第百五十四話
新宿から数キロ離れた池袋エリア。
普段ならば多くの若者たちで賑わうサンシャイン通りは、今や赤黒い炎と紫色の稲妻が乱れ飛ぶ、地獄の戦場と化していた。
「——『紫電の縛陣』ッ!」
ヴィクトリア・ローゼンベルグが手にしたレイピアをアスファルトに突き立てると、逃げ遅れた数十人の民間人を囲むように、強固な雷の結界がドーム状に展開された。
バチバチと火花を散らす雷の壁に、魔獣たちが放った岩の弾丸や炎の槍が激突し、凄まじい衝撃波を発生させる。
世界的な秘密組織『星監』の最高指導者であり、雷属性を操るS級の超越者であるヴィクトリア。彼女の実力をもってすれば、A級魔獣の数十体程度、単独で殲滅することなど造作もないはずだった。
だが、現在の彼女の顔には、疲労と濃い焦燥の色が浮かんでいた。
『ギ、ガァァァァッ!!』
魔獣たちは知能を得ていた。彼女が民間人を守るために結界を張ったことを見抜き、結界への攻撃を継続しながら、ヴィクトリア本人を完全に孤立させるように包囲網を狭めてくる。
さらに、彼女の苦境はそれだけではなかった。
「アハハハハハッ!! 燃えろ、燃えろォォォッ!!」
「アァァァァッ……邪魔ダ、壊スゥッ!!」
魔獣の群れをかき分けるように現れたのは、魔法少女協会の制服を身に纏った四人の少女たち——新エース部隊の林道沙也加、金丸凛子、矢島スズ、遠山静音であった。
しかし、彼女たちの様子は明らかに常軌を逸していた。瞳孔は開き、口元からは泡混じりの涎が垂れ、その身体からは人間の許容量を遥かに超えたドス黒い魔力が間欠泉のように噴き出している。
星監の離反者と宮田支部長によって投与された禁忌の強化薬『ステラ・ドロップ』。その副作用により、彼女たちは理性を完全に焼き切られ、ただ魔力を垂れ流すだけの「人間兵器」へと成り果てていたのだ。
「炎槍・乱れ咲き……ッ!!」
「真空断層ゥッ!!」
暴走した林道と金丸が、狂った笑い声を上げながら、魔獣とヴィクトリアの区別なく、超高火力の複合魔法を放つ。
魔獣の群れの一部がその巻き添えを食って消し飛ぶが、大部分の攻撃はヴィクトリアの展開する結界へと容赦なく降り注いだ。
「くぅッ……! 薬で魔力回路を暴走させて、無理やりS級領域まで出力を引き上げているというの……!? 馬鹿な真似を!」
ヴィクトリアは、ビリビリと痺れる腕を必死に支えながら、レイピアに魔力を注ぎ込み続ける。
そこへ、ビルの屋上から嘲笑うような男の声が降ってきた。
「ハハハッ! 随分と落ちぶれたものだな、総帥!」
見上げると、顔に傷のある男をはじめとする数名の男たちが立っていた。ヴィクトリアの方針に反発し、組織を裏切った星監の過激派幹部たちである。
「シュナイダー……! 貴様ら、協会と結託してこんな薬を流通させるとは、正気なの!?」
「正気を失っているのは貴女の方だ、ヴィクトリア! たかが一人の男子高校生(エージェント零)の隣に引っ越し、毎日毎日エプロン姿でお菓子作りに精を出すなど、星監のトップとして恥ずかしくないのか! 我々は貴女をここで排除し、新たな星監を打ち立てる!」
「っ、この愚か者どもが……っ! 彼(三神零)がどれほど恐ろしい存在か、何も分かっていないくせに……!」
ヴィクトリアはギリッと歯を食いしばる。
魔獣の統制された軍隊戦術。
理性を失い、S級に迫る火力を乱れ撃つ暴走エース部隊。
そして、その隙を突いてヴィクトリアの命を狙う離反者たち。
三つ巴の地獄のような戦場の中央で、彼女はただ一人、逃げ遅れた民間人を背にかばいながら孤軍奮闘を強いられていた。
『分析対象・ガンマ(星監トップ)の魔力低下を確認。……全軍、一斉掃射で結界を粉砕しろ』
魔獣の奥底に潜む指揮官個体が、冷酷な指示を飛ばす。
数十体の魔獣と、暴走する新エース部隊の攻撃が一斉にヴィクトリアへと収束しようとした、まさにその絶体絶命の瞬間だった。
——ピシッ。
池袋サンシャイン通りの空気が、文字通り「絶対零度」に凍りついた。
「な……?」
ヴィクトリアが、自身の足元に伸びる「影」が不自然に歪んだことに気づく。
影がまるで底なしの沼のように広がり、そこから漆黒の靄が溢れ出す。
すべての音と熱を奪い去るような圧倒的な魔圧の奔流と共に、虚空からゆっくりと姿を現したのは——漆黒のゴシックドレスを纏い、紫の瞳を冷ややかに輝かせる特S級の未登録魔法少女、『ゴースト』であった。
「……随分と、騒がしいわね」
ゴーストの透き通るような、しかし深淵の冷たさを孕んだ声が、戦場全体に響き渡った。
その瞬間、暴走して狂い笑っていた新エース部隊の動きがピタリと止まり、魔獣たちは本能的な恐怖に喉を鳴らして後退した。ビルの屋上にいた離反者たちも、そのあまりのプレッシャーに膝をガクガクと震わせる。
「ゴ、ゴースト……!?」
ヴィクトリアの顔から、一瞬にして血の気が引いた。
(ああ、なんてこと! やっぱり、昨日スコーンを渡しに行った時、一緒にいたルディア・ロンディニウムと喧嘩してしまったせいで、エージェント・三神零の機嫌を損ねてしまったのね!? だから、ついにゴースト本人が私を粛清するために現れたんだわ……!!)
