第百五十七話
新宿、池袋、品川、上野。
東京を舞台に同時多発的に引き起こされた、知能を得たA級魔獣たちによる大規模テロは、たった一人の未登録魔法少女——特S級『ゴースト』の理不尽極まりない影の跳躍と極大魔法によって、その大半がすでに鎮圧されていた。
しかし、世界を震撼させるその絶望の死神の正体が、ただ「特売の秋刀魚を最高の状態で焼くため」に夜の街でタイムアタックを繰り広げているだけの男子高校生・三神零であることなど、誰も知る由はない。
そして今、夜の帳が完全に下りた五カ所目の戦場——『渋谷』。
日本の若者文化の中心地である渋谷スクランブル交差点は、色鮮やかな巨大ネオンサインが明滅する中、ひっくり返った車両と砕け散ったアスファルトが散乱する、凄惨な防衛戦の最前線となっていた。
「ハアァァァッ!! ——『紅蓮の穿刺』ッ!!」
夜の闇を焦がすような鋭い呼気と共に、炎属性の魔力を極限まで纏った長槍が閃く。
三神澪——零の姉である彼女の槍から放たれた螺旋状の爆炎が、交差点に群がる二体の魔獣の胴体を深く貫き、黒い血を瞬時に蒸発させながら後方へと吹き飛ばした。
「姉ちゃん、ナイス! 次は私の番ッ!! ——『双嵐の連刃』ッ!!」
澪の作り出した隙に飛び込んだのは、両手に鋭い双剣を逆手で構えた三神玲奈——零の妹である。
小柄な彼女の身体が疾風のように弾け、風属性の魔力を纏った双剣が、体勢を崩した魔獣の死角から無数の斬撃を浴びせる。
ズバババババンッ!!
暴風の刃が魔獣の強靭な肉体を瞬く間に切り刻み、致命傷を負った魔獣は渋谷109の方向へと崩れ落ちて機能停止した。
『白百合の盾』のエンブレムが刻まれた新しい戦闘服を纏う三神姉妹。
彼女たちは広報兼・実戦部隊として、この最も人通りの多い渋谷エリアの防衛を任されていた。周囲の駅ビルや地下街には数千人規模の民間人が息を潜めて避難しており、姉妹は文字通り「絶対に退けない盾」として、数十体のA級魔獣を相手に限界ギリギリの死闘を繰り広げていたのである。
「はぁっ、はぁっ……! やった、これで十体目!」
玲奈が双剣を振るって黒い血糊を払い落としながら、荒い息を吐く。
「油断しないで、玲奈。敵はまだ二十体以上残ってる……。それに、何かおかしいわ。さっきまで統制の取れていた動きが、急にバラバラになって暴走し始めてる……!」
澪が、炎の槍を中段に構え直しながら、油断なく周囲を警戒する。
彼女たちの直感は正しかった。
上野エリアで、魔獣の念話ネットワークのハブであった「指揮官個体」がゴーストによって両断されたため、渋谷に取り残された魔獣たちは完全にパニック状態に陥っていたのだ。
知能を得ていたがゆえに、「指揮官の突然の死」という未知の恐怖に直面した魔獣たちは、防衛本能と生存本能を暴走させ、残された魔力をすべて一つに融合させるという凶行に打って出た。
『ガァ……ガガ、ギチギチギチィィッ!!』
交差点の中央に残存していた二十体以上の魔獣たちが、互いの肉体をドロドロに溶かし合わせるようにして、一つの巨大な肉塊へと変貌していく。
赤黒い魔力が竜巻のように渦巻き、周囲のひっくり返った車や瓦礫、ちぎれた信号機までもを巻き込みながら、それは『巨大なキメラ魔獣』へと姿を変えた。
体高は十メートルを超え、四つの極太の腕と三つの頭部を持つ、冒涜的で醜悪な異形の化け物。その全身から放たれる魔力波形は、もはやA級の枠を完全に超え、特A級、あるいはS級の領域にすら足を踏み入れようとしていた。
「な、なにアレ……!? 合体した!?」
玲奈が信じられないものを見るように双剣を握り直す。
「なんておぞましい魔力……。でも、ここで私たちが引くわけにはいかない!」
