第百七十五話
うだるような夏の陽射しがアスファルトを焦がし、入道雲が青空に高くそびえ立つ週末。
市内最大規模を誇る超大型レジャープール施設『アクアパラダイス』は、夏休みを満喫する家族連れや学生、カップルたちの熱気と歓声で溢れかえっていた。
波の出る巨大プール、全長二百メートルを超える流れるプール、何本もそびえ立つウォータースライダー。色とりどりのパラソルが並ぶプールサイドには、浮き輪を持った人々がひしめき合い、水しぶきと太陽の光が乱反射して視界のすべてがキラキラと眩しく輝いている。
「……計算通りだ。造波装置から発生する波のエネルギーは、プールの端に到達する頃には壁に当たって減衰する。つまり、この位置にいれば波の周期は安定し、水面の揺らぎのパターンを完全に予測できる。これなら……これなら精神を統一できるはずだ……」
賑やかな喧騒から少し離れたプールサイドの待ち合わせ場所。
黒と紺のスポーティな海パン姿に、日焼け対策の薄手で黒いラッシュガードを羽織った三神零は、腕を組んで水面を睨みつけながら、ブツブツと流体力学と波の周期の計算を呟いていた。
相手は表社会(白百合の盾)のトップエースであり、日本中が振り向くほどの絶世の美少女、羽衣緋雪である。
そんな彼女と水着姿で二人きりのデート。ただでさえ平穏な日常を愛する一般人にとって、それは特級魔獣との連戦以上に胃が痛くなり、理性が極限まで試される過酷なミッションだった。
だからこそ零は、彼女が来る前に必死に物理計算をすることで、健全な男子高校生としての防衛本能(煩悩退散)をフル稼働させていたのである。
「お待たせ、零くん!」
しかし、そのささやかな防衛線は、背後からかけられた風鈴のように澄んだ声によって、開始一秒で木端微塵に粉砕されることとなる。
零がビクッと肩を揺らして振り返った瞬間。
そこには、真夏の太陽の下に舞い降りた氷の妖精のような、息を呑むほど美しい少女が立っていた。
「……っ!」
零は思わず言葉を失い、目を丸くした。
緋雪が身に纏っていたのは、淡い水色と白を基調とした、上品なフリルがあしらわれたビキニタイプの水着だった。
普段の露出の少ない制服姿や、全身を覆う魔法少女の戦闘服からは想像もつかないほど、美しくしなやかに引き締まったボディライン。それでいて女性らしい柔らかな丸みを帯びた曲線が、水色の生地によって完璧に引き立てられている。
なにより目を引くのは、彼女の代名詞でもある透き通るような白い肌だ。真夏の強烈な日差しを受けて、まるで真珠のように艶やかに輝いている。少しだけ結んだ銀色の髪が風に揺れ、うなじから肩にかけての華奢なラインを露わにしていた。
「ごめんなさい、待たせちゃったわよね。その……日焼け止めを塗るのに、少し時間がかかっちゃって……」
緋雪は顔を真っ赤に染め上げ、恥ずかしそうに身体をもじもじと捻りながら、上目遣いで零を見つめた。
「……変じゃ、ないかしら?」
その破壊力たるや、規格外である。
もしここが戦場なら、この恥じらいの表情と視線一つで、並の魔獣が三体は浄化されて消滅するだろう。
(いかん! 見とれるな俺! 相手は日本の平和を守るトップエースだぞ!)
零は脳内で緊急警報を鳴らし、必死に理性を総動員して、なんとか平静を装いながら口を開いた。
「いや……全然変じゃないよ。すごく似合ってる」
「ほ、ほんと……?」
「うん。その、とっても可愛いと思う。水色、すごく綺麗だし……羽衣さんの雰囲気にぴったりだ」
照れ隠しで鼻の頭を掻きながら、それでも真っ直ぐに伝えた零の素直な称賛。
その言葉を聞いた瞬間、緋雪は花が咲いたような、氷が溶け出すような極上の笑顔を浮かべた。
「ふふっ、ありがとう、零くん……! すごく、嬉しい」
(飛鳥たちにアドバイスをもらってよかった……! 鈴乃ちゃんの言う通りに布地の少ないマイクロビキニなんて着てたら、絶対恥ずかしくて顔から火を吹いて、今頃プールの底に沈んでたわ!)
