第百五十三話
すっかり日が落ち、夜の帳が下りた住宅街。
スーパー『ヤオヨシ』での買い物を終えた三神零は、全速力で自宅のキッチンへと駆け込んでいた。
「ただいま! よし、まずは秋刀魚だ!」
誰に言うでもなく呟きながら、零はエコバッグから鮮度抜群の秋刀魚が二尾入ったパックを取り出す。
青魚の鮮度は命だ。常温で放置すれば、たちまち臭みが出て、せっかくの脂の乗りも台無しになってしまう。零は手早くパックから秋刀魚を取り出すと、流水で表面のドリップを丁寧に洗い流し、キッチンペーパーで水気を完璧に拭き取る。そして、空気に触れないようにピッタリとラップで包み、フリーザーバッグに入れて空気を抜き、冷蔵庫のパーシャル室(微凍結ルーム)へと大切に安置した。
「完璧だ。これで秋刀魚の鮮度は明日まで完全に保たれる。……あとは大根おろしをすって、すだちを切って……いや、その前に」
零は、エプロンの紐を解きながら、小さく、しかし鋭い息を吐き出した。
彼の耳には、常人には聞こえない微弱な魔力波の振動が届いている。先ほどスーパーで漏れ聞いた、白百合の盾の情報班・新実由鶴の悲痛な報告。
——『現在、都内の五つのエリアで、A級相当の人型魔獣の群れが「同時」に発生しました!』
新宿、渋谷、池袋、品川、上野。
知能を得た上位個体による、人間の防衛網を分断・崩壊させるための五カ所同時テロ。
「羽衣さんたちがいくら強くても、五カ所に分散されて、しかも陣形を組んだ魔獣を相手にするのは無理がある」
零は誰もいないリビングの中心に立つと、深く目を閉じ、己の奥底に眠る特S級の魔力回路を全開にした。
ズンッ……! と、三神家を中心とした半径数キロメートルの空間が、一瞬だけ重力異常を起こしたかのように軋む。
「五カ所に分散されてるみたいだが……俺の『影移動』なら、全部回っても特売の秋刀魚を焼く時間は十分にあるな。手早く掃除してこよう」
零の口から、氷のように冷たく、艶やかな少女の声が紡がれる。
——「変身」。
短く呟いた瞬間、彼の身体を漆黒の靄が包み込み、見慣れた男子高校生の制服姿から、漆黒のゴシックドレスを纏った絶世の魔法少女——『ゴースト』の姿へと変貌を遂げた。
白磁のような肌と、神秘的で深淵な紫の瞳が、暗闇の部屋の中で妖しく発光する。
ゴーストは身の丈ほどある大剣を虚空から引き抜くと、リビングの床に落ちた自身の「影」へと視線を落とした。
彼女の影移動は、物理的な距離や障害物を一切無視して、闇から闇へと転移する神業である。
まずは、最も被害規模が大きく、激戦が予想される「新宿」へと狙いを定め、ゴーストは静かに自らの影の中へと沈み込んでいった。
新宿・歌舞伎町周辺。
かつて日本一の歓楽街として不夜城の異名を取ったその街は、今や炎と瓦礫に包まれた地獄絵図と化していた。
『ガ、アァァァッ……!』
『ギチ……ギチギチッ……』
知能を得たA級人型魔獣たちは、もはや本能のままに暴れるだけの獣ではない。
彼らは横一列に並んで「盾」となる前衛部隊を構築し、その後方から遠距離攻撃用の魔力弾を放つ後衛部隊を配置する、という完璧な軍隊の陣形を組んでいた。さらに、逃げ遅れた民間人をあえて殺さずに建物の角や店舗の奥に追い詰め、人間側の魔法少女が広範囲魔法を使えないようにする「人質戦術」まで多用している。
その魔獣の軍勢を前に、血みどろの激戦を繰り広げている者たちがいた。
「死ねェェェェッ!! 神の御庭であるこの東京を、貴様らのような蛆虫が汚すなど、万死に値するっ!」
鮮血に染まった鮮魚コーナーのエプロンを翻し、身の丈ほどの巨大な「出刃包丁」を狂ったように振り回しているのは、福音の鐘の実行部隊長・須藤真里である。
彼女の特A級の殺気を纏った包丁が閃くたび、魔獣の強靭な肉体がバターのように切断され、黒い血が夜の街に撒き散らされる。しかし、倒しても倒しても、魔獣たちは即座に陣形を組み直し、後衛からの正確な魔力弾が真里の足を止める。
「あははっ! 真里お姉ちゃん、右から来てるよー!」
「はい、糸、切断完了ー。首なしのお人形の出来上がりー」