澪が、恐怖で震えそうになる足に力を込め、キメラ魔獣の前に立ちはだかる。
「駅の地下には、まだ逃げ遅れた人たちがたくさんいる……。それに、私たちがあんなバケモノを通しちゃったら、家で待ってる零の平和な日常まで壊されちゃう!」
「そうだよ! お兄ちゃん、今日は特売の秋刀魚を焼いて待ってるって言ってたもん! あんなグロテスクな肉塊に、私たちの夕飯を邪魔されてたまるかぁっ!!」
玲奈が風の魔力を全身に巡らせ、限界を超えた気合を入れる。
愛する弟の平穏な日常と、美味しい夕飯を守るため。
二人の姉妹は、死の恐怖を弟への愛情でねじ伏せ、規格外のキメラ魔獣に向かって決死の突撃をかけようとした。
——その、絶体絶命の刹那である。
ピシッ。
渋谷スクランブル交差点の、むせ返るような血と硝煙の匂いが充満した空気が。
文字通り、一瞬にして肺を凍らせるほど変貌した。
巨大なキメラ魔獣が、本能的な死の気配を察知してピタリと動きを止める。
澪と玲奈の足元、ネオンサインに照らされたアスファルトに落ちる「影」が、突如として底なしの深淵のように広がり始めた。
影から漆黒の靄が間欠泉のように噴き出し、すべての音と熱を奪い去るような圧倒的な魔圧の奔流と共に、一人の少女がゆっくりと姿を現した。
漆黒のゴシックドレスを纏い、身の丈ほどある大剣を片手で軽々と提げた絶世の美少女。
神秘的で深淵な紫の瞳を冷ややかに輝かせる特S級の未登録魔法少女——『ゴースト』の降臨であった。
「……ゴ、ゴースト……!?」
澪が息を呑む。
「なんで、未登録の最強魔法少女がこんなところに……!」
玲奈も、その圧倒的な存在感に一歩後ずさった。
一方。
影移動で五カ所目の戦場である渋谷に到着したゴーストの内面は、眼前に広がる光景を見て、本日最大級のパニックと激怒で沸騰していた。
(姉ちゃん!? 玲奈!? なんでこんな最前線にいるんだよ!! 怪我は治ったって言ってたけど、広報担当じゃなかったのかよ!?)
零の心臓が早鐘のように打つ。
見れば、愛する姉と妹の新しい戦闘服は土埃で汚れ、激しい息を切らしている。そしてその目の前には、今までの魔獣とは比にならないほど巨大で醜悪な、特A級相当のキメラ魔獣が涎を垂らして立っているではないか。
(ふざけるな……! あんなグロテスクな生ゴミが、俺の姉ちゃんと玲奈に手を出そうとしてたのか!? 万が一にでも怪我をさせられたらどうするつもりだ! それに、あんな悍ましい肉塊の返り血でも浴びたら、戦闘服の洗濯がどれだけ大変になると思ってるんだ! 魔獣の血の染み抜きには酵素系の漂白剤を使わないといけないし、生地も傷むんだぞ!!)
シスコンにして宇宙一の主夫である零の怒りは、キメラ魔獣の存在そのものへの純粋な殺意へと直結した。
しかし、彼女たちの手前、自分が弟の零であることは絶対に悟られてはならない。
ゴーストは、内面の凄まじい動揺と怒りを完璧な『死神の冷徹な仮面』の下に隠し、冷ややかに口を開いた。
「……目障りね」
渋谷の交差点に、透き通るような冷酷な声が響き渡る。
「美しい夜の街に、こんな不格好な肉塊が鎮座しているなんて。……風景が汚れるわ」
ゴーストの紫の瞳が、キメラ魔獣をゴミでも見るような目つきで見下す。
『ギ、ガァァァァァッッ!!!』
キメラ魔獣が、ゴーストという絶対的な脅威を前にして、三つの口から一斉に咆哮を上げた。
そして、四つの極太の腕にそれぞれ異なる属性(炎、氷、風、土)の極大魔力を圧縮し、ゴーストと、その背後にいる三神姉妹をまとめて消し飛ばそうと、全方位の魔力光線を放った。
「しまっ……! 玲奈、伏せて!!」
澪が絶叫し、妹を庇おうと飛び出す。
だが、ゴーストは微動だにしない。
彼女は、身の丈ほどある漆黒の大剣を、まるで指揮棒のように軽く一振りした。
