第百七十話
三神家のリビングは、死地よりも恐ろしい静寂と、アールグレイの芳醇な香りに包まれていた。
「さあ、遠慮しないで食べてね。昨日から仕込んでおいたお手製のシフォンケーキよ。紅茶の温度も、ちょうど飲み頃にしてあるから」
テーブルを挟んで向かい側に座る母・奈々美が、おっとりとした笑顔でティーカップとケーキ皿を差し出してくる。
その対面に座らされているのは、漆黒のゴシックドレスを身に纏った絶世の美少女——特S級の死神、ゴーストであった。
羽田空港での激戦を終え、誰にも見られずに自室へ帰還した直後。変身を解除する寸前に、不意打ちで部屋に入ってきた母と鉢合わせてしまった零。
窓から飛び降りて逃げるという選択肢も脳裏をよぎったが、そんなことをすれば「息子の部屋から不審者が逃げた」という警察沙汰になりかねない。
結果として、零はガチガチに硬直したまま、奈々美に腕を引かれて一階のリビングへと連行され、強制的にティータイムに参加させられる羽目になっていた。
(……やばい。どうしよう。胃に穴が開きそう……)
ゴーストは、ドレスの裾をギュッと握りしめたまま、震える手でティーカップを持ち上げ、一口飲んだ。
(……う、美味い……! 茶葉の香りの引き出し方、渋みのない完璧な抽出時間。シフォンケーキも信じられないくらいフワフワだ……!)
日々の家事を極めし零であっても、こと料理の腕前に関しては、母・奈々美にはどうしても一歩及ばない。パニック状態の男子高校生の精神も、この完璧な母の味の前には抗えず、ゴーストの顔が思わずほころんでしまう。
「ふふっ、お口に合ったみたいで良かったわ。それで……可愛いお嬢ちゃん。お名前はなんていうの?」
奈々美が、ニコニコと微笑みながら尋ねてきた。
「えっ……あ、その……」
ゴーストの喉がヒュッと鳴る。
まさか「あなたの息子の零です」などと言えるはずがない。激しく言い淀むゴーストを見て、奈々美はクスッと悪戯っぽく笑った。
「隠さなくてもいいのよ。お母さん、知ってるわ。……あなた、最近ニュースでよく見る『ゴースト』ちゃんでしょ?」
ビクッ!!
ゴーストの肩が大きく跳ねた。
先ほどまでテレビで羽田空港の大混戦が報じられており、そこで無双していた黒い魔法少女の姿は全国に中継されていた。いくらマイペースな奈々美でも、目の前にいる少女がそのゴーストと同一人物であることくらいは分かるらしい。
「あ、あの……はい。一応、その……ゴーストと、呼ばれて、ます……」
ゴーストは、裏返りそうになる声をごまかしながら、どうにかそれだけを絞り出した。
世界を震撼させる最強の死神が、一人の主婦の前で借りてきた猫のように縮こまっている。福音の鐘のルディアや星監のヴィクトリアが見れば卒倒しそうな光景だった。
「やっぱり! すごいわねぇ、うちの零ったら。こんなに綺麗で有名な魔法少女とお友達だったなんて」
奈々美は全く警戒する様子もなく、むしろ「息子の交友関係の広さ」に関心しているようだった。
だが、その直後。奈々美の顔に、ふっと心配そうな陰りが落ちた。
「でもねぇ……お母さん、ちょっと怒ってるのよ」
「えっ? お、怒ってる……ですか?」
「ええ。うちの零にはね、緋雪ちゃんっていう、とびっきり可愛くて素敵な『彼女』がいるのよ。昔クレープ屋でデートしたのをきっかけに、この間なんて二人で水族館デートまで行ってたんだから」
ブフォッ!!
ゴーストは、口に含みかけた紅茶を盛大に吹き出しそうになり、必死に飲み込んで激しく咽せた。
「ゲホッ、ゴホッ……! か、彼女!?」
「あらあら、大丈夫? ほら、お水よ」
背中をさすってくれる母の優しさが、今はひたすらに恐ろしい。
(まだ、付き合ってない! 羽衣さんは俺の彼女じゃない! 水族館の時だってお誘いがあっただけで、なんで母さんの中では完全に『お付き合いしてる』ことになってるんだよ!)
奈々美は、大きなため息をついて首を振った。
「緋雪ちゃんっていうあんなに大切な恋人がいるのに。今度は、あなたみたいなすごい美少女を自分の部屋に連れ込むなんて……。うちの零、まさか『二股』かけてるんじゃ……!」
「ち、違いますッ!!」
ゴーストは、思わずテーブルに身を乗り出して叫んでしまった。
まさかの二股疑惑。真面目に家事をこなし、平穏を愛するだけの男子高校生にとって、それはあまりにも不名誉極まりない濡れ衣だった。
「誤解です、奈々美さん! 零くんは……! それに、羽衣さんは……」
ゴーストは、言葉を詰まらせた。
かつて彼がゴーストの姿で緋雪と遭遇した際、緋雪本人の口から好きだとは聞いていないが、態度で示すという、熱烈な恋心を見てしまっているのだ。緋雪の気持ちが本物であることを知っているからこそ、無下に否定しすぎるのも気が引けてしまう。
「その……! 零くんは、羽衣さん一筋だと思います! 私とはそんなやましい関係じゃありませんから!」
必死に自分と自分の関係を否定するゴースト。
しかし、奈々美の目には、それが「彼氏の本命彼女に気を遣って、自分から身を引こうとする健気な女の子の姿」に映ってしまったらしい。
「……ゴーストちゃん。あなた、本当にいい子なのね」
奈々美が、ホロリと涙ぐみながらゴーストの手を両手で優しく包み込んだ。
「無理して庇わなくていいのよ。零ったら、こんなに健気な子を部屋に呼んでおいて、自分はどこに行ってるのかしら。あとで帰ってきたら、お母さんからガツンと説教しておかなくちゃね。女の子を二股にかけて泣かせるような真似は絶対に許さないって」
(違うんです母さん、その説教されるバカ息子は今、目の前でフリフリのドレスを着て手を取られてるんです……!)