緋雪は心の中で仲間たちに深い感謝の念を送りながら、弾むような足取りで零の隣に並んだ。
「それじゃあ、行こっか! まずはどこから回る?」
「そうだね、まずは波の出るプールで身体を慣らそうか」
巨大な扇形をした波の出るプールは、大勢の客でごった返していた。
スピーカーから陽気なアップテンポの音楽が流れ、数分おきに奥の造波装置から人工の波が押し寄せてくる。
「わっ、冷たくて気持ちいい!」
膝下まで水に浸かった緋雪が、両手で水を掬って零の胸元へとパシャパシャとかけた。
「うおっ、冷たっ! やったな羽衣さん!」
零も童心に返り、笑顔で水をかけ返す。
少しずつ深いところへ進んでいく二人。水深が胸の高さに達した頃、ひと際大きな波が「ザバーン!」と音を立てて押し寄せてきた。
「きゃっ!?」
足を取られ、バランスを崩して後ろに倒れそうになる緋雪。
しかし、その背中が水面に打ちつけられるより早く、零のたくましい腕が緋雪の腰をしっかりと抱きとめた。
「危ない。大丈夫?」
「あ……ご、ごめんなさい、零くん。ありがとう……」
緋雪は、自分の腰に添えられた零の腕の力強さと、密着したラッシュガード越しの胸板の硬さに、ドクンと心臓を大きく跳ねさせた。
普段はエプロン姿で台所に立ち、主夫として料理をしている温和な彼だが、その肉体は鍛え抜かれたアスリートのように引き締まっている。ゴーストとしての特S級の体幹とバランス感覚を持つ零にとって、水中で人一人の体重を支えることなど造作もないことなのだ。
(零くん、すっごく男らしい……)
緋雪が顔を赤くして熱っぽい視線で見つめていると、零は慌てて手を離し、「波が強いから、気をつけてね」と照れくさそうに視線を逸らした。
その後は、二人で大きな浮き輪を一つ借りて、流れるプールへと移動した。
透明な水流に身を任せ、二人で一つの浮き輪の端と端に掴まりながら、ゆっくりとコースを周回していく。
波の出るプールとは違い、ここでは穏やかな時間が流れていた。
「ふふっ、流れるプールって、何もしなくても進んでいくから不思議な気分ね」
「そうだね。これ、浮き輪の上で昼寝したら最高だろうな」
「あはは、零くんお疲れ気味? 最近スーパーの特売日、忙しかったの?」
「まあね。この前は特売の豚肉を巡って、おばちゃんたちとの争奪戦が激しくてさ。なんとか勝ち取って生姜焼きにしたんだけど」
魔法少女としての命懸けの戦いも、裏社会のトップたちとのカオスなご近所付き合いも関係ない。
そこにあるのは、どこにでもいる普通の高校生の、他愛のない、けれど何よりも尊い日常の会話だった。
水着姿の二人の距離は近く、水面下では時折、足先が触れ合いそうになる。そのたびに零はビクッとして(内心でスーパーヤオヨシのテーマソングを大音量で流しながら)理性を保とうと必死になっていた。
ふと、緋雪が浮き輪に顎を乗せ、幸せそうに目を細めて零を見つめた。
「……私ね。こうして零くんと普通にお話して、笑い合える時間が、すごく好きなの」
「……俺もだよ。羽衣さんが楽しんでくれてるなら、嬉しいよ」
魔法少女という重い十字架を背負う彼女が、今だけはただの十七歳の少女として無邪気に笑っている。その笑顔を守りたいと、零は心の底から純粋に思った。
お昼時。
プールサイドの木陰にあるパラソルの下で、二人はデッキチェアに座って休憩を取ることにした。
「お昼ご飯、プールの売店で焼きそばでも買ってくる?」
緋雪が立ち上がろうとしたのを、零が手で制した。
