第百五十一話
地下の旧下水道で魔獣たちが恐るべき計画を企てていた翌日の放課後。
三神零は、学校指定の鞄を片手に提げながら、夕日に染まる通学路を歩いていた。
(さて、今日の夕飯はどうするか。昨日がもやしと豆腐で節約した分、今日は少しだけ奮発して、魚でも焼こうかな。秋刀魚の特売がやっていればいいんだが)
そんな主婦のような思考を巡らせながら駅前の交差点に差し掛かった時、不意に、パタパタと小走りにかけてくる足音が聞こえた。
「み、三神くん!」
振り返ると、私服姿の羽衣緋雪が立っていた。
白百合の盾のエースとして激務をこなしているはずの彼女だが、今日は非番なのか、白いブラウスに淡いブルーのカーディガンという、清楚で年相応な可愛らしい装いである。
彼女の白い頬は、夕日のせいだけではなく、ほんのりと赤く染まっていた。
「あ、羽衣さん。こんにちは。今日はパトロールはお休みですか?」
「う、うんっ! 今日は交代で非番の日なの。三神くんは、学校の帰り?」
「ええ。これからスーパーに寄って帰ろうかと思ってたところです」
緋雪は、自分の胸の前でモジモジと指を絡ませながら、上目遣いで零を見た。
「あの……その。もし、急ぎの用事がないなら……少しだけ、お茶でもしていかない? 駅前に、新しいカフェができたんだけど……」
彼女は今、魔法少女協会から独立した新組織『白百合の盾』のトップエースとして、連日メディアにも取り上げられる時の人である。
しかし、恋する男子高校生を前にした今の彼女は、ただの初々しい乙女そのものだった。
「カフェですか? そうですね……特売の時間までまだ少し余裕がありますし、いいですよ」
「ほ、本当!? やったぁ……!」
緋雪はパッと花が咲いたような笑顔を見せ、嬉しそうに零の隣を歩き始めた。
(……羽衣さん、新しい組織を立ち上げてからずっと忙しそうだったしな。たまには息抜きも必要だろう)
零は、彼女の横顔を穏やかな視線で見守っていた。
以前、ゴーストの姿で彼女と対峙した際、零は彼女の口から直接「三神くんのことが好きだから、ストーカー(ゴースト)から守る」という熱烈な宣言を聞かされている。そのため、彼女が自分に対して抱いている淡い恋心には、しっかりと気がついていたのだ。
二人が入ったのは、アンティーク調の落ち着いた雰囲気のカフェだった。
窓際の席に向かい合って座ると、ウェイトレスがメニューと水を持ってやってくる。
「ご注文はお決まりですか?」
「俺は……ホットコーヒーを。ブラックで」
零がメニューを見ずに即答する。
家計のやりくりや妹たちの世話で日頃から疲労が溜まりがちな(そして裏社会のいざこざで胃を痛めている)彼にとって、無糖のブラックコーヒーは安らぎの味であった。
(ブラックコーヒー……! さすが三神くん、大人だわ!)
緋雪の瞳がキラキラと輝く。
同時に、彼女の中に「三神くんの隣を歩く女性として、私も大人の余裕を見せなきゃ!」という、恋する乙女特有の不器用なスイッチが入ってしまった。
「あ、あの! 私も、ホットコーヒーを! もちろん、ブラックで!」
「えっ?」
零は少し驚いたように緋雪を見た。
「羽衣さん、ブラックなんて飲めるんですか? 前に会った時は、クレープとか甘いものが好きだって……」
「の、飲めるわよ! 私だって、白百合の盾のトップに立つ大人なんだから! ブラックコーヒーくらい、毎朝水代わりに飲んでるんだからねっ!」
見栄を張って、ドヤ顔で胸を張る緋雪。
ウェイトレスが「かしこまりました」と微笑んで下がり、やがて二つの湯気を立てる黒い液体が運ばれてきた。
「じゃあ、いただきます」
零は、カップを持ち上げ、ゆっくりとコーヒーを一口飲んだ。
「……うん。香ばしくて美味しいな」
「ふふっ、そうよね。やっぱり大人はブラックに限るわ」
緋雪も、大人の余裕を演出するように優雅に微笑みながら、カップに口をつける。
——そして、一口、飲んだ。
「…………ッ!!」
ピタッ、と。
氷のトップエースの動きが、文字通り「絶対零度」にフリーズした。
(に、苦っっっ……!! なにこれ、泥水!? 泥水なの!? 全然甘くない……というか、舌が痺れるくらい苦いんですけどぉぉぉっ!!)
