第百七十三話
温泉旅行のドタバタから数日後。
学校からの帰り道、三神零は学生鞄を揺らしながら、ため息交じりに夕暮れの街を歩いていた。
(羽衣さんとのプール、来週末か……。結局、断りきれずにOKしちゃったけど、水着のトップエースと二人きりなんて、俺の一般人としての理性が保つかどうか……)
頭を抱えながら歩いていると、やがて行きつけのスーパー『ヤオヨシ』の看板が見えてきた。
「おっと、今日は豚肉の特売日だったな。急いで買わないと売り切れる」
主夫としてのスイッチを切り替え、足早にヤオヨシへ向かおうとしたその時。
——ピロロロッ! ピロロロッ!
零のスマホが、けたたましい警告音を鳴らした。
それは、自作の『魔獣探知アプリ』の極秘アラートだった。
「……マジか。こんな街中で魔獣発生!?」
画面を確認すると、魔獣の出現座標は現在地からすぐ近く——ヤオヨシの裏手にある、現在工事がストップしている廃工場エリアだった。
(こんなところで暴れられたら、ヤオヨシの特売品がダメになるし、何より一般人に被害が出る!)
零は周囲を見回し、監視カメラの死角となっている薄暗い裏路地へと素早く駆け込んだ。
周囲に誰もいないことを確認すると、服の下から恩人・周防凛音の遺した『ペンダント』を引きずり出し、強く握りしめる。
紫色の魔力が彼を包み込み、次の瞬間、そこには漆黒のゴシックドレスを身に纏った絶世の美少女、最強の死神・ゴーストが立っていた。
「……行くわよ」
ゴーストは、足元の『影』を見下ろした。
彼女が持つ魔法の一つ——空間跳躍魔法『影移動』。
ゴーストの身体が、水面に沈むように音もなく自身の影の中へと吸い込まれ、完全にその姿を消した。
現場にゴーストが影からヌルリと浮上するようにして現場へ空間跳躍すると、そこはすでに『戦闘』と呼ぶにはあまりにも一方的な蹂躙の跡地と化していた。
「——ヴィクトリア・ローゼンベルグ! あなた、わたくしの獲物を横取りする気ですか! ヤオヨシの平和を守るのはパートであるわたくしの役目ですわ!」
「——寝言は寝て言いなさい、ルディア・ロンディニウム! 三神くんの台所を守るのは、有能な隣人であるこの私よ!」
廃工場の中心。本来なら魔法少女の小隊で当たるべき二メートル級の強力な四つ足の魔獣が、白目を出して地面に転がっていた。
その魔獣を挟んで、黄金の長髪をなびかせるルディアと、プラチナブロンドを揺らすヴィクトリアが、お互いをフルネームで怒鳴りつけながら激しく睨み合っている。
ズドォォォォン!!
ルディアが放った『聖なる光』が魔獣の右半身を消し飛ばし。
バリバリバリッ!!