「——散りなさい。『深淵の盾』」
ゴーストの前に展開されたのは、光すらも飲み込む漆黒の鏡のような結界。
キメラ魔獣から放たれた四属性の極大光線が、その漆黒の鏡に激突した瞬間。爆発することも、防がれることもなく、鏡の表面で「反転」し、倍以上の威力となってキメラ魔獣自身へと跳ね返されたのだ。
『ガ、アァァァァッ!?』
自らの放った魔力光線の倍返しを食らい、キメラ魔獣の巨体が大きく吹き飛び、渋谷の交差点のアスファルトを削りながら無様に転がった。
「す、すごい……。あんな巨大な魔力光線を、いとも簡単に跳ね返すなんて……」
澪が、炎の槍を握りしめたまま呆然と呟く。
「これが、特S級の化け物……」
玲奈も、双剣を下げたままゴーストの背中を畏怖の目で見つめていた。
ゴーストは、大剣の切っ先を地面にトントンと当てながら、背後にいる二人に向けて肩越しに視線を向けた。
「そこの白百合の二人。ボーッと突っ立っている暇があるなら、自分の身は自分で守りなさい。……それとも、あんな肉塊の返り血を浴びたいの?」
(頼むから大人しく下がっててくれ! 姉ちゃんたちに怪我でもされたら、俺は心配で特売の秋刀魚の味すら分からなくなるんだから!)
という零の悲痛な本音は、見事なまでに高圧的で冷酷な言い回しに変換されて出力された。
「っ! 子供扱いしないでよね!」
しかし、その言葉は逆に姉妹のプライドに火をつけてしまった。
澪が、強い意志を秘めた瞳でゴーストを睨み返す。
「私たちは、ただ守られるだけの存在じゃないわ! 私たちには、絶対に守らなきゃいけない『大切な家族(弟)』がいる! あなたの力がどれだけ凄くても、私たちがここで戦う理由は絶対に曲げないわ!」
「そうだよ! あなたみたいなストーカー女に、私たちのお兄ちゃんを監視されてるって知って、私たちがどれだけ怒ってるか教えてあげるんだから!」
(——え?)
ゴーストの脳内で、再び激しい疑問符が乱舞した。
(ストーカー女? 監視? ……あ! そういえば、以前羽衣さんに『三神零は私が監視している』ってハッタリをかましたことがあったな。それが姉ちゃんたちにも伝わってて、俺は『可愛い弟を狙う変態ストーカー女』として完全に敵視されてるのか!?)
自分の姉と妹から、自分自身が変質者扱いされているという絶望的な事実に、零は内心で血の涙を流した。
(俺の評価が最悪すぎる……! でも、ここで誤解を解くわけにもいかないし、今はとにかくこの肉塊を処理して早く帰るのが先決だ!)
ゴーストは、内心の悲鳴を強引に押し殺し、冷ややかな笑みを口元に浮かべた。
「……ふん。家族を守るための意地、ね。いいわ、ならその力、私の前で証明してみせなさい」
ゴーストは、大剣を構え直して立ち上がるキメラ魔獣へと向き直った。
「あの肉塊は、複数の魔獣が無理やり融合したせいで、胸の中心にある『魔力核』が肥大化して剥き出しになっているわ。私が奴の動きを完全に止める。あなたたちは、その自慢の魔法でコアを貫きなさい」
「えっ……? 私たちに、トドメを刺せっていうの?」
澪が驚いたように問う。
「言ったはずよ、証明してみせなさいと。それとも、やっぱり私の後ろで震えているだけの小鳥ちゃんなのかしら?」
「……誰が小鳥よ! やってやるわ!」
澪が闘志を燃やし、槍に極限まで炎の魔力を圧縮し始める。
「姉ちゃん、私も全力でいくよ!」
玲奈の双剣に、暴風のような風属性の魔力が渦を巻いて収束していく。
(よし! 俺がトドメを刺してもいいけど、姉ちゃんと玲奈が『自分たちの力で街を守った』っていう自信を持てるように、ここは花を持たせてやろう。……それに、これなら二人が返り血を浴びるリスクも最小限で済む!)
