第百六十九話
羽田空港の空は、禍々しい暗雲に完全に覆われていた。
国際線ターミナルでの四つ巴の混戦から一転、すべての者の視線は、国内線ターミナル上空に突如として出現した新種の超大型魔獣へと釘付けになっていた。
体長五十メートルを優に超える、エイやクジラを掛け合わせたような異形の姿。
その体表は分厚く硬質な鱗に覆われ、巨大なヒレがはばたく度に、台風のような暴風が巻き起こる。さらに魔獣の周囲には高密度の雷雲が渦巻き、無数の落雷が滑走路やターミナルビルを黒く焦がしていた。
『ボォォォォォォォォォォッ……!!』
耳を塞ぎたくなるような、低く、重い咆哮。
その声だけで、国内線ターミナルのガラスが次々と砕け散り、逃げ遅れた民間人たちが悲鳴を上げて頭を抱える。
圧倒的な、質量の暴力。
特級魔獣を単独で討伐できるはずの協会の新エースたちでさえ、あまりのスケール違いな脅威を前に、足の震えを止めることができなかった。
「な、なんて魔力……! あんなの、どうやって倒せば……!」
水属性の湊春華が、青ざめた顔で呻く。
「氷で凍らせるにも、デカすぎるわよ……!」
好戦的な船戸真紀奈すら、冷や汗を流して後ずさりした。
だが。
絶望に染まりかけた羽田の空を、一筋の紫色の流星が一直線に切り裂いた。
漆黒のゴシックドレスを翻し、空を舞う絶世の美少女。
最強の死神・ゴーストである。
(……デカい。それに、あの雷雲に触れたら一発で服が焦げちまう)
ゴーストの正体である三神零は、超大型魔獣を見据えながら、極めて冷静に状況を分析していた。
彼の目的はただ一つ。「絶対に被弾しないこと」。
重傷を負えば、また身体が自動修復モードに入り、半日近く女の子の姿から戻れなくなる可能性がある。
(力任せの広範囲魔法は使わない。消費魔力を最小限に抑えつつ、一撃で急所だけを抜く!)
ゴーストが魔獣の正面へと接近した瞬間、超大型魔獣は侵入者を排除すべく、その巨大な口を大きく開いた。
口の奥で、暴風と雷の魔力が極限まで圧縮され、巨大なエネルギー球となって輝き始める。
「あっ……ブレスが来る! あの位置じゃ避けられないわ!」
遥か後方の国際線ターミナル側から、白百合の盾の三神澪が叫んだ。
ゴォォォォォォッ!!
魔獣の口から、直径十メートルに及ぶ極太の魔力砲が放たれた。直撃すれば、ゴーストはおろか、その背後にある国内線ターミナルごと消し飛びかねない威力の奔流。
しかし、ゴーストは逃げなかった。
右手に握った漆黒の大剣を、正面からではなく、斜め下からすくい上げるように構える。
(真正面から受け止める必要はない。力のベクトルを、少しだけ横に逸らしてやればいい)
ゴーストは、大剣の腹に極小の魔力を集め、迫り来る魔力砲の『側面』を刃でそっと撫でるように滑らせた。
合気道にも似た、完璧な力流の操作。
ズガァァァァァァッ!!
魔獣の放った極太のブレスは、ゴーストに触れる直前で不自然に軌道を曲げられ、彼女のすぐ横をすり抜けて、無人の海側へと着弾し、巨大な水柱を上げた。
「……嘘でしょ。あんな大質量を、受け流した……!?」
協会の新エース筆頭・周防凛花が、信じられないものを見たように目を丸くする。
ゴーストの回避は、そこからさらに凄みを増していった。
ブレスを逸らされたことに激昂した魔獣が、周囲の雷雲から数百の雷を雨あられと降らせ、同時に体表から無数の鋭い骨の棘をミサイルのように発射する。
空を埋め尽くすほどの、完全な弾幕。
だが、ゴーストはその弾幕の中を、まるで振り付けの決まった舞踏を踊るかのように、優雅に、そして滑らかにすり抜けていった。
右へ、左へ。時には空中で回転し、時には落下して。
雷の直撃を、首をわずかに傾けるだけで躱す。
音速で迫る骨の棘を、ドレスの裾を翻すだけの最小限の動作で回避する。
どうしても避けきれない弾に対しては、大剣の柄や峰を使って、キンッ、キンッ、と軽快な音を立てて弾き返す。
その姿は、あまりにも美しかった。
圧倒的な力を持つ者が陥りがちな「暴力による蹂躙」ではなく、極限まで研ぎ澄まされた「技量」と「見切り」による芸術的な戦闘。
一切の無駄がなく、衣服のフリル一つ焦がすことのない、完璧なる『ノーダメージ』。
「……すごい」
白百合の盾の妹・三神玲奈が、双剣を下ろしてポツリと呟く。
「あれが、最強の死神……」
澪もまた、言葉を失っていた。
そして、先ほどゴーストと剣を交えた周防凛花は、空を舞う彼女の姿に完全に魅了されていた。
(お姉ちゃん(凛音)の剣に似ていると思ったけど……違う。あの人は、もっとずっと高い次元にいる。誰かを傷つけることも、自分が傷つくことも絶対に許さない、完全無欠の強さ……!)
