第百七十八話
雲一つない青空が広がる、夏の休日。
三神家のキッチンには、朝から豚の角煮をコトコトと煮込む甘辛い醤油の香りが漂っていた。
「よし、いい感じに照りが出てきたな。あとは少し寝かせて味を染み込ませて……っと。和からしと、付け合わせの白髪ネギ用のネギを切らしてたんだった」
エプロン姿の三神零は、冷蔵庫の中身を確認して小さく呟いた。
今日は特に予定のない、平穏な休日である。羽衣緋雪との遊園地デートは明日に控えており、今日の零はただひたすらに、家族のための絶品夕食作りに情熱を注いでいた。
「……お兄ちゃん、朝からやけに気合い入ってるね。角煮なんて作って」
パジャマ姿で目をこすりながら起きてきた妹の玲奈が、鍋の中身を見て目を輝かせる。
「ああ。夕飯用にな。ちょっと隣町のスーパーまで買い出しに行ってくるよ」
「ふーん。あ、そうだ。今日はお姉ちゃんときらりちゃんと一緒に、その隣町のショッピングモールに行ってくるから」
「わかった。人も多いだろうし、気をつけてな」
零は私服に着替えると、マイバッグを片手に家を出た。
爽やかな夏の朝の空気を吸い込みながら、隣町への道を歩く。
それが、国家を揺るがす未曾有のテロ計画『Xデー』の幕開けであることなど、平和を愛する男子高校生は知る由もなかった。
同刻。
街の地下深くに建造された旧下水道施設では、緑色の培養液が満たされた数十本もの巨大なカプセルが、一斉にパージされていた。
「目覚めよ。そして休日の街を蹂躙し、忌まわしき魔法少女どもを狩り立てろ」
政府の暗部を牛耳る政治家・御子柴の冷酷な号令とともに、カプセルの中から異形の少女たちが這い出してくる。
人間の肉体に魔獣の細胞を縫い合わされた『キメラ魔法少女』たち。自我を持たない彼女たちは、赤く濁った瞳をギョロリと動かし、獣のような咆哮を上げて地上への階段を駆け上がっていった。
「キメラたちの放流が完了しました。これより、市街地の各所にて同時多発的な破壊活動を開始します」
スーツ姿の男の報告を受け、御子柴は葉巻を吹かした。
「よろしい。白百合の盾と協会の連中が囮に食いつき、ゴーストと裏社会のトップたちが現れたら、すぐに『特務執行官』を投入しろ。一匹残らず始末するのだ」
街の主要なビルの屋上や裏路地には、すでに政府直属のS級非公認部隊『特務執行官』の面々が、迷彩服と対魔法少女用の特殊武装に身を包み、冷徹な目で獲物を待ち構えていた。
彼らは信じて疑わなかった。この完璧な布陣により、裏社会の真の支配者たるゴーストを仕留められると。
——ピロロロロロッ!!
白百合の盾の作戦指令室、そして魔法少女協会本部の管制室に、けたたましい警報音が鳴り響いた。
休日の穏やかな市街地に、突如として数十体もの強力な魔力反応が発生したのだ。
「各員、ただちに現場へ急行! 対象は人型の魔獣……いえ、魔法少女の魔力波長を放つ異形の怪物です!」
協会の新体制のエースである周防凛花が、光の槍を構えて前線へと飛び出す。
しかし、現場に到着した協会部隊を待ち受けていたのは、想定を遥かに超える地獄だった。
『ギャアアアアッ!!』
「くっ……なんなの、こいつら! 装甲が硬すぎる上に、動きがめちゃくちゃよ!」
氷のエース・船戸真紀奈が放った氷柱を、キメラ魔法少女は獣のようなステップで回避し、逆に鋭い爪で反撃してくる。
「真紀奈ちゃん、危ない!」
雷のエース・佐伯美羽がカバーに入るが、痛覚を持たないキメラたちは雷撃を浴びても止まることなく、協会部隊はじりじりと防戦一方に追い込まれていった。
一方。
その頃、街の別のエリアでは、全く異なる光景が広がっていた。
「……休日のショッピングだってのに、邪魔しないでよね」
ズドォォォォンッ!!