ヴィクトリアが放った『紫電の雷霆』が魔獣の左半身を黒焦げにする。
二人は口喧嘩をしながら、腹いせのように(あるいは零へのアピール競争のように)、すでに虫の息の魔獣に向かってオーバースペックな極大魔法を交互に叩き込んでいた。
(……相変わらず、バチバチに仲が悪いわね、あの二人。ていうか、魔獣が可哀想になってきたわ)
ゴーストは、呆れ果てて小さくため息をついた。
放っておけば廃工場ごと消し飛びかねないため、ゴーストはコツン、とヒールの音を鳴らして闇の中から歩み出た。
「——騒がしいわね。そこまでにしなさい」
底知れない深淵の響きを持った、威厳ある声。
その声を聞いた瞬間、ルディアとヴィクトリアはビクッと肩を震わせ、喧嘩をピタリとやめて振り返った。
「「ああっ……!!」」
漆黒のドレスに、誰もが目を奪われる絶世の美貌。圧倒的で神聖な魔力。
二人は、転がっている魔獣の残骸など完全にどうでもよくなったように、ゴーストの御前へと駆け寄り、その場に深々と、そして陶酔しきった表情でひざまずいた。
「おお……我らが神よ! このような薄汚れた場所へご降臨されるとは……!」
ルディアが、黄金の瞳を熱狂に潤ませて祈りのポーズをとる。
「ゴースト様。この程度の羽虫、私がすべて処理しておきました。あなたの御手を煩わせるまでもありませんわ」
ヴィクトリアも、紫の瞳をうっとりと細めて恭しく首を垂れる。
(うわぁ、やっぱりこのテンション、慣れないわ……)
心の中で引きつり笑いを浮かべる零だったが、表向きは『威厳ある死神』のロールプレイを崩すわけにはいかない。
ゴーストは、二人を見下ろしながら静かに言葉を紡いだ。
「あなたたちの働きは、見ているわ。……我が代行者からも報告を受けているの」
「「ッ!」」
その言葉が出た瞬間、二人の肩が大きく跳ねた。
「日頃から彼を手助けし、先日は温泉での休息の護衛まで買って出てくれたそうね。私からも礼を言うわ。ルディア・ロンディニウム。ヴィクトリア・ローゼンベルグ。よくやってくれているわね」
意図的に労うような響きを持たせて告げられたその言葉に。
ルディアとヴィクトリアの表情が、雷に打たれたように固まり、やがてボロボロと大粒の涙を流し始めた。
「ああ……あああっ!! もったいなきお言葉!! 神使たる三神くんをお守りするのは、信徒として当然の喜びにございます!!」
ルディアが、神使としての零の無事と、神からの直接の労いに感極まって地面に額を擦りつける。
「ゴースト様から直々の感謝……! あなた様と繋がりの深いエージェント零も、きちんと私の働きを報告してくださっていたのですね……っ! このヴィクトリア、身命を賭してさらなる防衛網を構築いたします!」
ヴィクトリアも、ゴーストの有能な右腕(と思い込んでいる)零の働きと、ゴースト本人の慈悲に顔を紅潮させ、ブルブルと震えて歓喜している。
(いや、ただの温泉旅行の引率のお礼を言っただけなんだけど……。相変わらずチョロいわね、この人たち)
零は、内心で大汗をかきながらも、フッと静かに微笑むような仕草を見せた。
「これからも、三神零のことを頼むわ。——じゃあね」
これ以上長居をしてボロを出す前に。
ゴーストは漆黒のドレスの裾を翻し、再び足元の影へとスゥッと沈み込んでいった。空間跳躍によって、音もなくその場から姿を消す。
「ああ……神よ……!」
「どこまでも美しく、気高きお方……!」
残された廃工場では、完全に昇天しそうになっている裏社会のトップ二人が、闇に溶けたゴーストの残り香に向かって、歓喜の涙を流しながら深く深く平伏し続けていた。
しかし。
その光景を、息を呑んで見つめている者たちがいた。
魔獣の発生を検知し、現場へと急行してきていた表社会の魔法少女たちが、ズラリと揃い踏みしていたのだ。
白百合の盾からは、羽衣緋雪、弓飛鳥、新実由鶴、只野真奈のエース陣。
そして魔法少女協会からは、周防凛花をはじめ、船戸真紀奈、湊春華、佐伯美羽ら、新体制のエース部隊の全員が集結していた。
