第百七十二話
(……よし。見なかったことにしよう)
破壊された結界も、消し飛んだ山肌も、両脇に密着してくるバスタオル姿の絶世の美女たちも。
すべてを視界からシャットアウトし、現実逃避の境地へと至った三神零は、スゥーッとお湯の中に肩まで沈んだ。
「ふう。これで静かになりましたわね。さあ、三神くん。続きを——」
「はぁ〜……やっぱりここのお湯は最高ですねぇ。山の静寂が身に染みるなぁ」
「「……」」
一般人としての尊厳と平穏を守るため、ひたすらに温泉の効能だけを味わうべく、ゆったりと目を閉じて極楽の表情を浮かべる零。
しかし、いくら特S級の死神としての強靭な精神力(と現実逃避スキル)を持っていようとも、彼は健全な男子高校生である。
右からはルディアの、左からはヴィクトリアの、豊満で柔らかな感触と甘い香りが容赦なく密着してくるのだ。おまけに温泉の熱気も相まって、零の体温と心拍数は限界を突破しようとしていた。
(だ、だめだ……頭が、クラクラしてきた……。いくらノーダメージ縛りでも、こればっかりは防ぎようが……)
ポコ、ポコポコポコ……。
ついに思考回路がショートした零は、完全にのぼせ上がり、白目を剥いて湯船の底へとブクブクと沈んでいった。
「きゃあっ!? 三神くん!?」
「しっかりしなさい、三神くん!!」
慌てたルディアとヴィクトリアが、バスタオルがはだけるのも構わず、お湯に沈んだ零の両腕を掴んで勢いよく引き上げた。
「大変ですわ、我らが偉大なる神の代行者……神使たる三神くんがのぼせてしまわれました! 宮子! 早く治癒魔法を!!」
「は、はいぃぃっ! すぐやりますぅぅ!」
教祖の怒声にビクッと肩を揺らし、湯船の隅で震えていた宮子が、半泣きになりながら零の胸元に手を当て、淡い緑色の治癒魔法(回復魔法)を流し込む。
ルディアが零の頭を膝枕し、ヴィクトリアがうちわ代わりに手で風を送り、ルカとリリアが心配そうに覗き込む。
そこはまさに、男の夢を煮詰めたようなハーレム状態の介抱空間であった。
——ガラッ。
「おーい、零ー。あんた長風呂すぎ……」
「お兄ちゃん、のぼせちゃうよー……って、えっ?」
あまりにも戻りが遅い弟を心配し、様子を見に来た姉の澪と妹の玲奈。
二人が脱衣所から顔を出した瞬間に目撃したのは、絶世の美女二人に膝枕と介抱をされながら、見知らぬ女(宮子)に胸を撫で回されている弟の姿であった。
「「…………」」
「あ、ち、違うんだ姉ちゃん、玲奈! これはその、ただのぼせちゃっただけで……!」
宮子の治癒魔法のおかげで意識を取り戻した零が、慌てて弁解しようとする。
しかし、姉妹の目は信じられないものを見るように見開かれていた。
「……ちょっと待って。ロンディニウムさんに、ローゼンベルグさん? 須藤さんに堀さん、それにルカちゃんとリリアちゃんまで!?」
澪が、全員の顔を指差して声を裏返らせる。
「ヤオヨシのパートさんたちに、お隣さん……」
玲奈も、目をパチクリと瞬かせた。
澪と玲奈は、スーパーでの買い物やご近所付き合いを通して、彼女たちとすっかり顔見知りになっていた。同業者である姉妹は、彼女たちが発する魔力の波長から「この人たちも魔法少女なんだな」ということにはとっくに気付いていた。
だが、いくら知り合いの魔法少女とはいえ、状況が異常すぎる。
「あんたたち……いくら偶然同じ旅館に泊まってるからって、なんでウチの弟と男湯で混浴してんのよ!?」
澪が、呆れと怒りが入り混じった声で叫ぶ。
「お兄ちゃん……トップエースの緋雪ちゃんだけじゃ飽き足らず、ゴーストと密会して、今度はご近所のお姉さんたち全員(しかもバスタオル一枚)とお風呂!? 最低!」
玲奈が、ゴミでも見るような目でポツリと呟いた。
「違う! この人たちが勝手に乱入してきただけで、俺は何も!!」
「はいはい、もういいから。あんたはお風呂から上がったら、また正座ね」
「理不尽!!」
こうして、神使の休息を守るはずの裏社会トップたちの過剰な警護は、零の「ご近所も巻き込んだ多重股の変態ジゴロ疑惑」を決定的なものにするという最悪の結末を迎えたのであった。
その夜遅く。
家族からの冷たい視線と、二日連続となる長時間の正座を耐え抜き、ようやく自分に割り当てられた個室へと解放された零。
「……はぁっ、はぁっ……」
彼は部屋に戻るなり、敷かれたふかふかの布団に向かって、ダイビングヘッドバッドの要勢で勢いよく飛び込んだ。
ボフッ!と顔を枕に埋め、手足をバタバタと暴れさせる。
(忘れろ忘れろ忘れろ!! ルディアさんとヴィクトリアさんの、あの密着した時の感触を……! 俺はただの一般人! 今考えるべきは素数!!)
