第百五十六話
『ゴースト』は、東京の地下を縦横無尽に駆け抜けていた。
新宿、池袋、そして品川。
三つの戦場を立て続けに鎮圧し、知能を得た魔獣たちをチリに変えてきた彼女の頭の中は、今や一つの至上命題で完全に占められていた。
(よし、これで三カ所は完全に片付いた。時間的にはまだ余裕があるが……いや、油断は禁物だ。秋刀魚の塩焼きにおいて、最も重要なのは『焼き立ての瞬間に、完璧な薬味を添えること』に他ならない)
特S級の未登録魔法少女にして、世界最強の主婦力を持つ男子高校生は、影の海を高速で泳ぎながら、今夜の夕食のシミュレーションを脳内で展開する。
(大根おろしは、食べる直前におろさないと風味が飛んでしまう。そして『すだち』だ。すだちは横に半分に切り、種を竹串で丁寧に取り除いておかなければ、絞った時に種が魚に落ちて不格好になる。その細やかな下準備こそが、食卓のクオリティを決定づけるんだ……! こんなところで魔獣の相手をして時間を食っている場合じゃない!)
世界を滅ぼしかねない魔獣の大規模テロよりも、すだちの種取りの方が優先度が高い。
その恐るべき(そして極めて平和的な)執念を胸に秘め、ゴーストは四カ所目の戦場である「上野」へと急行した。
上野エリア。
普段は文化と自然が調和する憩いの場である上野恩賜公園は、木々がへし折れ、石畳が砕け散る激戦地と化していた。
「シィッ!! ——『穿て、白銀の牙』!!」
鋭い呼気と共に、弓飛鳥が身の丈を越える長槍を猛烈な速度で繰り出す。
切っ先から放たれた衝撃波が、前方に群がっていた三体の魔獣の胴体を正確に貫き、黒い血を噴き出させて後方へと吹き飛ばした。
『白百合の盾』において、氷の緋雪に次ぐ実力を持つトップエース。彼女の槍さばきは、無駄な動きが一切なく、まるで精密機械のように魔獣の急所を的確に穿っていた。
「飛鳥先輩! 上からも来ますっ!!」
「分かってる! 真奈、足元をお願い!」
「はいっ! 『大地の咆哮』ッ!!」
土属性のパワー型エースである只野真奈が、自身の背丈ほどもある巨大な特注ハンマーを大きく振りかぶり、力任せに石畳へと叩きつけた。
ズドォォォォンッ!!
局地的な大地震が発生し、地面が波打つように隆起する。その強烈な振動により、木々の枝に潜んで奇襲をかけようとしていた魔獣たちが、バランスを崩して次々と地面へと転げ落ちた。
「落ちてきたねぇ。それじゃあ、まとめて燃やしちゃおうか。——『紅蓮の抱擁』」
のんびりとした口調で紡がれたのは、旧協会から離反した炎のエース、新堂鈴乃の広範囲魔法だった。
彼女の杖の先から放たれた炎が、生き物のようにうねりながら落下してきた魔獣たちに絡みつき、周囲の木々に引火させることなく、魔獣の肉体だけをピンポイントで焼き焦がしていく。
槍、土のハンマー、炎の魔法。
三人のエースによる見事な連携だった。だが、彼女たちの表情には疲労の色が濃く滲んでいた。
『ギ……ガァァァッ!』
『シャァァァァッ!!』
「くっ……! 倒しても倒しても、キリがないわね……!」
飛鳥が槍を引き戻し、荒い息を吐く。
上野公園の地形は、魔獣たちに味方していた。
鬱蒼と茂る木々や、入り組んだ遊歩道、そして不忍池といった複雑な地形を利用し、知能を得た魔獣たちは「ゲリラ戦法」を展開していたのだ。
さらに、民間人たちは公園内の博物館や美術館に逃げ込んでいるが、魔獣たちはその出入り口を完全に包囲し、いつでも施設内に突入できる態勢を整えている。そのため、鈴乃の最大の武器である「広範囲の殲滅魔法」をフルパワーで撃つことができず、火力を抑えざるを得ない状況に陥っていた。
『……分析対象・アルファ(白百合の盾)。魔力出力の低下を確認。地形の優位性は我にある。各個撃破のフェーズへ移行せよ』
不忍池の奥深く、水面に半身を沈めた「指揮官個体」が、配下たちに念話のネットワークを通じて冷酷な指示を飛ばす。
指示を受けた瞬間、魔獣たちの動きが劇的に変化した。
十数体が真奈を囲み込んでハンマーの射程外から土塊の弾丸を連射し、同時に木々の死角から鈴乃へと素早い奇襲をかける。そして、最も厄介な飛鳥に対しては、前衛が肉の盾となって彼女の槍を押さえ込み、その隙に後衛が死角から魔力光線を放つ。
「しまっ……!」
飛鳥の槍が、魔獣の強靭な筋肉に挟み込まれて抜けなくなる。
彼女の視界の端で、後衛の魔獣の口元に致死量の魔力が収束していくのが見えた。
(避けられない……!)