凛花の中で、ゴーストという存在が「脅威」から「強烈な憧憬」へと変わっていく。
白百合のトップエースである羽衣緋雪もまた、複雑な表情を浮かべながら上空を見つめていた。
(やっぱり、ストーカーのあの女は好かないけど、他の誰にも真似できない、美しくて気高い戦い方だけは、認めざるを得ないわ)
当のゴーストは、下の魔法少女たちから送られる様々な感情の矢印に気づく余裕などなく、ひたすら回避に集中していた。
(よし、敵の攻撃パターンは完全に把握したわ、装甲が一番薄いのは、あの頭頂部の一点だけね)
弾幕を全て躱し切り、魔獣の頭上へと回り込んだゴーストは、両手で漆黒の大剣を上段に構えた。
刃の表面に、底知れない紫黒の魔力が極限まで圧縮されていく。
派手なエフェクトはない。ただ、周囲の光を全て吸い込むような、絶対的な『切断』の概念。
(魔力消費は最小限に。その代わり、鋭さは極大に!)
「——『紫黒の断界』」
ゴーストが、無音の空間を切り裂くように大剣を振り下ろした。
放たれたのは、細く、どこまでも鋭い一筋の紫黒の線。
それは、超大型魔獣の分厚い鱗を紙切れのように通り抜け、その奥深くにある巨大な魔石(中枢)を、寸分の狂いもなく真っ二つに両断した。
『…………』
悲鳴すらなかった。
魔石を砕かれた超大型魔獣は、その瞬間に生命活動を完全に停止し、巨体が重力に引かれて国内線ターミナルへと落下し始める。
(っと、このまま落としたらターミナルが潰れるな)
ゴーストは、大剣を虚空に消すと同時、落下していく魔獣の巨体に向かって左手を突き出した。
残存していた魔力を一気に解放し、魔獣の細胞一つ一つを内側から崩壊させる。
ドズゥゥゥゥン……!!という地響きが鳴るよりも早く、体長五十メートルの巨体は、空中でサラサラと紫色の光の粒子(塵)へと還元され、夕暮れの空に溶けて消えていった。
後に残されたのは、被害を免れた国内線ターミナルと、静けさを取り戻した羽田の空だけだった。
「…………」
「…………終わった、の?」
地上で見守っていた魔法少女たちは、全員が沈黙していた。
しかし、その静寂を破るように、国際線ターミナル側の滑走路で怒号が上がった。
「ちくしょう! 魔獣が全部消えちまったじゃねえか!」
「ふざけんな! アタシらの取り分が!」
先ほどのゴーストと凛花の戦闘の余波で吹き飛ばされていた過激派の魔法少女たちが、フラフラと立ち上がり、鬱憤を晴らすかのように再び周囲の施設や白百合のメンバーに向かって無差別に魔法を放ち始めようとしていた。
空からその様子を見下ろしたゴーストの紫の瞳が、スゥッと冷たく細められた。
(魔獣の脅威が去ったのに、まだ暴れ続けるつもり?民間人の避難の邪魔になる連中は、放っておけないわね)
ゴーストは空から一直線に急降下し、暴れる過激派たちの中心へと音もなく着地した。
「なっ、ゴースト!?」
過激派の一人が炎を放とうとした瞬間、ゴーストはその腕を素早く掴み、最小限の力で捻り上げて地面に叩きつけた。
「がはっ……!」
そこからは、一方的な蹂躙だった。
ゴーストは急所への精密な打撃のみで、過激派の魔法少女たちを次々と沈めていく。腹部への重い一撃、首筋への手刀。致死のダメージは与えないものの、確実に意識を刈り取り、手足を無力化していく。
わずか数十秒の間に、先ほどまで息巻いていた過激派の残党十数名が、地面に転がり白目を剥いて気絶していた。
「……あ、あのゴーストが、生身の格闘戦でもあんなに強いなんて……」
協会の佐伯美羽が、ゴーストの容赦のない制圧劇を見て顔を引き攣らせる。
「……逃げたか」
ゴーストは、気絶した過激派たちを見下ろしながら小さく呟いた。
この集団のリーダー格であった、赤と黒のメッシュ髪の女・野田千枝子の姿がどこにもない。
野田は、ゴーストが超大型魔獣を一撃で屠ったのを見た瞬間、「あれは勝てる相手じゃない」と即座に判断し、部下たちを切り捨てていち早く空港から逃亡していたのだ。
野田の『再起を狙う』という卑劣な生存本能が、彼女の命を救った形となった。
(まあいい。残りの処理は、協会と白百合に任せればいい)
ゴーストはターミナルビルの方へ視線を向けた。
白百合の盾のメンバーたちが民間人を安全な場所へと誘導し終え、怪我人の保護にあたっているのが見える。民間人の安全と避難は、完全に確保された。
自身の目的がすべて完了したことを確認し、ゴーストは手足やドレスを素早く確認した。
(よし! 服に焦げ跡もなし、かすり傷ひとつなし! 完璧なノーダメージ達成だ!)