健全な男子高校生としての『煩悩』を振り払うため、零は布団の中で必死にスーパーヤオヨシのテーマソングを脳内でリピート再生し、どうにか強制的に眠りにつくのだった。
そして、翌朝。
三神家の機嫌は(豪華な朝風呂の効果もあって)どうにか直っていたが、宿側の『おもてなし』はさらにエスカレートしていた。
「失礼いたします、三神様。お目覚めのマッサージはいかがでしょうか」
朝イチで部屋にやってきたのは、番頭姿の須藤だった。
「え? あ、はい。じゃあ須藤さん、少しだけ……」
零がうつ伏せになると、須藤の指が的確に零の肩や背中のツボを捉え始めた。
「あっ、そこ……すごく効く……」
「ふふっ。人間の骨格と筋肉の構造、そして『急所』の位置ならば、誰よりも熟知しておりますので。ミリ単位で完璧な圧をかけさせていただきますよ」
(……暗殺や拷問のスキルをマッサージに転用してないか、この人!?)
恐ろしいことを笑顔で宣う実行部隊長のゴッドハンドにより、零の身体は文字通りスライムのようにトロトロにほぐされていった。
「お兄さーん! 朝ごはんだよー!」
「はい、あーんして!」
マッサージが終わると、今度は仲居姿のルカとリリアが、部屋食の豪華な和朝食を運んできた。
しかも、なぜか箸を渡してくれず、双子が左右から伊勢海老の味噌汁や高級な焼き魚を直接零の口へと運んでくるのだ。
「いや、自分で食べられるから!」
「だーめ! 神使様には、食事で指一本動かさせるなって言われてるの!」
「完全介護のVIP待遇すぎるだろ!!」
至れり尽くせりを超越した、裏社会総出の異常なまでの接待。
澪と玲奈は「ロンディニウムさんたち、うちの弟を甘やかしすぎじゃない?」と呆れ半分で笑っているが、零としては休まるどころか冷や汗の止まらない朝であった。
そんな騒がしい朝食の最中。
零の浴衣のポケットに入れていたスマートフォンが、ブルッと短く震えた。
「ん? メッセージか」
リリアから玉子焼きを口に突っ込まれながら、零はスマホの画面を確認した。
メッセージの送り主は——『白百合の盾』のトップエース、羽衣緋雪だった。
『おはようございます、三神くん。朝早くにごめんなさい』
『あの……もし、来週末、予定が空いていたらなんですけど』
『超大型レジャープールのペアチケットをもらったんです。よかったら、一緒に行きませんか……?』
「——ブフォッ!!」
零は、口に入っていた玉子焼きを危うくルカの顔面に吹き出しそうになった。
(プ、プール!? 羽衣さんと、二人きりで!?)
クレープ屋、水族館に続く、トップエースからのダイレクトなデートのお誘い。
しかも今回は「プール」である。
つまり、あの圧倒的な美貌とスタイルを誇る『氷の女王』の水着姿を、目の前で直視しなければならないという過酷すぎるミッションを意味していた。
(昨日の夜、必死にルディアさんたちの煩悩を振り払ったばかりなのに……! また俺の一般人としての理性が試されるっていうのか!?)
「お兄さーん? どうしたの、顔真っ赤だよ?」
「お茶飲む?」
無邪気に首を傾げるルカとリリアの前で、零はブルブルと震える指でスマホの画面を見つめた。
断る理由はない。だが、行けば確実に心臓が持たない。
温泉旅行という名目で勃発した裏社会のドタバタ劇がようやく終わろうとしている中、最強の死神の平穏な日常は、次なる『水着イベント』という名の修羅場へと、休む間もなく突き進んでいくのであった。