零は、胃の痛みが限界を突破しそうになるのを必死に堪えた。
これ以上ここにいれば、勘違いが雪だるま式に膨れ上がり、取り返しのつかない事態になる。
『——ガチャリ』
その時。玄関のドアが開く音が響いた。
「ただいまー! ああもう、羽田空港の任務、すっごく疲れたぁ!」
「魔獣が消えたと思ったら、過激派のバカどもが暴れ出すし……ホントに大変だったわ」
妹の玲奈と、姉の澪の声だ。
白百合の任務を終えた二人が、帰還してきたのだ。
(ッ!! やばい!!)
ゴーストは弾かれたように立ち上がった。
母一人ならまだごまかせても、彼女たちとは以前スーパー銭湯の女湯で強制的に一緒にお風呂に入らされたという、気まずすぎる過去があるのだ。
「あ、あの! 急用を思い出したので、今日はこれで失礼します! ケーキ、すっごく美味しかったです!」
「あら? もう帰っちゃうの? せっかく澪たちも帰ってきたのに」
「零くんに……よ、よろしくお伝えください!」
ゴーストは、奈々美が止める間もなく、紫色の魔力を足元に展開した。
そのままリビングの窓をパッと開け放ち、弾丸のような速度で夕暮れの空へと飛び出していく。
「ああっ、気をつけて帰るのよー!」
奈々美が呑気に窓から手を振る中。
ゴーストは、三神家の屋根の上に回り込んだ瞬間にペンダントの魔力を切り、光の粒子と共に元の男子高校生の姿へと戻った。
「……死ぬかと思った……」
零は、屋根の上で仰向けに倒れ込み、ゼエゼエと荒い息を吐いた。
羽田空港で魔獣や過激派の魔法の弾幕を躱している時よりも、心臓が爆発しそうだった。
しかし、休む暇はない。
零は素早く一階の自室の窓へ張り付き、音を立てずに部屋の中へ侵入すると、急いで普段着のパーカーに着替えた。
「あれ?珍しい、お母さんがこんな時間居るなんて!」
リビングから、澪の呼ぶ声がする。
零は、乱れた髪をササッと整え、大きく深呼吸をしてからリビングのドアを開けた。
「おかえり、姉ちゃん、玲奈。今から作るところだよ」
何事もなかったかのような、いつもの平坦な顔で。零はリビングへと足を踏み入れる。
「あ、零! 遅いわよ。それにしても、さっき羽田空港に……あれ?」
澪が何かを言いかけた時。
キッチンから、奈々美が腕組みをして歩み出てきた。その顔は、普段のおっとりとした笑顔ではなく、珍しく少し怒っているような、母親の厳しい表情だった。
「……母さん? どうしたの、そんな怖い顔して」
零が首を傾げるフリをすると、奈々美はずいっと零の目の前に迫った。
「零。あなたね……お年頃なのは分かるけど、女の子の気持ちを弄ぶような真似は感心しないわよ」
「へ? 何の話?」
「とぼけないの。さっきまで、あなたのお部屋に『ゴースト』ちゃんが来てたでしょ? 緋雪ちゃんっていう素敵な彼女がいるのに、あんな健気な子を部屋に連れ込むなんて……お母さん、二股なんて絶対に許しませんからね!」
ピシリ、と。
リビングの空気が、文字通り凍りついた。
「…………は?」
「…………え?」
冷蔵庫から麦茶を出そうとしていた澪と、ソファにダイブしようとしていた玲奈が、完全に動きを止めた。
「母さん、今……なんて?」
澪が、ギギギ……と首の関節が鳴りそうなほどゆっくりと、零の方を振り向く。
「だからね、さっきまでこのリビングで、ゴーストちゃんとお茶を飲んでたのよ。零のお部屋から出てきたから、お母さんが誘ったの。すっごく可愛らしくて、礼儀正しい子だったわよ〜」
奈々美が、のほほんと事実を投下する。
「なっ……ご、ゴーストが!? またお兄ちゃんの部屋に!?」
玲奈が、信じられないというように絶叫した。
「ち、ちょっと待ちなさいよ。あのゴーストよ!? あのゴーストが、なんであんたの部屋からまた出てくるのよ!!」
澪が、顔を真っ赤にしながら炎の魔力を無意識に漏らし始めた。
「ちょ、待て! 誤解だ、母さん! 姉ちゃん! 俺は何もしてないし、そもそも二股なんかじゃない!」
零は、冷や汗を滝のように流しながら両手を振って否定した。
「何もしてないって……じゃあ、なんであの特S級の未登録魔法少女が、あんたの部屋にいたのよ!!」
澪が、零の胸ぐらをガシッと掴んだ。
「それは……その……! 窓を開けてたら、たまたま迷い込んできて……!」
「野良猫みたいな言い訳が通用すると思ってんの!? 緋雪ちゃんっていう彼女がいながら、裏ではあの最強の死神と密会!? あんた、いつからそんな大物食いのジゴロになったのよ!!」
「違う! 違うんだ姉ちゃん、信じてくれ!」
羽田空港で、あれほど見事な「絶対回避」を見せつけた特S級の死神は。
家族の容赦のない追及と、二股疑惑という絶体絶命の弾幕の前になす術もなく、エプロン姿のままリビングの床に正座させられるのであった。