世界的な秘密結社のトップであるヴィクトリアの脳内で、絶望的な(そして完全に的外れな)勘違いが光の速さで展開されていた。
一方、影移動で池袋に到着したゴースト(零)の内面は、激しいツッコミと焦りで大忙しであった。
(うわっ、隣のローゼンベルグさんがガチの魔法少女の格好で血まみれになってる!? っていうか、この間の新エース部隊の人たち、なんかクスリでもキメたみたいに泡吹いて暴走してるし! 俺のパーシャル室の秋刀魚が待ってるのに、なんでどいつもこいつも面倒なことになってるんだよ!)
しかし、そんな主婦の焦りなどおく首にも出さず、ゴーストは極めて冷酷で優雅な死神の顔を崩さない。
「……ヴィクトリア・ローゼンベルグ。星監のトップともあろう者が、随分と手こずっているようね」
「ッ……!」
名前を呼ばれたヴィクトリアは、完全に「処刑宣告」を受けたと勘違いし、ヒッ、と小さく悲鳴を上げた。
「も、申し訳ありません! 私の不徳の致すところで、このような無様な姿を……!」
「いいえ、構わないわ。……私の視界を汚すゴミは、私が直接片付けるから」
ゴーストは、身の丈ほどある大剣を虚空から引き抜くと、紫の瞳をビルの屋上へと向けた。
「あ、あれがゴーストか……! ひ、怯むな! 我々には強化薬を打ったエース部隊がいる!」
離反者のシュナイダーが虚勢を張って叫ぶ。
「やれッ! 新エース部隊! その化け物を殺せェェッ!!」
シュナイダーの指示(というより、ゴーストという最大の脅威に対する本能的な防衛反応)に従い、暴走する林道たちが一斉にゴーストへと襲い掛かった。
炎、風、水、土。
四つの属性が極限まで高められた暴走状態の複合魔法が、空間を削り取りながらゴーストへと殺到する。
「危ないッ!!」
ヴィクトリアが思わず叫ぶ。
しかし、ゴーストは一歩も動かなかった。
紫の瞳で、迫り来る圧倒的なエネルギーの奔流をただ一瞥するだけ。
——シュゥゥゥゥッ……!
ゴーストのドレスの裾に触れる十メートル手前で、新エース部隊の全力攻撃は、見えない壁に当たったかのように文字通り「無」へと還元され、あっけなく消滅した。
「な、なんだと……!? S級に匹敵する四人の同時攻撃が、ただの魔力障壁だけで相殺されたというのか!?」
シュナイダーが信じられないものを見たように目を剥く。
「……愚かね」
ゴーストの冷ややかな声が響く。
「協会の駒として人間としての尊厳すら奪われ、ただ薬に溺れて力を垂れ流すだけの操り人形。……哀れで、見ていられないわ」
ゴーストは、狂ったように涎を垂らして次の魔法を撃とうとしている新エース部隊に向けて、静かに左手をかざした。
「『絶対零度の呪縛』」
極低温の魔力が、目に見えない鎖となって林道たち四人の身体に絡みついた。
それは、肉体を凍らせる魔法ではない。彼女たちの体内で暴走している「魔力回路そのもの」をピンポイントで急速冷却し、強制的に機能停止させるという、神業のような魔力操作だった。
魔獣には容赦なく「終焉の業火」を浴びせるゴーストだが、ただの高校生である零にとって、同じ人間である彼女たちを殺すという選択肢は最初から存在しなかった。
「アッ……ガァ……」
林道たちが白目を剥き、体内で暴走していたドス黒い魔力が瞬く間に沈静化していく。
やがて完全に魔力回路を停止させられた四人は、糸の切れた操り人形のようにその場にパタリと倒れ伏し、深い気絶状態に陥った。
「ば、馬鹿な……!? 我々の最高傑作が、一瞬で……!」
「さあ、次はあなたたちよ」
ゴーストの紫の瞳が、ビルの屋上のシュナイダーたちを捕らえた。
「ヒッ……! に、逃げろ!!」
「『深淵の鎖』」
ゴーストが指を鳴らした瞬間、ビルの屋上に鎖が現れ拘束した。
「グベッ!?」
離反者たちは逃げる暇すら与えられず、倒れ込みカエルが潰れたような無様な悲鳴を上げた。
圧倒的。
あまりにも理不尽な力の差。
ヴィクトリアを絶体絶命のピンチに追い込んでいた二つの脅威は、ゴーストが降臨してからわずか数十秒で、完全に、かつ無傷で無力化されてしまった。
『……退却! 退却しろ! アレと戦ってはならない!!』
奥底に潜む魔獣の指揮官個体が、絶望の念話を飛ばし、残存する数十体の魔獣たちが一斉に背を向けて逃げ出そうとする。
「逃がすわけないでしょう」
ゴーストは大剣の切っ先を地面に突き立て、背後に控えて呆然としているヴィクトリアへと視線を向けた。
「ヴィクトリア。いつまで床に這いつくばっているつもり? 星監のトップなら、私の『掃除』くらい手伝いなさい」
「えっ……!?」
ヴィクトリアの紫水晶の瞳が見開かれる。
(あ、あれだけの力を見せつけておきながら、私に『手伝え』と……? そうか、これは……エージェント・三神零の隣人として、私が星監のトップとして有益かどうかを判断するための、最後のテストなのね!!)