隣町のショッピングモール付近。三神澪が放った極太の光線が、三体のキメラ魔法少女を一瞬にして蒸発させた。
「お姉ちゃん、さっさと片付けてお買い物行くよ。こんなのに構ってる暇ないし」
「きらりもクレープ食べたいから、チャチャッとやっちゃうね!」
玲奈が風の刃で残るキメラの四肢を正確に切断し、きらりが星型の爆弾でトドメを刺す。圧倒的な実力を持つ彼女たちの前では、政府の誇る生体兵器も「ただの不快な障害物」に過ぎなかった。
そして、白百合の盾のエースたちも同様だった。
「はぁ……。せっかくの休日に、こんな悪趣味な人形遊びに付き合わされるなんてね」
風のエース・弓飛鳥が、白銀の長槍を一閃し、キメラの首を跳ね飛ばす。
「飛鳥、右から来るよ! そーいっ!」
土のエース・只野真奈が巨大なハンマーを振り下ろし、アスファルトごとキメラを粉砕する。
「燃えカスすら残さないわ!」
炎のエース・新堂鈴乃の爆炎が、路地裏のキメラを焼き尽くす。
彼女たちは、作戦指令室の由鶴からの的確なナビゲートを受けながら、涼しい顔で担当エリアの敵を次々と駆逐していた。
「……気持ち悪い魔力。この街の平穏を脅かす存在は、私がすべて凍らせる」
氷のトップエース・羽衣緋雪は、右手に生成した『氷の太刀』で、眼前に立ちはだかるキメラたちを無表情で次々と斬り伏せていた。
服に返り血を一滴もつけない、完璧な『絶対氷結』。
「ふぅ。これでこのエリアは片付いたわね。早く寮に戻って、明日のデートに着ていく服の最終チェックをしなくちゃ」
太刀を消滅させた緋雪は、周囲の安全を確認し、小さく息を吐いた。
しかし、白百合や三神姉妹のカバーが追いつかないエリアでは、民間人への被害が広がりつつあった。
「キャアアアアッ!」
「誰か、助けてくれっ!」
隣町の大通り。逃げ惑う人々の背後に、血走った目をしたキメラ魔法少女が迫っていた。
崩れた建物の瓦礫の下敷きになり、逃げ遅れた子供とその母親に、鋭い爪が振り下ろされようとした、その時。
——ズゥゥゥゥンッ!!
突如として、ゴーストが舞い降りた。
『ギャ……ッ!?』
民間人に襲いかかろうとしていたキメラが、まるで巨大な見えない手で地面に押し付けられたかのように絶叫を上げて動きを止める。
「え……?」
怯える親子の前に、空から静かに舞い降りた影があった。
漆黒のゴシックドレスに身を包んだ絶世の美少女——最強の死神・ゴーストである。
(買い物の途中だったけれど、さすがにこの惨状を見過ごすわけにはいかないわね……!)
零は、一般人としての買い物を一時中断し、死角に入ってゴーストに変身していた。
ゴーストは無言のまま瓦礫を撤去すると、親子の頭上を覆っていた重い瓦礫が安全な場所へと投げ出された。
「……怪我はない? すぐに安全な場所へ逃げなさい」
底知れない、しかしどこか慈愛に満ちた声。
「あ、ありがとうございます……!」
親子が涙ながらに頭を下げて逃げていくのを横目に、ゴーストは再び足元の影へと沈み込んだ。
空間跳躍による『影移動』。
次々と街の各所に出現しては、逃げ遅れた人々を重力魔法で救い出し、キメラの動きを封じていく。
そして、その神出鬼没の救助活動は、やがて苦戦を強いられていた協会部隊の戦場へと至った。
「はぁっ、はぁっ……! ダメ、数が多すぎる……!」
凛花が膝をつき、三体のキメラの爪が彼女に迫った瞬間。
再び、圧倒的な『深淵の重圧』が空間を歪ませた。
メキメキメキッ!!