「あ、いいんだ。実は……お弁当、作ってきたんだよね」
零が足元の保冷バッグのチャックを開けると、中から二段重ねの大きなランチボックスと、冷えた麦茶の入った水筒が現れた。
蓋を開けると、そこには彩り豊かなメニューがぎっしりと詰まっていた。
新鮮なイチゴとキウイ、たっぷりの生クリームを挟んだ萌え断のフルーツサンド。特製のタレに一晩漬け込んだ、衣がサクサクの鶏の唐揚げ。星型にくり抜かれた卵焼きに、カラフルなミニトマトのマリネ。
「うわぁ……っ!! す、すごいっ!!」
緋雪は目を輝かせ、乙女のように両手を口元で組んだ。
「これ、全部零くんが作ったの!? お店で売ってるみたい……!」
「まあ、料理は得意だからね。保冷剤もたっぷり入れてきたから、痛んでないと思う。羽衣さん、甘いもの好きだって言ってたから、フルーツサンドにしてみたんだけど」
「いただくわ! 絶対美味しいに決まってるもの!」
緋雪は濡れた手をタオルで拭くと、フルーツサンドを一つ手に取り、小さな口でパクッと頬張った。
途端に、緋雪の瞳がパァン!と見開かれる。
「んん〜〜っ!! おいし〜〜っ!!」
生クリームの優しい甘さと、フルーツの爽やかな酸味が絶妙なバランスで溶け合い、パンのフワフワ感も完璧に保たれている。
「唐揚げも食べてみて。冷めても美味しいように、少し下味を濃くして片栗粉を多めにしてあるから」
「パクッ……ん! サクサクでジューシー! 零くん、本当にお料理上手なのね……お嫁さんに来てもらいたい……ハッ!?」
無意識にとんでもないプロポーズ(逆)を口走ってしまった緋雪は、ボンッ!と頭から湯気を出して俯いた。
「あ、あわわわ! 違、違うの! 今のはその、私が零くんのお嫁さんに……じゃなくて! とにかく美味しいってことで!」
「あ、あはは……喜んでもらえてよかったよ」
零も顔を真っ赤にして苦笑いする。
周囲の一般客たちからは、「いい雰囲気のカップルだなあ」「あんなイケメンでお弁当作ってくれる彼氏、最高じゃん」という好意的な視線が向けられていたが、二人にはそれに気付く余裕すらなかった。
昼食後は、プールの一番の目玉である巨大なウォータースライダーに挑戦した。
専用の二人乗りボートに乗るため、長蛇の列の階段を上っていく。濡れた階段は滑りやすく、人の密度も高いため、二人の距離は必然的にゼロ距離に近づいた。
「わっ……」
前の客が急に立ち止まり、緋雪がバランスを崩して零の腕にしがみつく。
「ご、ごめんね、近くて……」
「大丈夫。はぐれないように、掴まってていいよ」
零の優しい言葉に、緋雪は心臓が口から飛び出そうになるのを必死に抑えながら、そっと零のラッシュガードの袖を握りしめた。
いざ順番が来て、二人乗りボートに前後で乗り込む。
前が緋雪、後ろが零。必然的に、零の足の間に緋雪が座るような体勢になる。
「い、行くよ羽衣さん!」
「う、うん!」
監視員の合図とともに、ボートが急勾配のチューブへと滑り出した。
「きゃあぁぁぁぁぁぁっ!!」
「うおおおおぉぉぉっ!!」
真っ暗なトンネルの中を、凄まじいスピードで旋回しながら落下していく。右へ左へ激しく揺さぶられ、大量の水しぶきを全身に浴びる。恐怖とスリルで、緋雪は無意識に後ろの零の胸にギュッと背中を押し付けていた。
零もまた、緋雪を落とすまいと無意識に両手で彼女の腰の横のボートの取っ手を強く握りしめ、まるでバックハグをしているような体勢のまま、ゴールプールの水面へと豪快にダイブした。
ザッバーーーーーンッ!!!
