第百七十一話
「——ということで、母さんたち。この温泉旅行のチケット、家族みんなで行かないか?」
二股疑惑の追及により、深夜までリビングで正座をさせられていた翌日の夕方。
三神家のダイニングテーブルに、零は一枚の豪華なパンフレットと招待券を恭しく提示した。
事の発端は今日の午後。針の筵状態の家から逃げるようにスーパー『ヤオヨシ』の特売に向かった零は、パート店員のルディアから「商店街の福引で、高級温泉旅館『神休庵』の一棟貸し切りチケットが当たりましたの! 三神くん、ぜひご家族で!」と強引にチケットを渡された。
さらに帰宅直後、お隣さんのヴィクトリアからも「会社の福利厚生で、たまたま同じ温泉地の別館を借りたの。交通の手配も済んでいるから、三神くんたちもご一緒にいかが?」と、不自然すぎるタイミングで誘いを受けたのだ。
「温泉……しかも一泊十万は下らない超高級旅館の貸し切り……?」
母・奈々美が、パンフレットを見て目を輝かせる。
「ふふん。まあ、そこまで言うなら……昨日の『ゴースト密会事件』の埋め合わせとして、連れて行ってもらおうじゃない」
「お兄ちゃんのおごりなら、許してあげなくもないかな!」
姉の澪と妹の玲奈も、高級温泉の誘惑には勝てなかったらしく、ようやく機嫌を直してくれた。
(良かった……。ルディアさんとヴィクトリアさんには、後でめちゃくちゃお礼をしておかないと)
零は、安堵の息を吐き出した。
しかし、彼は気づいていなかった。
昨日のゴーストとの密会事案を奈々美から聞いたルディアがやはりと確信し、「我らが神使(三神くん)に、至高の休息を提供しなければ!」と結託し、裏社会の莫大な資金力に物を言わせて、その温泉旅館一帯を山ごと丸々『買収』したという恐ろしい事実に。
そしてその際に、ヴィクトリアも立ち聞きしていた。
翌日。黒塗りの高級送迎車に揺られ、三神家は山奥にある秘湯の宿『神休庵』へと到着した。
純和風の荘厳な門構え。しかし、門をくぐった瞬間、現役の魔法少女である澪と玲奈がピタリと足を止め、驚愕に顔を見合わせた。
「ね、ねえお姉ちゃん。これ……」
「ええ。とんでもない規模と強度の物理・魔力結界が張られてるわ。特級魔獣すら弾き返せるレベルの……何なの、この要塞みたいな防衛網は?」
それもそのはず。この旅館の周囲には、福音の鐘と星監の精鋭たちが総力を挙げて構築した「超絶結界」が張られており、完全なる『要塞』と化していたのである。
変身していなければ一切の魔法感知ができない零は、見えない結界の存在に気づくこともなく、姉妹の会話を聞いて呑気に首を傾げた。
「いらっしゃいませぇー! お兄さん!」
「心を込めておもてなしするね、お兄さん」
「……ぶっ!?」
さらに玄関で三神家を出迎えたのは、完璧な和装の仲居姿に身を包んだ、愛らしい双子の少女——福音の鐘の処刑人、ルカとリリアだった。
(……なんでカルト教団の暗殺者が仲居やってるんだ!?)