内心でガッツポーズをしたゴーストは、地上にいる凛花や緋雪たちを一瞥した。
これ以上長居をして話しかけられでもしたら、ボロが出るかもしれない。
ゴーストは、何事もなかったかのように影移動により瞬く間に消え去っていった。
「……行っちゃった」
凛花が、ポツリと呟く。
彼女の手のひらには、ゴーストと打ち合った時の痺れがまだ僅かに残っていた。
(……ゴースト。いつか私も、あんな風に……)
光の魔法少女の瞳に、新たな決意の火が灯る。
こうして、羽田空港を襲った未曾有の魔獣被害と、過激派の暴動は、最強の死神による「絶対回避」と「容赦のない制圧」によって幕を閉じたのである。
澪や玲奈たち『白百合の盾』の面々にとっては、すでに面識のある頼もしい存在であったが、協会の新エースたちにとって、これが生きた都市伝説たる「ゴースト」との初めての遭遇であった。
圧倒的な力と気高さを見せつけられた凛花たちの心に、決して消えることのない強烈な畏怖と憧憬を刻み込み、ゴーストは夕焼けの空へと姿を消したのである。
それから数十分後。
誰にも見つからないよう、三神家の自室に戻ってきたゴースト。
無事に自分のテリトリーへと帰還した最強の死神は、張り詰めていた緊張を解き、ホッと安堵の息を吐き出した。
自身の推測通り、ノーダメージであれば、変身解除時に身体が自動修復モード(バグ)に移行して女の子の姿で固定化されることはない。
この法則さえ守り続ければ、彼の平穏な日常と尊厳は完璧に守られるのだ。
「ふう……さてと。姉ちゃんたちももうすぐ帰ってくるだろうし、すぐに元の姿に戻って夕飯の支度を——」
ゴーストが、変身を解除するために服の下のペンダントへ手をかけようとした、まさにその時だった。
ガチャリ。
ノックの音もなく、唐突に自室のドアが開いた。
「零〜? ちょっと手が空いてたら、晩ごはんの玉ねぎ刻むの、手伝って……あら?」
「…………あっ」
用事があって息子の部屋を覗き込んだ母・奈々美。
そして、漆黒のゴシックドレスを身に纏い、自分の部屋のど真ん中に立ち尽くす絶世の美少女。
二人の視線が、完璧に交差してしまった。
しんと静まり返る部屋。
(や、やばい!! 油断した……! 二人は仕事に出かけてるはずなのに!)
最強の死神は、特級魔獣の極太ブレスを前にした時よりも遥かに激しい冷や汗をかいて硬直した。
絶体絶命のピンチ。どう言い訳すべきか。窓から飛び降りて逃げるべきか。
零の頭の中で、処理能力の限界を超えたアラートが鳴り響く。
しかし、カルト教団のトップ(ルディア)や秘密組織の指導者の殺気すら「お隣さんのオーラ」として難なく受け流す最強の母・奈々美の反応は、常人のそれとは全く異なっていた。
「まあまあ……!」
奈々美は、ゴーストを見るなりパァッと顔を輝かせた。
「あなた、零のお友達? すっごく綺麗な子ねぇ! それにそのフリフリの黒いドレス、とっても可愛いわ!」
「えっ……あ、えっと……」
「零ったら、トイレかしら? こんな可愛い女の子をお部屋に呼んでるなら、お母さんに教えてくれればいいのに。ねえ、せっかくだから下でお茶でもどう? 美味しいクッキーがあるのよ!」
一切の警戒心を抱くことなく、息子の部屋にいた見知らぬ美少女を大歓迎し、嬉々として階下へ向かおうとする奈々美。
戦場では無敵の「絶対回避」を誇った零だったが、自室での「母親の不意打ち」という最悪の攻撃だけは、どうしても躱すことができなかった。
「……ど、どうしよう、これ」
羽田空港での四つ巴の戦場を無傷で制圧し、過激派を無慈悲に沈めた特S級の死神は。
自分の部屋のど真ん中で、ペンダントを握りしめたまま、かつてない「平穏な日常崩壊の危機」に顔を引き攣らせるのであった。