完全に的外れなベクトルで極限のプレッシャーを感じ取ったヴィクトリアは、恐怖で震える膝を必死に叩き、立ち上がった。
「は、はいっ! 喜んで、お手伝いさせていただきます!!」
ヴィクトリアはレイピアを天高く掲げた。
「我が雷霆よ、今こそ星の裁きを下せ! ——『紫電の裁き(ケラウノス・ジャッジメント)』!!」
ヴィクトリアのS級の魔力が限界を超えて解放される。
池袋の夜空を覆う暗雲から、無数の巨大な紫電の稲妻が降り注ぎ、逃げ惑う魔獣たちの退路を完全に塞ぐように落雷の壁を形成した。雷の檻に閉じ込められた魔獣たちは、指揮官が展開した魔力障壁ごとバリバリと焼き焦がされ、動きを完全に封じられる。
「よくやったわ」
ゴーストの静かな称賛の声。
その言葉を聞いた瞬間、ヴィクトリアは「テストに合格した」という極度の安堵と感動で、思わず泣きそうになってしまった。
「これで、終わりよ。——『終焉の業火』」
ゴーストが、右指をパチンと鳴らす。
雷の檻に閉じ込められた数十体の魔獣と、奥底に潜んでいた指揮官個体の足元から、太陽の表面温度に匹敵する超高熱の紅蓮の炎が爆発的に噴き上がった。
一切の爆風も音もなく、ただ圧倒的な熱量だけが空間を支配する。
ヴィクトリアの雷霆によって足を止められていた魔獣たちは、断末魔を上げる暇すらなく、一瞬にしてチリ一つ残さず空間から消滅した。
炎が消え、静寂を取り戻した池袋サンシャイン通り。
残されたのは、無傷の民間人たちと、気絶した新エース部隊、そして屋上で這いつくばっている離反者たちだけだった。
「……終わった……」
ヴィクトリアはレイピアを降ろし、フラフラと膝をついた。
そして、ゴーストに向かって深く、まるで神に祈るように傅いた。
「ありがとうございます、ゴースト様。そして、申し訳ありません。エージェント・三神零殿の隣人として、私が不甲斐ないばかりに、わざわざ御自ら出向かせてしまうことになり……」
(いやいや、ただの男子高校生なんだけど! なんか隣のローゼンベルグさんが俺のこと『エージェント』とか勝手に勘違いして怯えてるんだけど!? スコーンのお礼もまだ言ってないのに、めちゃくちゃ気まずい!)
内心で冷や汗を流しながらも、ゴースト(零)は表面上は完璧な死神の顔を崩さない。
「……私の前で、つまらない言い訳は不要よ。あなたの忠誠と実力は、今日の働きで理解したわ」
「ああっ……! 光栄の極みに存じます!」
「私は次に行くわ。ここ(気絶した連中)の事後処理は、あなたに任せるわよ」
ゴーストはそれだけ言い残すと、瓦礫の陰に伸びる自らの「影」へと視線を落とした。
「はっ! 必ずや、完璧に処理いたします!」
ヴィクトリアは、ゴーストの後ろ姿に向かって深々と頭を下げる。
彼女の脳内では、「星監はエージェント零のテストに合格し、同盟組織として認められた」という都合のいい(そしてカルト並みに強固な)勘違いが完全に成立してしまっていた。
(よし、これで二カ所目クリア! パーシャル室の秋刀魚もまだ無事なはずだ。……次は、品川エリアだな)
ゴーストは自らの影の中へと沈み込み、再び空間を跳躍した。
次なる戦場は、情報班トップである由鶴と、氷のトップエースである緋雪が向かったはずの品川エリア。
特売の秋刀魚を美味しく焼くという至上命題のため、紫の瞳の死神は、休むことなく夜の東京を駆け抜けていくのであった。