超過保護な弟としての完璧なシミュレーションを終え、ゴーストは行動を開始した。
『ギ、ガァァァァァッ!!』
ダメージから立ち直ったキメラ魔獣が、四つの腕を振り回して突進してくる。
「——遅いわ。這いつくばりなさい」
ゴーストが、美しく細い左手をキメラ魔獣へと突き出した。
「『絶対零度の氷棺』ッ!!」
詠唱破棄。
ゴーストの足元から放たれた絶対零度の冷気が、渋谷のスクランブル交差点を一瞬にして白銀の氷原へと変え、キメラ魔獣の下半身から四つの腕までを、巨大な氷柱で串刺しにするように完全に凍結させた。
『ギ、ギィィ……ッ!?』
キメラ魔獣は身動き一つ取れなくなり、胸の中心にある巨大な赤黒い魔力核だけがドクドクと不気味に脈打っている。
「同時に行くわよ、玲奈!」
「うんっ!」
ゴーストが作り出した完璧なチャンス。
澪が炎の爆発力を利用して自身の身体を弾き出し、それに続くように玲奈が風を纏って跳躍した。
「ハアァァァァッ!! ——『爆炎豪槍突き(プロミネンス・スラスト)』ッ!!」
澪の放った渾身の刺突が、キメラ魔獣の胸部の分厚い装甲肉を紅蓮の炎でドロドロに溶かし、コアへの道を完全にこじ開けた。
「そこだァァッ!! ——『絶空双刃斬り(テンペスト・ツインエッジ)』ッ!!」
そして、露出したコアに向かって、玲奈の風の魔力を限界まで圧縮した双剣の十字斬りが、寸分の狂いもなく深々と突き刺さった。
パキィィィィンッッ!!!
ガラスが砕け散るような澄んだ音と共に、キメラ魔獣の魔力核が完全に粉砕された。
『ガ、アァァァ…………』
核を失ったキメラ魔獣の巨体は、断末魔を上げることもできず、その場から黒い霧となって崩れ落ちていく。
「これで、終わりよ。——『終焉の業火』」
ゴーストが、優雅に右指をパチンと鳴らす。
崩れ落ちるキメラ魔獣の残骸と、周囲のアスファルトに散らばった黒い血の跡だけを包み込むように、太陽の表面温度に匹敵する超高熱の紅蓮の炎が顕現した。
民間人が潜むビルや、姉妹の身体には一切の熱を伝えず、ただ魔獣の残滓だけを一瞬にしてチリ一つ残さず焼き尽くす。
姉妹の戦闘服を汚さないための、完璧な証拠隠滅魔法であった。
炎が消え、渋谷の交差点に静寂が戻った。
戦闘の余韻の中、澪と玲奈は息を切らしながらも、自分たちの力で強大な敵を打ち倒した達成感に顔を見合わせて微笑んだ。
「やったね、姉ちゃん!」
「ええ。玲奈のタイミング、完璧だったわ」
二人が喜びを分かち合った後、その視線は、大剣を虚空に消滅させて立ち去ろうとしているゴーストの背中へと向けられた。
「……待って」
澪が、ゴーストに向かって声をかける。
「あなたのサポートがなかったら、あんなに綺麗には倒せなかったわ。……助けてくれて、ありがとう。魔法少女としての実力は、私たちが束になっても敵わないって認めざるを得ないわね」
「私も! 悔しいけど、ちょっとだけ見直したかも。……でもね!」
玲奈が、双剣の切っ先をビシッとゴーストに向ける。
「私たちが助けられたからって、お兄ちゃんへのストーカー行為を許したわけじゃないからね! 私たちの大切なお兄ちゃんは、絶対にあなたなんかに渡さないんだから!」
「そうよ。私たちの弟は、私たちが命に代えても守ってみせるわ!」
姉妹からの、弟への愛に溢れた、しかし完全にベクトルが狂っている強烈な宣戦布告。
(いや、だから俺がその弟なんだけどな……。でも、二人が無事で本当に良かった。俺のためにあんなに必死になってくれてるなんて、弟として、いや家族として最高に幸せ者だよ。……誤解の解き方は、あとでゆっくり考えるとして)
ゴーストは、内心でほろりと涙を流しながらも、冷酷な死神の顔のまま、肩越しにフッと微笑んだ。
「……ふふっ。吠える子犬は嫌いじゃないわ。好きになさい」