飛鳥が防御魔法を展開しようとした、その刹那だった。
——ピシッ。
上野公園の生ぬるい夜風が、一瞬にして、肺を凍らせるほどの『絶対零度』へと変貌した。
魔獣たちの動きが、本能的な恐怖によって完全にフリーズする。
飛鳥を狙っていた魔獣の口元に集まっていた魔力すらも、その圧倒的な冷気によって霧散してしまった。
「……? 何が、起きたの……?」
飛鳥が呆然と呟く。
彼女の足元、美術館に続く石畳に落ちた「木漏れ日の影」が、突如として真っ黒なインクを零したように広がり始めた。
影はズブズブと底なしの深淵を形成し、そこから漆黒の靄が間欠泉のように噴き出す。
そして、すべての音と熱を奪い去るような圧倒的な魔圧の奔流と共に、虚空からゆっくりと姿を現したのは——漆黒のゴシックドレスを纏い、身の丈ほどある大剣を提げた、特S級の未登録魔法少女『ゴースト』であった。
「……小賢しい真似を。獣が森に隠れてコソコソと、ネズミの真似事かしら?」
ゴーストの透き通るような、しかし深淵の底から響くような冷酷な声が、上野公園の木々の間を縫って響き渡った。
「ゴースト……!? どうしてここに……!」
飛鳥が目を剥く。
「ゴーストちゃん……。相変わらずすっごい魔力だねぇ。肌がヒリヒリするよ」
鈴乃が、普段ののんびりした口調を崩さずに、しかし額に冷や汗を流しながら呟く。
「ひゃあっ!? な、なんですかあの圧倒的なプレッシャー! 私、ハンマー落としちゃいそうです!」
真奈に至っては、あまりの魔圧に足の震えが止まらない。
一方、影移動で上野に到着したゴーストの内面は、相変わらずの主婦思考でフル回転していた。
(よし、四カ所目! 飛鳥さんたち、ゲリラ戦法に手こずってるみたいだな。木に隠れられると確かに面倒だけど、俺の極大魔法なら森ごと焼き払える。……いや、ダメだ。そんなことをしたら上野公園の自然が台無しになるし、ニュースで大騒ぎになって特売のチラシ情報が潰れかねない。民間人の避難先にも被害が及ぶ)
瞬時に状況を判断したゴーストは、大剣を虚空から引き抜くと、静かに紫の瞳を飛鳥たちへと向けた。
「……そこの白百合の騎士たち。無様に追い詰められているようね」
「っ! 無様とは失礼ね! 民間人を守るために、火力を絞っているだけよ!」
飛鳥が、ゴーストの冷ややかな視線に反発して叫ぶ。
(ふふっ、飛鳥さんも負けず嫌いだな。羽衣さんと同じで、本当に真っ直ぐだ。……よし、ここは彼女たちの力を借りて、一網打尽にするか。すだちの種取りの時間が惜しいし)
零は、彼女たちの実力を高く評価した上で、最も効率的な殲滅プランを構築した。
「……口答えは一人前ね。なら、その火力を絞る必要がない状況を作ってあげるわ。私の指示に従いなさい」
「指示ぃ!? なんで私たちがあなたの言うことを……」
「聞かないなら、あなたたちごとこの森を『絶対零度』で凍らせるけれど?」
「っ……! わ、分かったわよ!」
飛鳥は、ゴーストが冗談で言っているのではないと本能で悟り、ギリッと歯を食いしばって槍を構え直した。
『……特異点の出現を確認! 各個撃破を中止! 全軍、森の死角を利用して特異点への飽和攻撃を行え!』
指揮官魔獣が、念話のネットワークを通じてパニック気味の指示を飛ばす。
数十体の魔獣が木々の裏や枝葉の影に身を潜め、ゴーストへ向けて無数の魔力弾を一斉に発射した。全方位からの、姿の見えない奇襲攻撃。
だが、ゴーストは一歩も動かない。
「……土のあなた(真奈)。あなたのハンマーで、この公園の地盤全体を『限界まで』揺らしなさい」
「えっ!? で、でも、そんなことをしたら避難所の建物まで壊れちゃいます!」
「心配無用よ。建物の基礎は、私が『闇の結界』で完全に固定するわ。あなたはただ、地面の魔獣どもを宙に浮かせることだけを考えなさい」
言うが早いか、ゴーストの左手から漆黒の波動が放たれ、民間人が避難している博物館や美術館の建物を、ドーム状の絶対的な闇の結界で覆い尽くした。これにより、いかなる振動や物理衝撃も、建物内部には一切届かなくなる。
「すごい……一瞬でこんな規模の結界を……! 分かりました! 行きますっ!!」
真奈が、ゴーストの圧倒的な力に背中を押されるように、持てる全ての魔力を特注の巨大ハンマーに注ぎ込んだ。
「——『大地の激昂』ッ!!!」
真奈のハンマーが、大地を粉砕する勢いで叩きつけられた。
ドゴゴゴゴゴゴォォォォンッ!!