「ぷはっ! あー、びっくりした!」
「す、すごかったね……!」
水浸しになりながらボートから降りた二人は、お互いの乱れた髪を見て、フフッと自然に笑い合った。
密着してしまったことへの照れくささも、スライダーの爽快感がすべて吹き飛ばしてくれたようだった。
やがて時は過ぎ、夕方近く。
うだるような暑さも和らぎ、茜色に染まり始めた空の下。
一般客の数もまばらになり始めたプールサイドのデッキチェアに並んで座り、二人は売店で買った冷たいトロピカルジュースを飲んで休憩していた。
「今日は誘ってくれてありがとう、羽衣さん。すっごく楽しかったよ」
「ううん、私の方こそ。零くんと一緒に来られて、本当に嬉しかった。お弁当も、最高に美味しかったし」
緋雪が、ストローから口を離して優しく微笑む。
夕日に照らされた彼女の横顔は、言葉を失うほど美しかった。
(……今だわ)
緋雪の心臓が、再び早鐘のように鳴り始めた。
夕暮れのプールサイド。二人きりの空間。雰囲気は完璧だ。飛鳥や真奈たちに背中を押された記憶が蘇る。
裏社会のヤバい女たちが零の周囲を固めているかもしれない。ゴーストという最強のライバルがいるかもしれない。
でも、そんなことは関係ない。自分のこの純粋な気持ちを、今、はっきりと彼に伝えるのだ。
「あのね、零くん……私」
「ん? どうしたの?」
ジュースを置いて振り返った零の目を、緋雪は真っ直ぐに見つめ返した。
膝の上で、ギュッと両手を握りしめる。
「私……零くんのことが、ずっと——」
——ズドォォォォォンッ!!
緋雪の魂からの告白が紡がれようとした、まさにその瞬間。
二人の目の前にある波の出るプールの中央から、爆発音のような轟音とともに、巨大な水柱が天高く噴き上がった。
「「キャアアアアアアッ!?」」
「ば、化け物だァァァッ!!」
平和だったプールの空気が、一瞬にして阿鼻叫喚の地獄へと変わる。
逃げ惑う一般客たちの悲鳴が響き渡る中、濁った水しぶきの中から姿を現したのは——全長四メートルを超える、醜悪な半魚人のような水棲型の魔獣だった。
全身を覆う緑色の鱗、鋭い牙が並んだ巨大な顎、そして四本の水掻きのついた腕。強烈で禍々しい魔力の波動が、プールサイドの空気を一気にビリビリと震わせる。
「ま、魔獣!? どうしてこんな街中のプールに!」
零が驚愕の声を上げた。
スマホのアラートすら鳴らない、完全な奇襲。
ゴーストとして対応しようにも、ここは逃げ遅れた一般人が多すぎるし、変身するための死角がどこにもない。このままでは、被害が出る。
「みんな、落ち着いて非常口へ向かって! 走らないで!」
零は咄嗟に立ち上がり、一般人としての務めである避難誘導を開始しようとした。
しかし。
シューーーーーッ……。
彼の隣のデッキチェアから、突如としてプールの水を凍りつかせるほどの、絶対零度の冷気が周囲に撒き散らされた。
「…………は?」
それは、地を這うような、底知れない怒りに満ちた低い声だった。
零が恐る恐る振り返ると、そこには——。
普段の清楚で凛とした顔つきが完全に抜け落ち、般若のような、いや、世界を滅ぼす魔王のような凄まじい形相の、羽衣緋雪が立っていた。
(えっ!? 羽衣さん!? 顔、顔が怖い!! 見たことないくらいブチギレてる!!)