ゴーストは、自らの足元に伸びる影の中へと静かに沈み込んでいく。
「ああ、それと。あなたたちの弟の夕飯が冷める前に、寄り道せずに真っ直ぐ帰りなさい」
それだけを言い残し、漆黒の死神は渋谷の夜の街から完全に姿を消した。
「えっ……? なんで、夕飯のことまで知ってるの……?」
澪が戦慄する。
「やっぱり、家の中まで監視されてるんだわ! ストーカー極まってるよあの女! 姉ちゃん、早く帰ってお兄ちゃんを守らないと!!」
「ええ! 急ぐわよ!」
ゴーストの最後の優しさは、見事なまでに「ガチのストーカー被害への恐怖」へと変換され、姉妹は全力疾走で家路へと急ぐのであった。
同時刻。三神家。
五カ所同時の魔獣テロという、日本の歴史に残るであろう未曾有の大事件を、たった一人で、しかも数分という短時間で完全鎮圧した特S級魔法少女。
その正体である三神零は、自宅のキッチンでエプロンを身に纏い、鬼の形相で大根をおろし金に擦り付けていた。
「シャカシャカシャカシャカシャカッ!!!」
目にも留まらぬ速さで大根おろしが完成していく。
横のまな板には、種を完璧に取り除かれたすだちが美しく添えられている。
そして魚焼きグリルからは、パーシャル室で鮮度を極限まで保たれた秋刀魚の脂が落ちる、ジュワッという極上の音が響き、食欲をそそる香ばしい煙が立ち込めていた。
「よし……! 焼き加減、完璧。大根おろしの水分量、完璧。すだちのカット、完璧だ。……間に合った!」
零が額の汗を拭い、ガッツポーズを取ったまさにその時。
玄関のドアが、ガチャリと勢いよく開いた。
「ただいまーっ!! お兄ちゃん、無事!?」
「零! 戸締まりはしっかりしてる!? 変な女が訪ねてこなかった!?」
戦闘服から急いで私服に着替えたであろう澪と玲奈が、血相を変えてリビングへと駆け込んできた。
その顔には、先ほどまでの激戦の疲労よりも、「弟をストーカーから守らなければ」という強い使命感が漲っている。
「おかえり。変な女って……近所のローゼンベルグさんなら今日は来てないけど、どうしたんだ? 姉ちゃんも玲奈も息切らして」
零は、すべてを知っているくせに、完璧な「何も知らない心配性の弟」の顔で首を傾げた。
「ううん、何でもないの! お兄ちゃんが無事ならそれで!」
玲奈がホッとしたように胸を撫で下ろす。
「そうね。……あ、すごく良い匂い。今日の夕飯は?」
澪が、キッチンから漂う香りに目を細めた。
「今日は特売の秋刀魚の塩焼きだ。姉ちゃんたちもお腹空いてるだろ? ちょうど今、最高の状態で焼き上がったところだから、手を洗っておいで」
零が、自慢の秋刀魚を大皿に盛り付けながら微笑む。
「やったー! お兄ちゃんの秋刀魚!」
「すっごく美味しそう……! 大根おろしもすだちも完璧ね」
食卓に並べられた、黄金色に輝く秋刀魚の塩焼き。
一口食べた姉妹の顔に、今日一番の幸せそうな笑顔が広がる。
「美味しいっ! 皮はパリパリで、身はふっくら……! やっぱりお兄ちゃんのご飯が世界一だよ!」
「ええ。こんなに美味しいご飯を作ってくれる零を、誰にも渡したくないわね」
姉妹は、先ほどまで命懸けで戦っていたことなど嘘のように、平和な食卓の時間を噛み締めていた。
五カ所で起きた魔獣のテロのニュースがテレビで流れ始めているが、この三神家の食卓には、そんな世界の危機よりも重要な「家族の温もり」が確かに存在している。
(……うん。新宿でも、池袋でも、品川でも、上野でも、そして渋谷でも。ちょっと魔力を使いすぎたけど、姉ちゃんたちのこの笑顔が見られたなら、安いもんだ)
特売の秋刀魚を美味しく食べる姉妹の姿を見つめながら。
世界で最も恐ろしい死神である三神零は、自分用の秋刀魚にすだちを絞り、心からの安堵の息を吐くのであった。