高層ビルの壁面を重力を無視して駆け回りながら、ゴスロリ衣装の双子——ルカとリリアが無邪気に笑い声を上げる。
彼女たちの指先から放たれる目に見えない極細の「魔力糸」が、後衛に陣取る魔獣たちの首や四肢に絡みつき、次の瞬間には豆腐を切るようにスパンッ!と切断していく。
そして、その狂気と殺戮の戦場の中央で、一人だけ極めて優雅に、かつ神々しい光を放ちながら立っている絶世の美女がいた。
いつものヤオヨシのエプロン姿ではなく、純白と黄金を基調とした、聖女を思わせる荘厳な戦闘用ドレスを纏った福音の鐘の最高指導者——ルディア・ロンディニウムである。
「……忌まわしい獣ども。貴様らが束になって知恵を絞ろうと、至高なる神の御前に立つことすら許されませんわ。……光よ」
ルディアが黄金の蛇剣を天に掲げると、上空に無数の光の剣が具現化し、陣形を組む魔獣の群れへと雨あられと降り注いだ。
ドゴォォォォォンッ!!
眩い黄金の爆発が新宿の街を照らし出し、数十体の魔獣が一瞬にして浄化の光に焼かれて消滅する。S級の光属性魔法使いであるルディアの実力は、控えめに言っても規格外であった。
しかし。
『……分析完了。光の術者の攻撃パターンを把握。対魔法障壁、展開』
魔獣の群れの奥底に潜む「指揮官個体」が、配下たちに念話で指示を飛ばす。
残った魔獣たちが一斉にルディアの光の属性に対する耐性を持つ魔力障壁を展開し、彼女の光の雨を弾き始めたのだ。さらに、真里の斬撃の死角を補うように魔獣たちが連携し、双子の魔力糸の軌道を予測して物理的な瓦礫の盾で防御し始める。
「チィッ! 学習しやがった……! ただの獣の分際で、小賢しい真似を!」
真里が苛立たしげに出刃包丁の柄を握り直す。
「面倒ですわね……。一帯ごと吹き飛ばせれば造作もないのですが、逃げ遅れた民間人がいる以上、迂闊な広範囲魔法は使えませんわ」
ルディアが黄金の瞳を細める。
彼女たちは極悪なカルト教団であるが、「神の代行者である三神零が暮らすこの街と、その世界の住人(一般人)」を守ることは、神への奉仕と同義であるという狂った教義を持っているため、民間人を巻き込むことは絶対に避けていた。
魔獣の指揮官個体は、その「弱点」を正確に突いていた。民間人を盾にしつつ、じわじわと包囲網を狭め、ルディアたちの体力と魔力を削り取る戦術。
「ルディア様! このままではジリ貧です! 私が特攻をかけて、敵の陣形の中央をこじ開けます!」
真里が血走った目で叫び、死を覚悟した特攻の構えを取った、その瞬間だった。
——ピシッ。
燃え盛る炎と、魔獣の咆哮と、狂信者たちの殺意で沸騰していた新宿の空気が。
文字通り、一瞬にして『絶対零度』へと凍りついた。
崩れ落ちたビルの巨大な影が、メシリと不気味な音を立てて歪む。
そこから漆黒の靄が溢れ出し、すべての音と熱を奪い去るような圧倒的な魔圧の奔流と共に、一人の少女が姿を現した。
漆黒のゴシックドレスを纏い、美しき紫の瞳を冷ややかに輝かせる特S級の未登録魔法少女——『ゴースト』であった。
「ああっ……! おおおぉぉぉっ!! 神よ!! 我らが至高の神よ!!」
影からゴーストが顕現した瞬間。
先ほどまで般若のような形相で殺意を撒き散らしていた真里が、出刃包丁を放り出してその場に両膝をつき、アスファルトに額を擦り付けて号泣し始めた。
ルカとリリアもビルの壁面から飛び降り、ゴーストの足元にひれ伏す。
「ああ……なんという美しさ、なんという威厳……! 我々の窮地を救うために、神自らが影を渡ってこの穢れた下界へと降臨してくださったのですね……!」
戦闘用ドレスを纏ったルディアに至っては、恍惚とした表情で両手を胸の前で組み、黄金の瞳から感動の涙を滝のように流していた。
一方、影移動で降臨したゴースト(零)の内面は、激しいツッコミで大忙しであった。
(ヤオヨシのパートさんたち、マジでヤバいカルト教団じゃん!! 真里さん、いつも魚捌いてる出刃包丁で魔獣を三枚おろしにしてるし! ルディアさんに至っては、いつものスーパーのエプロンからガチの戦闘用ドレスに着替えて空から光の剣を降らせてるし!?)