一生に一度の大切な告白。
勇気を振り絞り、ついに彼に想いを伝えようとしたその至高の瞬間を、下等な化け物に邪魔されたことへの、純度100%の怒り。殺意。
表社会の最強戦力、『氷の女王』の絶対的な逆鱗に、魔獣は最悪のタイミングで触れてしまったのだ。
「……私の、零くんとの、大切な時間を……よくも。よくもよくもよくもよくもォォォォッ!!」
パキキキキィィィッ!!
緋雪が右手を横に薙ぐと、大気中の水分が急速に凍結し、彼女の身の丈ほどもある鋭く巨大な『氷の太刀』が顕現した。
水色のフリルビキニという極めて無防備な姿でありながら、彼女が放つプレッシャーは特級魔獣すら震え上がるほどの威圧感だった。
緋雪はデッキチェアを蹴り飛び、弾丸のような速度で魔獣へと跳躍した。
『ギシャァァァ——』
「黙れ下等生物ッ!! 粉々に砕け散りなさい!!」
魔獣が威嚇の咆哮を上げる暇すら与えない。
緋雪は空中で身を捻ると、すれ違いざまに魔獣の右腕と左腕を、一太刀で根元から斬り飛ばした。
『ギャガァァァッ!?』
鮮血が噴き出す暇すらない。斬るたびに、太刀から放たれる極低温の魔力が傷口から侵入し、魔獣の体液を瞬時に凍結させていく。
緋雪は着水することなく、凍りつきかけた水面を蹴って再跳躍し、空中で独楽のように回転しながら、目にも止まらぬ連続斬撃を魔獣の巨体に叩き込み続けた。
シュババババババッ!!
「消えろ! 砕けろ! 私の時間を返せぇぇっ!!」
それはもはや魔法少女の戦闘などではなく、ただの一方的な『解体作業』だった。
トップエースの圧倒的な力量と、告白を邪魔されたブチギレ状態(リミッター解除)が合わさった結果、四メートル級の魔獣は反撃一つできず、あっという間に全身をズタズタに切り刻まれ、巨大な氷の彫像へと変えられてしまった。
しかも驚くべきことに、緋雪は完全にブチギレて怒りに我を忘れているように見えながらも、氷の破片や魔獣の残骸が、逃げ遅れた一般人や零のいる方向へ絶対に飛ばないように、完璧な太刀筋と魔力コントロールで軌道を制御していたのだ。
「——『絶対氷結』!!」
緋雪が氷の太刀を上段から一気に振り下ろすと。
氷漬けになった魔獣の巨体は、パキンッ!という甲高い音を立てて、文字通り微塵の氷屑となって、誰もいないプールの奥へと散っていった。
(……す、すげえ……。羽衣さん、あんなに強かったのか。ゴーストの時より容赦ないぞ……)
一方、その凄まじい蹂躙劇を横目に見ていた零は。
純粋な『一般人』としての機転と行動力を発揮し、懸命に避難活動を支援していた。
「みんな、落ち着いてこっちへ! 魔獣は魔法少女が抑えてくれてるから、走らなくて大丈夫だ!」
「お兄ちゃん、パパがはぐれちゃった……!」
「大丈夫だ、泣かないで。非常口のところに案内所の人がいるから、一緒に探しに行こう。ほら、手を出して」
パニックになって逃げ惑う子供たちや家族連れに、零は落ち着いた声で淀みなく呼びかけ、安全な非常口へと誘導していく。
濡れたプールサイドを走る人々が転びそうになれば、持ち前の運動神経を活かしてすぐさま駆け寄り、優しく抱き起こした。
魔法を使って超人的な働きをしたわけではない。ただひたすらに、周囲の状況を冷静に観察し、声を張り上げ、人の流れを整理しただけだ。だが、その一般人としての的確すぎる支援があったからこそ、避難時の二次被害は完全に防がれていた。
緋雪が魔獣を完全に駆逐し終えた頃には、プールサイドの一般客は、誰一人として擦り傷一つ負うことなく、安全圏への避難を完了していたのである。
「ふぅ……。なんとか誰も怪我なく済んだな」