緋雪の瞳から、ツー……と一筋の涙がこぼれ落ちる。
しかし、大好きな三神くんの手前、「苦くて飲めない」とは絶対に言えない。彼女は必死に顔の筋肉を引きつらせながら、そっとカップを置いた。
「ど、どう? 美味しい……わよね……?」
声が震えている。というか、顔面が蒼白である。
「……羽衣さん」
零は、小さく吹き出しそうになるのをこらえ、優しい笑みを浮かべた。
(俺の前でカッコつけようとして、無理して背伸びしてるんだな。……なんだか、微笑ましいというか、可愛い人だ)
彼女の健気なアピールを心の中で温かく受け止めつつ、零は自然な動作で手を伸ばした。
「ちょっと、カップ貸してください」
「えっ? あ、はい……」
零は緋雪のカップを手元に引き寄せると、テーブルの上に置かれていたミルクピッチャーを手に取った。
トポトポ……と絶妙な手つきでミルクを注ぎ込む。さらにスティックシュガーを一本、二本と封を切り、惜しげもなくカップに投入した。
カチャカチャ、とスプーンで丁寧にかき混ぜる。漆黒だった液体は、あっという間にマイルドなカフェオレ色へと変わった。
「はい、どうぞ。これで飲んでみてください」
押し戻されたカップを、緋雪は恐る恐る両手で包み込み、そっと口をつける。
「……あ。あまい」
先ほどまでの暴力的な苦味は完全に消え去り、ミルクのコクと砂糖の優しい甘さが、冷え切った彼女の口の中にふわりと広がった。
それは、まさに「完璧な比率」で調整された、極上の甘いコーヒーだった。
「美味しい……」
緋雪の顔から強張りが抜け、年相応の、とろけるような笑顔が浮かんだ。
その顔を見て、零も安心したように微笑む。
「無理して大人ぶらなくてもいいんですよ。羽衣さんは、毎日『白百合の盾』でみんなのためにすごく頑張ってるんだから。俺といる時くらい、自分の好きなように、甘いものを飲んでゆっくりしてください」
——ドキンッ!!
緋雪の心臓が、本日最大級の警鐘を鳴らした。
自分の背伸びを見透かした上で、嫌味一つ言うことなく、完璧な気遣いで優しく甘やかしてくれる。
その圧倒的な「包容力」の前に、氷のエースの心は完全にメロメロに溶かされていた。
(好き……っ! やっぱり私、三神くんのことが大好きっ……!!)
緋雪は、真っ赤になった顔を隠すように、甘いコーヒーの入ったカップで口元を覆った。
(こんなに優しくて素敵な三神くんの平穏な日常を、あの紫の瞳のストーカー女が付け狙ってるなんて……絶対に許せない! 私が、私が絶対に三神くんを守り抜いてみせるんだから……!)
カフェの心地よいBGMの中で、緋雪は甘いコーヒーを味わいながら、改めて打倒・ゴーストの決意を固くする。
「ん? どうしたんですか、羽衣さん。急に気合の入った顔をして」
「ううんっ、なんでもないわ! 三神くんの淹れてくれたコーヒー、すっごく美味しいなって思って!」
(俺がその『ストーカー女』本人なんだけどな……。でも、羽衣さんのそういう真っ直ぐなところは、本当にいい子だと思う)
自分の優しさが、結果的に「自分自身への殺意と対抗心」をさらに燃え上がらせる燃料になっているとは思いつつも、零は彼女の純粋な気持ちを微笑ましく見守っていた。
「それは良かった。じゃあ、飲み終わったらスーパーの特売に行きましょうか。今日は秋刀魚を買うつもりなんです」
「うんっ! 私も一緒に行く!」
夕暮れのカフェ。
水面下で迫り来る魔獣たちの狂気や、組織の陰謀から遠く離れた場所で。
甘苦いコーヒーと共に過ごす二人の平和なティータイムは、穏やかに過ぎていくのであった。