零は内心で激しく動揺したが、今の自分はあくまで「何も知らない一般人の男子高校生」だ。必死に知らないフリをして笑顔を引き攣らせる。
「え、えっと……君たち、なんでここで仲居を?」
「職場体験学習だよ!」と無邪気に笑う双子の背後から、ビシッとした番頭の着物を着た須藤真里(ヤオヨシの店員・実行部隊長)が現れ、「ご案内いたします」と深々と頭を下げる。
さらにその後ろでは、同じく仲居姿の堀宮子(福音の鐘・高級幹部)が、「教祖様がまた無茶苦茶なことを……」と胃を押さえながらプルプルと震えていた。
須藤と堀は、現役の魔法少女である姉の澪と妹の玲奈を見るなり、一瞬だけピリッと強い警戒の気配を漂わせた。だが、そこは裏社会を生き抜く幹部たち。すぐに完璧な営業スマイルを取り繕い、「お荷物をお持ちいたしますね」と愛想よく接客を始める。
廊下の角や庭の木陰には、黒服を着た星監のエリートエージェントたちが微動だにせず警護に当たっている。
(須藤さんに堀さんまで……。庭にいる黒服も、星監のエージェントだよな……)
全員、ゴーストとして交戦したり遭遇したりした相手ばかりである。まさに地雷原のような宿だが、零は一般人として完全に知らないフリを貫き、呑気に温泉を満喫することにした。
夜。
ルディアが手作りした超豪華な会席料理を堪能し、一度目の温泉を家族で楽しんだ後。
澪や玲奈たちが部屋で卓球を満喫している隙を突き、零は一人で「二度風呂」をキメるため、男湯の巨大な露天風呂へとやってきていた。
「はぁ〜……最高。これぞ命の洗濯だ……」
零は、湯船の縁に頭を乗せ、夜空を見上げながら深く息を吐き出した。
(今日はこのまま、誰にも邪魔されずに一時間くらいふやけよう……)
そう決意した、次の瞬間。
「「お兄さーん! 背中流してあげるー!!」」
「…………は?」
ガラッ!と男湯の引き戸が勢いよく開き、バスタオルを巻いただけのルカとリリアが、満面の笑みで露天風呂へと突撃してきた。
「お、おい!? 君たち、ここは男湯だぞ!?」
零はパニックになり、慌ててお湯の中に肩まで沈んで身を隠した。
「いいの! 一緒にお風呂に入るのは、家族のスキンシップだってルディア様が言ってたよ!」
「ルディアさん、子供に何を教えてるんだ!!」
ザバーン!と容赦なく湯船に飛び込んでくる双子。
零が「お願いだから向こうに行ってくれ!」と必死に距離を取ろうとした、まさにその時である。
「——ルカ、リリア! ヴィクトリア・ローゼンベルグ! あなたたち、三神くんの神聖なる入浴を邪魔するなんて万死に値しますわよ!!」
「——それはこちらの台詞よ、ルディア・ロンディニウム! 三神くんを困らせるような抜け駆けは、この私が許しません!」
「ヒィィィィッ! ルディア様、ヴィクトリア様! いくらなんでも男湯はマズイですぅぅ!!」
バーン!!と。
今度は露天風呂の木戸が完全に吹き飛び、湯けむりの中から、さらに三人の女性が姿を現した。
バスタオル一枚を豊満な身体に巻きつけ、バチバチと火花を散らすルディアとヴィクトリア。そして、その背後で胃を押さえながら半泣きでついてきた堀であった。
「……えっ。えええええええええええ!?」
零は、今日一番の絶叫を上げて湯船の隅へと後ずさった。
「ル、ルディアさん!? ヴィクトリアさんに堀さん!? なんで大人の女性が男湯に!?」
「ふふっ。暴走する双子と、この厚かましい女を止めるという『大義名分』がありますからね」
ルディアが、黄金の瞳を光らせながらお湯の中へと進み出る。
「あら、私は三神くんの隣人として、地域の治安を守るために来たのよ」
ヴィクトリアも、紫の瞳を細めてルディアを睨みつけながらお湯に入ってくる。
「も、申し訳ありません三神さん! 私は治癒魔法の待機をしろと教祖様に脅されて……!」
堀は顔を真っ赤にして、湯船の隅っこでガタガタと震えながら正座した。
ザブ、ザブと。
ルディアとヴィクトリアは、何事もなかったかのようにバスタオル姿でお湯に浸かると、逃げようとする零の右と左にスッと陣取った。さらに正面からはルカとリリアが「お兄さーん!」と迫ってくる。
(ち、近い近い近い!! なんだこの状況!?)