非常口の安全を確認し、零が安堵の息を吐いていると。
氷の太刀を消滅させた緋雪が、ハッとして我に返り、顔面を蒼白にさせながら慌てて零の元へと駆け寄ってきた。
「れ、零くん! 怪我はない!? ご、ごめんなさい、私ったらついカッとなって、とんでもなく怖いところを見せちゃったわよね……!」
先ほどまでの修羅の形相はどこへやら。いつもの清楚で、少しオドオドとした『氷の女王』に戻った緋雪が、涙目で零を見つめてくる。
怒り狂って魔獣を細切れにした自分の姿を見て、零くんは引いてしまったのではないか。化け物だと思われて、嫌われてしまったのではないか。
そんな不安と後悔でいっぱいの緋雪に対し、零は優しく微笑んで首を振った。
「いや、全然怖くなかったよ。むしろ、羽衣さんが一瞬で皆を守ってくれたんだ。やっぱりトップエースはすごいな。かっこよかったよ」
「えっ……かっこ、よかった?」
「うん。それに、俺が皆の避難を手伝ってる間、氷の破片が絶対にこっちへ飛んでこないように、ちゃんと軌道を調整して戦ってくれてたろ? 周りのことまで見えてて、すごく助かった。さすがだね」
零は、彼女が怒りの中でも決して失わなかった『魔法少女としての優しさと技術』を、はっきりと称賛した。
その言葉を聞いた瞬間、緋雪の目からポロリと大粒の涙がこぼれ落ちた。
自分の戦いを、ただ怖いだけでなく、守るための力としてちゃんと見てくれていたこと。それが何よりも嬉しかったのだ。
「あ、あれっ、泣かせるつもりじゃなかったんだけど……ごめん!」
零が慌ててタオルを取り出そうとすると、緋雪は首を横に振って、嬉しそうに涙を拭った。
「ううん……違うの。嬉しかったの。零くんが、そう言ってくれて」
少しだけ沈黙が降りる。
夕日の差し込む静かなプールサイドで、零は少し照れくさそうに頬を掻きながら、ふと思いついたように口を開いた。
「あ、あのさ。もしよかったらなんだけど……次から、『緋雪さん』って呼んでもいいかな?」
「えっ……!」
緋雪が、驚きに大きく目を見開く。
「その……今日一日、すごく楽しかったし。もっと仲良くなれたらいいなって思ってさ。羽衣さんじゃ、なんか少し堅苦しい気がして」
「い、いいの……? 私なんかが、名前で呼ばれても……」
「もちろん。それに——」
零は、少しだけ悪戯っぽく笑った。
「もしよかったら、次は遊園地とか行かない? あそこなら人が多すぎて魔獣も出にくいし、今日みたいに邪魔されることもないと思うんだ」
ドクン、と。
緋雪の心臓が、今日一番の大きな音を立てて跳ねた。
名前呼びの提案。そして、次回のデートの約束。
魔獣のせいで告白こそ出来なかったが、零の方からこうして距離を縮めてくれたことが、緋雪にはたまらなく幸せだった。
「……うんっ! 絶対、絶対に行きたい! 約束だよ、零くん!」
緋雪は、水着の色に負けないくらいにボフンッと顔を真っ赤にしながら、満面の笑みで頷いた。
魔獣の襲撃というトラブルはあったものの。
夕暮れのプールサイドで、二人の距離は確実に、そして甘く縮まっていた。
——なお、この後日。
魔獣発生の事後処理として、プールの監視カメラの映像を確認することになった白百合の情報班・新実由鶴が
「……この三神零という少年。パニック状態の中で、一切の無駄なく完璧な動線で一般人の避難誘導を完了させていますね……。魔法を使えないただの一般人にしては、肝が据わりすぎています……」
と、彼の非凡すぎる行動力に少しだけ疑問と興味を抱き、さらなる詮索を始めるきっかけになるのだが、それはまた別のお話である。