キメラたちが一瞬にして地面に縫い付けられ、完全に沈黙する。
「ゴ、ゴースト……!」
凛花が息を呑んで見上げると、ビルの屋上のヘリにゴーストが静かに佇んでいた。
(やれやれ。協会の子たち、苦戦してるじゃない。少しだけ手伝っておかないと、街の被害が広がっちゃうわね)
ゴーストは眼下のキメラたちと凛花を一瞥すると、踵を返してスゥッと姿を消した。民間人の避難誘導が大方済んだため、買い物の続きに戻ることにしたのだ。
しかし。
ゴーストが広範囲に魔力を放ち、民間人の救助とキメラの制圧を行った『その瞬間』。
「——神の御手が下された! 続け、信徒たちよ!!」
「——ゴースト様の露払いは済んだわ。星監のエージェント、一斉掃討を開始しなさい!!」
街の裏側に潜んでいた、福音の鐘と星監の部隊が、一斉に牙を剥いた。
ルディアとヴィクトリアは、ゴーストが純粋な善意で民間人や協会を助けたことなど知る由もない。ただ、「ゴーストの魔力が街の広範囲に放たれた=神使の平穏な休日を脅かす全ての障害を排除する、総攻撃の合図」と解釈したのだ。
ズドォォォォンッ!!
バリバリバリッ!!
特務執行官が潜伏していたビルの屋上に、ルディアの極太の光線が降り注ぎ、政府の暗殺部隊を武装ごとまとめて消し飛ばす。
路地裏に隠れていた残存のキメラたちには、ヴィクトリアの紫電の雷霆が容赦なく叩き込まれ、黒服のエージェントたちと福音の暗殺部隊が完璧な連携で制圧・拉致していく。
本来ならお互いの首を狙い合うはずの二大組織が、互いの死角をカバーし合い、政府の暗部を次々と冷酷に『清掃』していくその光景は、まさに圧倒的だった。
その一部始終を、白百合の作戦指令室のモニターで監視していた新実由鶴は、総毛立つような戦慄を覚えていた。
「……信じられません。ゴーストが前線に現れ、民間人を保護しつつ重力魔法を放ったその『直後』……完全に連動する形で、福音の鐘と星監の部隊が一斉に動き出しました」
由鶴の報告に、通信越しの飛鳥や緋雪も息を呑んだ。
「ただの共闘じゃないわ。政府の特務執行官の配置、キメラの死角……すべてを完全に把握し、二つの巨大組織がまるで『一つの軍隊』のように統率された動きを見せています」
由鶴は、カタカタと震える指でキーボードを叩きながら、絶望的な畏怖を込めた結論を口にした。
「間違いない……。ゴーストは、あの二大組織を完全に支配し、リアルタイムで指揮を執っています。自ら前線に立って民間人を救い、協会に恩を売りつつ、裏社会の軍隊を動かして敵対勢力を的確に排除した。……彼女こそが、この未曾有のテロを盤上で踊らせ、瞬時に鎮圧してのけた、裏社会の『真の総帥』です……!!」
零としては、ただ休日の買い物の途中で「民間人が危なかったから重力魔法で助けただけ」である。
ルディアとヴィクトリアとしては、ただ零の買い物の動線を「町内会のノリで徹底防衛しただけ」である。
しかし、その絶妙すぎるタイミングの一致と、裏社会の恐るべき組織力は、表社会のエースたちに「ゴースト=慈悲と冷酷を併せ持つ、世界最悪の犯罪シンジケートの絶対的君主」という疑念を、もはや揺るぎない『確信』へと昇華させてしまっていた。
そんな、国家の陰謀が血塗られた粛清によって粉砕され、表社会が恐怖と畏敬に震え上がっている頃。
「ふぅ……。和からしもネギも、無事にゲットできたぞ」
三神零は、路地裏で元の姿に戻ると、スーパーの袋を提げて家路についていた。
遠くで鈍い爆発音が響き、黒煙が上がっているのが見えたが、零は「協会や白百合の皆が頑張ってくれたんだな。街の被害も最小限で済んで本当によかった」と、心の中で密かに安堵していた。
(しかし、キメラなんて不気味なものを大量にばら撒くなんて……水面下で、何か大きな動きがある気がするな。しばらくは警戒しておかないと)
最強の死神としての鋭い勘が、不穏な未来を予感させた。




