の常識を破壊する三属性を行使する。
調べれば調べるほど、ゴーストという存在は深い霧に包まれていくようだった。
「……大将。いかがなさいますか」
麗香の問いかけに、結衣はゆっくりと目を開き、力強い声で宣言した。
「現在をもって、未登録魔法少女ゴーストに対する当協会の評価と警戒度を、『特S級(未知の災害指定クラス)』へと引き上げます。これは、他国の支部や米国本部には伏せ、日本支部だけの極秘事項とします」
「特S級……! それは、最上位の特級魔獣と同等、あるいはそれ以上の危険度ということですか」
「ええ。彼女の力は、一歩間違えれば国家そのものを単独で滅ぼしかねない。……しかし」
結衣はモニターに映る、ゴーストの冷たくも美しい横顔を見つめた。
「彼女は今回、自衛隊を背に庇い、私たちエース部隊の窮地を救ってくれました。彼女の剣は、決して人類に向けられることはない。その強靭な意志を、私は信じます。ゆえに、ゴーストに対する『捕獲・交戦』の命令は全面的に白紙撤回。今後は『接触と対話、および監視』を最優先とします。いかなる理由があろうと、彼女への敵対行為は厳禁とします」
総司令官の決定に、会議室の全員が一斉に敬礼で応えた。
魔法少女協会の歴史上、最も強大で、最も謎に満ちた存在。ゴーストに対する日本支部の対応は、ここに来て明確な「融和」へと舵を切ったのであった。
一方その頃。
協会の最高幹部たちがそんな重苦しい会議を開き、自分の警戒度を世界崩壊レベルにまで引き上げていることなど、梅雨知らず。
当の本人である三神零は、高校の教室で、机に突っ伏して深々と絶望していた。
「……終わった」
零の目の前の机には、無惨にも赤ペンで『28点』と書き殴られた数学のテスト用紙が置かれていた。
平和な昼下がりの教室。窓から差し込む暖かな陽光が、余計に彼の心をえぐってくる。
「おーい三神。お前が赤点なんて珍しいじゃん。どうしたんだよ、体調でも悪かったのか?」
弁当箱を開けながら、前の席の友人が不思議そうに覗き込んでくる。
零は机に顔を埋めたまま、くぐもった声で答えた。
「……ちょっと、週末に色々あってな。徹夜になっちゃって、全然勉強できなかったんだよ……」
色々、どころの話ではない。
週末の昼間は秋葉原でレガリアの連中に絡まれ、夕方には横田基地で彼女たちをボコボコにし、夜はスカイツリーの極寒の先端に何時間も座り込み、最後は山間部へ跳躍して特級超えの大怪獣を三属性の究極魔法で消し飛ばしたのだ。
家に帰ってベッドに倒れ込んだ時には、すでに日曜の夜明け前だった。泥のように眠りこけ、月曜日の朝に「あ、今日数学のテストだ」と気づいた時には、すべて手遅れだったというわけだ。
(特級魔獣をノーダメージで倒せても、数学の微分積分はノー勉じゃ解けないんだよ……!! くそっ、あの大蛇、どうしてあんなタイミングで二体目が出てきやがったんだ。俺の平和な週末と評定平均を返せ!)