しかし、そんな高校生の困惑などおく首にも出さず、ゴーストは極めて冷酷で優雅な死神の顔を崩さない。
「……面を上げなさい、狂信者たち」
ゴーストの透き通るような冷たい声が響く。
「あなたたちが私の前で道化を演じるのは勝手だけれど。……私の視界の端で、薄汚い獣どもが群れているのは、ひどく目障りよ」
紫の瞳が、陣形を組んでゴーストを警戒する魔獣の群れを射抜く。
『……特異点の、出現を確認。想定より早い』
後方に潜む指揮官個体が、念話で配下たちに強烈な指示を飛ばす。
『全軍、陣形を変更! 民間人の盾を維持しつつ、対特異点用の多重魔力障壁を展開。……あの個体だけは、何を犠牲にしてでもここで排除する!』
数十体の魔獣が、ゴーストという「絶対的なバグ」を消し去るために、己の命を投げ打つ覚悟で一斉に咆哮を上げた。四方八方から、光線、真空の刃、岩の弾丸といった複合魔法がゴーストへ向けて飽和攻撃のように放たれる。
「——神の御手を、煩わせるなァァァッ!!」
だが、魔獣たちの攻撃がゴーストに届くよりも早く。
ルディア・ロンディニウムが、黄金の蛇剣を振り抜きながらゴーストの前に躍り出た。
「我が命に代えても、神の御影に泥一つ跳ねさせるものか! 『聖光の絶対盾』!!」
ルディアの全身から爆発的な光が溢れ出し、ゴーストと狂信者たちを包み込む巨大な黄金の結界が展開される。魔獣たちの決死の飽和攻撃は、黄金の結界に激突して次々と弾け飛んだ。
「神よ! 不敬を承知で、我々も御前で剣を振るうことをお許しください!」
真里が血走った目で叫び、再び出刃包丁を握りしめる。
「ルカとリリアも、神様のお手伝いするー!」
ゴーストは、狂信者たちの異様な熱量に内心ドン引きしながらも、小さく顎を引いた。
(……まあ、一般人を巻き込まないように戦ってくれてるみたいだし、ここは利用させてもらうか。早く終わらせて秋刀魚を焼きたいし)
「……いいわ。私の前を切り拓きなさい」
ゴーストが短く許可を与えた瞬間、福音の鐘のメンバーの士気が、文字通りインフレを起こして爆発した。
「ウオォォォォォッ!! 神の御言葉を賜ったぞォォッ!!」
真里が獣のような雄叫びを上げ、単騎で魔獣の陣形へと突撃する。
双子のルカとリリアが、真里の死角から放たれる魔獣の攻撃を魔力糸で絡め取り、次々と魔獣の首を宙に舞わせる。
『……馬鹿な、個体の出力が先ほどよりも跳ね上がっている……! 特異点の存在が、周囲の人間を強化しているというのか!?』
指揮官魔獣が混乱し、防衛線を再構築しようとする。
「——あなたの相手は、私ですわよ」
ルディアが、空間跳躍で指揮官魔獣の真上に現れた。
黄金の蛇剣が、流星のように振り下ろされる。指揮官魔獣は咄嗟に強固な魔力障壁を展開して直撃を防ぐが、その強烈な一撃によって陣形の中心に致命的な「穴」が空いた。
そして、その「穴」を、紫の瞳の死神が見逃すはずがなかった。
「……遅いわね」
ゴーストが、身の丈ほどある大剣を軽々と片手で持ち上げ、虚空に向かって一閃した。
——ズバァァァァァァァァァァァンッッ!!!!
