第百五十二話
カフェでの甘苦いティータイムを終えた二人は、並んで駅前のスーパー『ヤオヨシ』へと足を踏み入れた。
「えっと、秋刀魚の特売コーナーは……あ、あった」
三神零は、迷うことなく鮮魚コーナーへと直行し、氷の上に並べられた秋刀魚たちを真剣な眼差しで見つめ始めた。
その隣で、羽衣緋雪は両手で自分の頬を押さえ、完全に自分の世界(妄想)に入り込んでいた。
(好きな男の子と一緒に夕飯の買い出し……! これって、もしかして……新婚夫婦みたいじゃない!?)
先ほどのカフェで零が見せた「大人の余裕」と「圧倒的な包容力」に当てられ、緋雪の脳内はすでにウェディングベルが鳴り響いていた。
特売の秋刀魚の鮮度を見極める零の横顔すら、彼女にとっては「家族のために真剣に悩んでくれる頼もしい旦那様」にしか見えない。
「羽衣さん、見てください。この秋刀魚、目が澄んでいて口先が黄色い。脂が乗っている証拠です。今日は当たり日ですよ」
「う、うんっ! 三神くんがお買い物上手で、私……その、すごく嬉しいっ!」
「ははっ、俺はただの主婦の知恵ですよ」
(……羽衣さん、顔が真っ赤だな。買い出しに付き合わせて退屈させてるかと思ったけど、楽しんでくれてるみたいで良かった)
零は、恋する乙女の初々しい反応を心の中で微笑ましく思いながら、トングで一番状態の良い秋刀魚を二尾、パックに詰めた。
だが、二人の間に漂うピンク色のオーラを、絶対に許さない存在が店内にいた。
「——いらっしゃいませ。三神くん。それに……そちらの『お客様』も」
背後から、透き通るような、しかし絶対零度よりも冷酷な声が響いた。
振り返ると、緑色のヤオヨシのエプロンを完璧に着こなした絶世の美女——ルディア・ロンディニウムが、鮮魚コーナーの補充カートを押しながら立っていた。
「あ、ルディアさん。こんにちは。今日の秋刀魚、すごく良さそうですね」
「ええ。三神くんにお選びいただけるなんて、この秋刀魚たちも本望でしょう」
ルディアは零に向けて女神のような微笑みを向けた直後、視線だけを緋雪へとスライドさせた。
その瞬間、彼女の黄金の瞳に、特S級の殺意と嫉妬がドロリと渦巻いた。
(神の代行者である三神くんに、野良猫がすり寄るとは……! 万死に値しますわ。今すぐこの小娘を、神聖なる光の檻で塵一つ残さず浄化して差し上げましょうか……!)
ゾクッ……!!!
魔法少女としての超直感が、緋雪の全身の産毛を総毛立たせた。
目の前にいるのは、ただのスーパーの店員のはずだ。しかし、彼女から放たれる目に見えない魔圧は、かつて対峙したどのA級魔獣よりも、いや、あの「ゴースト」にすら匹敵するほどの底知れぬ恐ろしさを秘めていた。
「な、なに……この人……?」
緋雪が思わず後ずさり、無意識に魔力を練り上げようとした、その時だった。
——ピロロロロッ! ピロロロロッ!
緋雪のバッグの中で、けたたましい電子音が鳴り響いた。
それは、『白百合の盾』の幹部のみに支給されている、緊急事態を知らせる専用端末のアラームだった。
「ッ……!」
緋雪はハッとして我に返り、慌てて端末を耳に当てた。
「私よ! どうしたの、由鶴!」
『緋雪! 緊急事態です! 今すぐフル装備で出撃してください!』
電話の向こうから、情報班トップである新実由鶴の、かつてないほど切羽詰まった声が響く。
「出撃? でも、今は……」
『状況が異常です! 現在、都内の五つのエリアで、A級相当の人型魔獣の群れが「同時」に発生しました!』
「五カ所、同時……!?」
緋雪の顔から、一瞬にして血の気が引いた。
『しかも、各個体がバラバラに暴れているのではありません。意図的に幹線道路を封鎖し、民間人を建物内に追い込むような「陣形」を取っています! 完全に組織的なテロ行為です!』
由鶴の報告は、戦術を理解する緋雪にとって絶望的な内容だった。
* 新宿エリア:交通網の遮断
* 渋谷エリア:商業施設への民間人の隔離
* 池袋エリア:通信インフラへの物理的攻撃
* 品川・上野エリア:逃げ道を塞ぐ包囲網
『協会も新エース部隊を投入したようですが、連携の取れない彼女たちでは分断されて各個撃破されるのは時間の問題です。白百合の戦力を全投入しても、五カ所同時の防衛は不可能です……!』
「……分かったわ。私は一番被害の大きい新宿へ向かう。飛鳥と真奈にも指示を出して!」
緋雪は通話を切ると、先ほどまでの「恋する乙女」の顔を完全に消し去り、白百合のトップエースとしての鋭い表情に切り替わった。
「羽衣さん……? どうかしましたか?」
零が心配そうに声をかける。
「ごめんなさい、三神くん。緊急の仕事が入っちゃったの」
緋雪は、申し訳なさそうに眉を下げたが、すぐに気丈な笑みを浮かべた。
「今日は付き合ってくれてありがとう。三神くんは、どこにも寄り道せずに真っ直ぐ家に帰ってね。……私が、絶対にこの街を守るから」
彼女はそれだけ言い残すと、店外へと向かって全速力で駆け出していった。
その背中には、愛する少年の平穏な日常を守るという、悲壮なほどの決意が滲んでいた。
残された零は、秋刀魚の入ったパックを手に持ったまま、静かにため息をついた。
(……五カ所同時の魔獣発生。しかも、連携して動いているのか)
零の耳には、由鶴と緋雪の会話が、微弱な魔力波の振動を通じて全て筒抜けになっていた。
「三神くん?」
ルディアが、先ほどの殺意を完璧に隠し去り、小首を傾げて尋ねてくる。
「よろしければ、私が『害虫駆除(魔獣の殲滅)』に向かいましょうか?」
「いえ、大丈夫です。ルディアさんはヤオヨシのレジ打ちがありますからね。仕事は大事にしてください」
「ふふっ、三神くんがそう仰るなら」
零は手早くレジで会計を済ませ、スーパーの外に出た。
見上げた夜空には、星すら見えない漆黒の「新月」が浮かんでいた。
街の遠くから、サイレンの音と、微かな爆発音が聞こえ始めている。
知能を得た魔獣たちによる、人間への大規模な反攻作戦。
白百合の盾の戦力は分散され、宮田支部長と星監の裏切り者によって禁忌の薬を打たれた新エース部隊は暴走の危機にある。
(羽衣さんたちだけで、あれを全部抑えきるのは無理だ。……せっかくの秋刀魚だけど、冷蔵庫に入れるのは少し後になりそうだな)
ただの男子高校生である三神零は、エコバッグをしっかりと握り直した。
誰もいない路地裏の影に足を踏み入れた瞬間、彼の周囲の空間が、文字通り「死」の気配を纏って歪み始める。
「……さて。特売品を台無しにする前に、少しだけ掃除をしてくるか」
紫の瞳が、暗闇の中で冷たく発光する。
絶望的な新月の夜、世界で最も恐ろしい未登録魔法少女『ゴースト』が、再び漆黒のドレスを翻し、混沌の戦場へと舞い降りようとしていた。