内心で理不尽な世界(主に魔獣)に八つ当たりしながら、零は深く溜め息をついた。
成績優秀で目立たない優等生、という彼の大切なアイデンティティが一つ崩れ去ってしまった。追試と補習が確定したことで、今後のパトロールの時間にも影響が出るのは必至だった。
そんな零の絶望をよそに、教室の空気は全く別の話題で異常なまでの盛り上がりを見せていた。
「なぁなぁ、見たか昨日の特番! ゴーストの戦闘シーンのまとめ動画、再生数もう二千万回超えてるらしいぞ!」
「見た見た! ヤバくない? あの子、氷と炎と……なんか黒い瞬間移動みたいなの、三種類の魔法使ってたよな! ネットの考察班が『史上初のトリプルスペルだ!』って大騒ぎしてるぜ!」
「強すぎだろ……。てかさ、顔がマジで美しすぎる。紫の髪が風になびくところとか、スクショして壁紙にしちゃったわ」
「分かる〜。あの冷たい目で見下されたいよな」
クラスの男子たちが、スマホの画面を囲んで大はしゃぎしている。
女子たちも「魔装のデザインが最高に可愛い」「謎めいててカッコいい」と、ゴーストの話題で持ちきりだった。
(……やめてくれ、マジでやめてくれ)
零は、机に突っ伏したまま両手で耳を塞いだ。
クラスメイトたちが熱狂的に語っている「史上初のトリプルスペルの超絶美少女」は、今まさに数学のテストで28点を取って落ち込んでいる、この地味な男子高校生(俺)なのだ。
自分が女体化した姿が、全国の男子高校生の性的な欲望と憧れの対象として消費されているという事実は、零の羞恥心を致死量にまで高めていた。もし正体がバレたら、絶対にこの日本から逃げ出して山奥で隠遁生活を送ってやる、と零は固く心に誓った。
「そういや三神! お前、魔法少女クロニクルやってるよな?」
突然、友人がスマホの画面を零の目の前に突きつけてきた。
「見ろよこれ、クロニクルの公式アカウントの発表! 次弾の拡張パックのシークレット枠に、『ゴースト』が収録されるのが決定したらしいぞ! しかも、描き下ろしのUR仕様だってさ!」
「…………は?」
零は、死んだ魚のような目でスマホの画面を見つめた。
そこには、公式アカウントによる『緊急参戦! 謎の未登録魔法少女ゴースト、次弾パックにて最速カード化決定!』という煽り文句と、数万件を超える「いいね」とリポストの嵐が吹き荒れていた。
「すげえよな! これ絶対環境トップのぶっ壊れ性能になるぜ。俺、発売日に箱買いするわ!」
「三神も組むだろ? ゴーストデッキ!」
純粋な瞳で聞いてくる友人たちに、零は引きつった笑みを返すことしかできなかった。
「あ、ああ……そうだな。俺も……ゴースト、引けるといいな……」
(絶対に買わねえよ!! なんで俺が自分自身の美少女カードを金払って引かなきゃいけないんだよ! しかも俺に一銭もロイヤリティ入ってねえだろ公式!!)
心の中で血の涙を流しながら絶叫する零。
世界を救う強大な力を手に入れても、肖像権の侵害と数学の赤点からは逃れられない。それが、三神零という少年の、あまりにも世知辛い日常であった。
同じ日の午後。
日本支部付属の総合医療センター。エースたちが集う特別病室では、和やかな空気が流れていた。
窓から差し込む光の中、ベッドに腰掛けた羽衣緋雪大佐は、包帯を巻かれた腕をさすりながら、見舞いに来ていた新実由鶴少佐から会議の報告を受けていた。
「……トリプルスペル。氷と炎、そして闇ですか」
緋雪が静かに呟くと、隣のベッドでりんごを齧っていた只野真奈大尉が身を乗り出した。
「三属性!? なにそれ、ずるい! 私なんて土だけなのに! どうりで私たち五人がかりでも勝てないわけだよね〜」
「真奈、お前は少しは悔しがれ。……しかし、規格外にも程があるな」
全身を包帯で巻かれた新堂鈴乃中佐が、ため息混じりに同調する。
由鶴は頷き、緋雪の方を見た。
「ええ。協会は彼女の警戒度を最高レベルに引き上げましたが、敵対行為は厳禁となりました。今後は、対話による接触を試みることになります。……緋雪大佐。あなたは、彼女と最も言葉を交わしていますね」
「はい。……彼女は、言っていました。『私は、誰も奪いたくないの』と」
緋雪は、ベッドの横に立てかけられた、ゴーストの黒炎によって大半が焼け焦げ、へし折られた自身の日本刀型魔装を見つめた。
「あの氷と炎の魔力……。由鶴少佐は、凛音先輩の波形と一致したと言いましたね。……もしかしたら、彼女は凛音先輩の遺志を、何らかの形で受け継いでいるのかもしれない」
緋雪の蒼い瞳に、静かな決意の光が宿る。
「もし次、彼女に会うことができたら。今度は剣を交えるのではなく、ちゃんと話をしたい。彼女が背負っている孤独な闇を……私たちが、少しでも払いのけることができたら」
エースたちの心には、もはやゴーストに対する恐怖や敵対心は微塵もなかった。
あるのは、圧倒的な力で自分たちを救ってくれた「恩人」に対する、純粋な敬意と、少しばかりの興味だけだ。
かくして、協会の警戒レベル引き上げと、エースたちの熱い眼差し、そして世間の異常なまでのアイドル的熱狂の中心にいるとは夢にも思っていない三神零は、放課後の教室で一人、涙目で微分積分の補習プリントと格闘し続けるのであった。