マグニチュード7クラスの局地的な激震が上野公園を襲う。結界で守られた建物を除き、公園内の石畳が次々と砕け散り、木々が激しく揺れ動く。
その規格外の振動により、木々の裏に隠れてゴーストを狙っていた魔獣たちが、次々とバランスを崩して宙へと放り出された。
『ガァァァッ!?』
『ギチィッ!!』
「……炎のあなた(鈴乃)。宙に浮いたネズミどもを、すべて灰に変えなさい」
ゴーストが、涼しい顔で次の指示を飛ばす。
「ふふっ、建物の心配がないなら、遠慮はいらないねぇ! 派手にいくよー!」
鈴乃が、杖を天高く掲げる。
「——『灼熱の流星群』!!」
旧協会のトップエースとして君臨していた彼女の、真の広範囲殲滅魔法が解放される。
上野の夜空に巨大な魔法陣が展開され、そこから無数の炎の流星が、宙に放り出されて身動きの取れない魔獣たちへと正確に降り注いだ。
ズガガガガガガンッ!!
空中で次々と爆発が起こり、数十体の魔獣が断末魔と共に黒コゲになって落下していく。
『バ、馬鹿な……! 地形の優位性が、たった二つの魔法で完全に無力化されただと!?』
不忍池の奥底に潜む指揮官魔獣が、絶望の念話を漏らす。
ゴースト自身はまだ一撃も放っていない。ただ的確な指示を出し、白百合のメンバーの力を120%引き出しただけで、魔獣の軍隊戦術を完全に崩壊させてしまったのだ。
「……さあ。あとはネットワークの核(指揮官)を潰すだけね。槍のあなた(飛鳥)、私に続きなさい」
ゴーストが、大剣を片手に虚空を蹴った。
漆黒のドレスがひらりと舞い、彼女は音速を超える速度で不忍池の方向へと直進する。
「ちょっと、勝手に仕切らないでよ! ……でも、やってやるわ!」
飛鳥もまた、自慢の脚力と身体強化魔法をフル稼働させ、ゴーストの背中を追って疾走した。
『ヒッ……! 来るな! 来るなァァッ!!』
不忍池の水面から身を乗り出した指揮官魔獣が、パニックに陥りながら、ゴーストに向けて最大の魔力光線を放つ。
極太の光線が、空間を焼き焦がしながら迫り来る。
「——『深淵の帳』」
ゴーストが左手をかざすと、彼女の前に漆黒のブラックホールのような空間が出現し、指揮官魔獣の全力の光線を一瞬にして丸呑みにしてしまった。
「な……防御魔法どころか、魔力をそのまま飲み込んだ!?」
背後を走る飛鳥が、その規格外の現象に戦慄する。
「飛鳥! 今よ!」
ゴーストが、初めて飛鳥の名前を呼んだ。
(えっ、名前、知ってたの……!?)