零の頭の処理能力が完全にショート寸前になる。
男湯の露天風呂に、カルト教団のトップ、処刑人の双子、泣いている高級幹部、そして世界的秘密組織のトップ。
もしここで、父五郎が「零、まだお風呂入ってるのか?」と様子を見に来たら、昨日の二股疑惑どころの騒ぎではない。
呑気でおおらかな父のことだから、「おっ、零も隅に置けないな!」と笑って許してくれるかもしれないが、その事実を悪気なく母の奈々美や姉妹に報告してしまったら最後だ。五股の変態ジゴロとして、今度こそ物理的に焼き殺されるに違いない。
「ヴィクトリア・ローゼンベルグ……。休戦中とはいえ、三神くんの隣は私の場所ですわ。少し離れなさい」
「お断りよ、ルディア・ロンディニウム。三神くんは私の有能な右腕なのだから、私が隣にいるのが自然でしょう?」
お互いをフルネームで呼び合い、犬猿の仲全開でバチバチと火花を散らす二人。
内容は極めて険悪だが、二人は零の腕にぴったりと密着したまま離れようとしない。
「お願いです、皆さん! 僕のことはいいから、今すぐ女湯に戻ってください! それに、いつの間に右腕に!?なにより!家族に見られたら僕の命が——!」
零が必死に懇願した、その時。
『ギシャァァァァァッ!!』
露天風呂の外——旅館を囲む山の斜面から、突如として魔獣の耳障りな咆哮が響き渡った。
要塞結界の存在に引き寄せられたのか、五メートル近い巨大な狼型の魔獣が、露天風呂の塀の向こう側に姿を現したのだ。
「ひぃっ!? ま、魔獣!?」
零は、一般人らしく(そして心底厄介なタイミングでの登場に)声を震わせた。
だが、零の心配は全くの杞憂であった。
「……チッ。下等生物が、我らが三神くんの至高の入浴を邪魔する気ですか」
ルディアが、先ほどまでの熱っぽい表情を一変させ、黄金の瞳に絶対零度の殺気を宿した。
「億死に値しますわね。塵一つ残さず消し飛ばしなさい」
ヴィクトリアも、紫の瞳を細めて冷酷に言い放つ。
二人は、お湯に浸かったまま、バスタオルを押さえていない方の腕をスッと塀の向こう(魔獣)へと向けた。
「——『聖なる光よ(ホーリー・レイ)』」
「——『紫電の雷霆』」
ドゴォォォォォォォォォォォォンッ!!!
ルディアの指先から放たれた極太の光のレーザーと、ヴィクトリアの掌から放たれた紫色の雷撃が、露天風呂の塀をかすめるようにして山肌へと直撃した。
巨大な狼型の魔獣は、悲鳴を上げる間もなく、その圧倒的な光と雷の奔流に飲み込まれ、山肌の一部ごと完全に消滅(蒸発)した。
「ヒィィ! また旅館の結界が壊れたぁぁ! 私の胃がもたないですぅぅ!」
堀が頭を抱えてお湯に沈む。
「…………」
零は、ぽかんと口を開けた。
ヤオヨシのパートのお姉さんと、優雅なお隣さんが、温泉の中からテキトーに放った魔法が、特級クラスの魔獣を瞬殺してしまったのだ。
ただの一般人である彼が、この規格外の事態にどう反応すべきか。考えた末に零が導き出した答えは、究極の「現実逃避」だった。
(……よし。見なかったことにしよう)
「ふう。これで静かになりましたわね。さあ、三神くん。続きを——」
「はぁ〜……やっぱりここのお湯は最高ですねぇ。山の静寂が身に染みるなぁ」
「「……」」
零は、破壊された結界も、消し飛んだ山肌も、バスタオル姿で密着してくる美女たちも、すべてを視界からシャットアウトし、スゥーッとお湯の中に肩まで沈んだ。
両脇に絶世の美女、正面に暗殺者の双子、隅っこで震える幹部。
完璧な要塞温泉で提供されたカオスすぎる男湯包囲網の中。
三神零は「何も知らないただの一般人」としての尊厳と平穏を守るため、ひたすらに温泉の効能だけを味わうべく、ゆったりと目を閉じて極楽の表情を浮かべ続けるのであった。