「ドローンの映像解析、完了しました。……嘘でしょう。信じられないデータです」
由鶴が空中のホログラムキーボードを叩きながら、眼鏡の奥で冷や汗を流す。
「知ってるんですか、新実先輩……? あの、とんでもなく禍々しくて強大な魔力を放っているお姉さんたち」
凛花が、光の槍を下ろして震える声で尋ねた。
「……ええ。知識として存在は知っていましたが、ルディア・ロンディニウムは奈良で交戦したことがありますが、ヴィクトリア・ローゼンベルグは情報が少なく直接見るのは初めてです」
由鶴がゴクリと喉を鳴らす。
「協会本部の指名手配リストのトップに載っている、超S級の危険人物。極悪カルト教団『福音の鐘』の最高指導者と……世界的秘密組織『星監』のトップです」
「……えっ!? 裏社会の、二大トップが揃い踏み!?」
凛花が絶句する。
「あり得ないわ……。裏社会で血みどろの抗争を繰り広げているはずの二大トップが、どうしてゴーストに平伏しているの……?」
協会の参謀役である春華が、顔を青ざめさせた。
「ハッ! つまり、あのアタシたちを子ども扱いした最強の死神が、カルトと秘密組織を裏で操るトップだってことか……!」
氷のエース・真紀奈すら、その絶望的な事実を前に笑うしかなかった。
「うそでしょ……スケールが違いすぎる……」
美羽も雷の魔力を鈍らせてへたり込みそうになる。
「ええっ!? じゃあ、あの強くて優しいゴーストが、世界で一番悪い組織のボスなの!?」
真奈が巨大なハンマーを抱えて目を丸くする。
「真奈、警戒を解かないで。いつこっちに牙を向いてくるか分からないわよ」
飛鳥が白銀の長槍を構え直し、鋭い視線を向けた。
だが、真に恐怖と混乱に陥っていたのは、緋雪であった。
(ロンディニウムさんに、ローゼンベルグさん……。あの二人は、三神くんの身辺を守るために、私と『不戦協定』を秘密裏に結んだはず……!)
緋雪は、氷の太刀を握る手をガタガタと震わせていた。
零の隣人やヤオヨシのパートとして潜伏している彼女たちの正体と、その圧倒的な力を緋雪はすでに知っていた。だからこそ、愛する三神くんの平穏を守るため、バチバチに警戒し合いながらも休戦状態を保っていたのだ。
しかし、そんな誇り高き裏社会のトップ二人が、今、ゴーストに向かってまるで絶対的な『王』に傅く忠臣のように頭を垂れ、歓喜の涙を流していたのである。
(どうして……あの狂信者と過保護なお隣さんが、あんなにも完全に心酔して服従しているの……?)
緋雪の頭の中で、恐るべき推論が組み上がっていく。
(まさか。ゴーストは、あの『福音の鐘』と『星監』を裏で束ね、操っている……真の支配者だって言うの……!?)
「そんな……! 羽田空港で、あんなに優しくて気高い剣を振るっていたゴーストが、世界最悪の犯罪組織の総帥だったなんて……!」
凛花が、信じられないというように口元を覆う。
(三神くんの周囲を固める、裏社会のトップたち。そのさらに上に君臨するのが、ゴースト……。もしかして、三神くんを巡る最大のライバルは、ゴーストなの……!?)
緋雪は青ざめた顔で、ゴーストが消えた闇を見つめ続けた。
最強の死神。絶対回避の使い手。
そして、裏社会の二大組織を従える、世界の真の支配者。
表社会(協会・白百合)のエースたちの頭の中で、ゴーストという存在の底知れなさと恐怖(そして緋雪にとっては恋のライバルとしての強大さ)の解像度が、とんでもない方向へ、そして絶望的なまでに跳ね上がってしまった瞬間であった。
そんな、表社会と裏社会の勢力図を根本から揺るがす重大な勘違いが起きているとは露知らず。
ヤオヨシの前の路地裏で元の姿に戻った零は、学生鞄を拾い上げてホッと息を吐いていた。
「よし、とりあえずあの二人のフォロー(お礼)は完了したし、これで特売の豚肉を買いに行けるな。今日は豚の生姜焼きだ」
自身が『世界最悪の犯罪シンジケートの総帥』に祭り上げられていることなど微塵も気づかないまま、意気揚々とスーパーの自動ドアをくぐり、今夜の夕飯の献立に胸を躍らせるのであった。