驚く飛鳥だったが、戦闘中の研ぎ澄まされた本能が、彼女の身体を無意識に動かした。
ゴーストが魔力を飲み込んだ一瞬の隙。
飛鳥は渾身の力を込めて、長槍を槍投げの要領で指揮官魔獣へと投擲した。
「——『閃光の白銀』ッ!!」
白銀の槍が、雷のごとき速度で指揮官魔獣の胸元へと突き刺さる。
『ガ、アァァァァッ!!』
致命傷には至らないものの、指揮官魔獣は強烈な衝撃で体勢を崩し、防御魔法を展開する余裕を完全に失った。
「見事よ」
ゴーストの静かな称賛の声。
次の瞬間、ゴーストは空間跳躍で指揮官魔獣の頭上へと転移していた。
身の丈ほどある大剣に、漆黒の魔力が極限まで圧縮される。
「——『深淵の断頭台』」
刃が閃く。
音もなく、抵抗もなく。
指揮官魔獣の巨体は、脳天から股下まで、完璧な左右対称に真っ二つに両断された。
『……演算、不可能……。神、に……勝てるはずが……』
指揮官魔獣は、そのまま崩れ落ち、黒い霧となって池の水面へと溶けて消えた。
ネットワークの核を失った残存の魔獣たちが、完全にパニックを起こして逃げ惑う。
「これで、終わりよ。——『終焉の業火』」
ゴーストが、美しく細い右指をパチンと鳴らす。
不忍池の周囲を逃げ惑う残存の魔獣たちの足元から、太陽の表面温度に匹敵する超高熱の紅蓮の炎が爆発的に噴き上がった。
極限までコントロールされた業火は、周囲の木々や池の水を一滴も蒸発させることなく、魔獣の肉体だけを的確に焼き尽くし、一瞬にしてチリ一つ残さず空間から消滅させた。
相反する属性の極大魔法と、完璧な結界のコントロール。
そして何より、初対面に近い白百合のメンバーたちと一瞬で連携を構築し、被害ゼロで戦況をひっくり返すその戦術眼。
すべてが、次元を超越していた。
炎が消え、上野公園に静寂が戻った。
残されたのは、無傷の民間人たちと、息を切らしている白百合のエース三人、そして大剣を虚空に消滅させたゴーストだけであった。
「……す、すごい……。これが、ゴーストの本当の実力……」
真奈が、ハンマーを抱えたまま、ゴーストの姿に完全に見惚れている。
「いやぁ、規格外だねぇ。旧協会の上層部が束になっても、あの子の足元にも及ばないよ」
鈴乃も、額の汗を拭いながら苦笑いした。
そして飛鳥は。
自分が投げた槍を回収しながら、複雑な表情でゴーストを見つめていた。
「……助けられたわね。悔しいけど、あなたの指示が的確だったのは認めるわ」
飛鳥が、ツンとした態度を崩さずに言う。
(ふふっ、やっぱり素直じゃないな。でも、そういうところも可愛い後輩って感じで良いな)
中身は完全に「年上の保護者」目線になっているゴースト(零)は、微笑ましく思いながら頷いた。
「でもね!」
飛鳥が、ビシッとゴーストを指差す。
「魔法少女としての実力は完敗でも、私たちは絶対にあなたには屈しないわよ! 緋雪が言ってた通り、あなたが三神くんの日常をストーキングしてるって言うなら、私たちは全力で彼を守り抜くんだから!」
「……そう! 緋雪ちゃんの恋のライバルには、負けませんっ!」
真奈が、よく分かっていないまま便乗して叫ぶ。
(……え? 羽衣さんの恋のライバル? 俺が?)
ゴースト(零)の脳内で、疑問符が飛び交う。
(羽衣さんが三神零(俺)のことを守ろうとしてくれているのは分かるけど、なんで恋のライバル? あ、もしかして、俺がストーカーだと思われてるから、羽衣さんが『私の方が三神くんを大切に思ってる!』って張り合ってるのか。なるほどなぁ。純粋で真っ直ぐな正義感の表れだな)
零は、緋雪の自分に対する「ガチの恋心」を、相変わらず「魔法少女としての過剰な正義感と庇護欲」だと完璧に勘違いしたまま、自己完結させてしまった。
(というか、飛鳥さんも真奈さんも、それに全力で乗っかってくれるなんて、本当に仲の良いチームなんだな。白百合の盾、良い組織になったじゃないか)
零は内心でほっこりしながらも、表向きは冷酷な死神の顔で、フッと優雅に微笑んだ。
「……ふふっ。面白い冗談ね。好きになさい。あなたたちのその絆、嫌いじゃないわ」
ゴーストは、それだけ言い残すと、自らの足元に伸びる影の中へと静かに沈み込んでいった。
「ッ……! またあの余裕ぶった態度! 絶対、私たちのこと子供扱いしてるわね!」
飛鳥が顔を真っ赤にして地団駄を踏む。
「(……というか、なんで私まで緋雪の恋のキューピッドみたいなこと言っちゃったのかしら。まあいいか、チームの団結力は高まったし)」
飛鳥は内心で小さくツッコミを入れながらも、ゴーストの圧倒的な力と、理不尽なほどの余裕(すだちの種取りのことで頭がいっぱい)に翻弄され、次なる戦いへの闘志を燃え上がらせていた。
(よし、これで四カ所目クリア! いよいよ最後は渋谷エリアだな。あそこは分身体を向かわせてあるけど、やっぱり自分で片付けた方が早いだろう。すだちの種取りと大根おろしを完璧にこなすためにも、最後は一瞬で終わらせるぞ!)
漆黒のドレスを纏った絶望の死神は、夕飯の究極の仕上がりという何よりも重い使命を胸に抱き、最後の戦場である渋谷へと、影の海を高速で渡っていくのであった。