漆黒の斬撃が、空間そのものを断ち割るように直進した。
物理的な距離も、魔獣たちが展開していた多重障壁も一切関係ない。ゴーストの大剣から放たれた『闇の刃』は、新宿のメインストリートを一直線に駆け抜け、軌道上にいた十体以上の魔獣を、防御ごと綺麗に真っ二つに両断してしまった。
『ギ、ガアァァァッ!?』
分厚い装甲を紙切れのように裂かれた魔獣たちが、黒い血を噴き出して倒れ伏す。
『……あり得ない! どのような演算を用いようとも、あの力は……!』
指揮官魔獣が、恐怖で後ずさる。
「ルディア、下がりなさい」
ゴーストの静かな声が響く。
「はっ……! 御意のままに!」
ルディアは指揮官魔獣から飛び退き、真里や双子と共に、ゴーストの背後へと傅いて退避した。
ゴーストは、大剣の切っ先を地面に突き立てると、民間人が隠れているビル群と、残存する数十体の魔獣たちを見渡した。
「——『深淵の帳』」
ゴーストの左手から放たれた漆黒の波動が、民間人が隠れている全ての建物を、ドーム状の絶対的な闇の結界で覆い隠した。これにより、これからの攻撃による余波や熱が、民間人に届くことは一切なくなる。
「続いて——『絶対零度の氷棺』」
詠唱破棄に等しい速度で、第二の極大魔法が発動する。
ゴーストの足元から、絶対零度の冷気が新宿の街を駆け抜け、残存する全ての魔獣の足元から白銀の氷柱が爆発的に突き出した。
知能を得て回避しようとした魔獣も、障壁で防ごうとした指揮官魔獣でさえも、その理不尽なほどの冷却速度の前には成す術もなく、一瞬にして完璧な氷の彫像へと変えられてしまう。
『……思考、停止……。これが、神の……』
氷漬けにされた指揮官個体の脳裏に、最期に浮かんだのは、ただ純粋な「畏怖」だけであった。
「終わりよ。——『終焉の業火』」
ゴーストが、美しく細い右指をパチンと鳴らす。
氷結した魔獣たちの内部から、太陽の表面温度に匹敵する超高熱の紅蓮の炎が顕現した。
極低温からの超高温という、物質の熱膨張の限界を超えた理不尽な物理法則の破壊。
数十体のA級魔獣と、それを統率していた上位個体は、爆風すら立てることなく、一瞬にしてチリ一つ残さず空間から消滅した。
相反する三属性の極大魔法と、結界による民間人の完全保護。
それを、たった一人で、ほんの数秒の間にやってのけたのだ。
燃え盛る炎が消え、静寂を取り戻した新宿の夜の街。
残されたのは、無傷の民間人たちと、チリとなって消えた魔獣の残滓だけだった。
「……ああっ……! 神よ! 我らが至高の神よ!!」
ルディア、真里、ルカ、リリアの四人は、ゴーストの背中に向かって、地に頭を擦り付けながら歓喜と恍惚の涙を流し続けていた。
「これぞ奇跡! これぞ救済! あの忌まわしい獣どもを、瞬く間に浄化されるその圧倒的な御力……! 我々『福音の鐘』は、永遠にあなた様に忠誠を誓います!!」
狂信者たちの異様なテンションの高さに、ゴーストは内心で深いため息をついた。
(よし、ここは片付いた。でもまだ四カ所残ってるんだよな……さっさと全部終わらせて、秋刀魚を焼く準備に取り掛からないと)
「……はぁ。あなたたちの狂信には付き合いきれないわ。……好きにしなさい」
ゴーストは、背を向けたままため息混じりにそう言い放つと、瓦礫の陰に伸びる自らの「影」へと視線を落とした。
「ああっ……! 『好きにしなさい』……! 神は、我々のような矮小な存在が、神の御為に自由に活動することをお許しになられたのだわ……!」
ルディアは、両手を組み合わせながら恍惚の表情を浮かべた。
「神は、我々の忠誠を受け入れ、さらなる布教と浄化の権限をお与えになったのです! 真里、ルカ、リリア! 我々は神の深い慈悲に応えるため、次こそは神の御手を煩わせぬよう、精進しなければなりませんわ!!」
「「「ははっ!! ルディア様の仰る通りに!!」」」
特売の秋刀魚を焼くために急いでいるだけのゴーストの行動と呆れ混じりの言葉は、狂信者たちの脳内で「至高の神による自由行動の承認と慈悲」へと完璧に変換され、彼らのカルト信仰をさらに強固でタチの悪いものへと進化させてしまった。
「……次、行くわよ」
ゴーストは自らの影の中へと沈み込み、空間を跳躍した。




