第百四十五話
週末の朝。
都心に位置する広大な「セントラルパーク広場」では、月に一度の大規模なファーマーズマーケットが開催されていた。
無農薬野菜やこだわりの加工肉など、全国から集まった選りすぐりの食材が立ち並ぶ中、ただの男子高校生にして家事全般を取り仕切る三神零の視線は、一つのテントに完全に釘付けになっていた。
(……あった! あれだ! 『幻の烏骨鶏プレミアム卵』……!!)
限定30パックのみ販売されるというその卵は、黄身が箸でつまめるほどの弾力を持ち、究極の卵かけご飯や、至高のふんわりオムライスを作り出すことができるという伝説の食材である。
澪や玲奈の怪我の回復祝いとして、これ以上ない最高の一品だ。零は気合いを入れ直し、エコバッグを握りしめて販売待機列の先頭集団に陣取っていた。
——だが、彼のささやかな高校生の幸せは、裏社会の思惑と世界の混沌によって、いとも容易く引き裂かれることになる。
『ウ、アァァァァァッ……!!』
突如として、広場の中心に漆黒の亀裂が走り、耳をつんざくような不気味な咆哮が轟いた。
空気が凍りつき、周囲の空間がどす黒い魔力で満たされる。
亀裂の中から這い出してきたのは、人間の姿を模しながらも、知能を一切持たず、ただ本能のままに破壊を撒き散らす『A級相当の人型魔獣』だった。しかも、その数は一体ではない。二体、三体と次々に湧き出し、合計八体もの魔獣が広場に降り立ったのだ。
知能を持たない彼らは、周囲の状況などお構いなしに、目につくものを手当たり次第に破壊し始めた。
「キャアアアアッ!?」
「魔獣だ! 逃げろォォッ!!」
買い物客も、テントの店主たちも、商品を放り出してクモの子を散らすように逃げ惑う。
もちろん、幻の烏骨鶏プレミアム卵のテントの店主も例外ではなかった。
(ああっ!? ちょっと待って、おやっさん! 俺まだ買ってない! っていうか、あいつら知能がないから、手当たり次第に暴れ回って……進行方向、完全に卵のテントじゃないか!!)
このままでは、限定30パックの幻の卵が、魔獣の凶行によって文字通り「スクランブルエッグ」にされてしまう。
それだけは絶対に阻止しなければならない。
零は悲鳴を上げて逃げ惑う人混みに巧みに紛れ込みながら、猛ダッシュで広場の端にある公衆トイレへと駆け込んだ。個室の鍵を閉めると同時に、深い深呼吸と共に漆黒の魔力を解放する。
同じ頃。
独立魔法防衛機構『白百合の盾』の地下オペレーションルームでは、新実由鶴が険しい顔でモニターを叩いていた。
「セントラルパーク広場にて、A級相当の人型魔獣を八体感知! 知能を持たない暴走タイプです!」
「一般人の避難が最優先よ! 緋雪、飛鳥、真奈! すぐに出撃して!」
姫嶋結衣の号令に応じ、待機していたエースたちが空間転送ゲートへと飛び込んだ。
一方、魔法少女協会・日本支部本部の支部長室。
宮田理恵子は、同じ魔力反応をモニターで確認し、口元を歪めていた。
「A級魔獣が八体……これは絶好の機会です。これほどの騒ぎになれば、あの『ゴースト』も必ず姿を現すはず。新エース部隊、出撃しなさい。魔獣の討伐など後回しで構いません。最優先ターゲットは、未登録魔法少女・ゴーストの『捕獲』です」
「「「「了解」」」」
林道沙也加をはじめとする四人の新エースたちは、感情のない声で応え、転送陣へと消えた。
さらに、スーパー『ヤオヨシ』のバックヤード。
「……おや?」
特売品の品出しをしていたルディア・ロンディニウムは、黄金の瞳を細めて虚空を見つめた。
「セントラルパークの方角で、忌まわしい協会の犬どもの魔力が動きましたわ。どうやら、我らが神を捕獲しようと網を張った様子」
「ルディア様! 神への冒涜、見過ごせません!」
鮮魚コーナーのエプロンを血に染めた(※魚の血です)須藤真里が、出刃包丁を握りしめて駆けつける。
「ええ。神の御前を汚す愚か者たちに、死の罰を。……お掃除の時間ですわよ、ルカ、リリア」
「「はーい! 汚い虫けら、全部ミンチにするー!」」
狂信者たちは、神と、神の寵愛を受ける少年の平穏を守るため、空間を歪めて戦場へと跳躍した。
そして。
三神家の隣に住む星監の最高指導者、ヴィクトリア・ローゼンベルグもまた、自身の屋敷のバルコニーから、広場の方角に立ち昇る異常な魔力の渦を視認していた。
「……A級魔獣が八体。そして、そこに群がる旧協会、白百合の盾、さらには福音の鐘……!」
彼女の紫水晶の瞳が、鋭い光を放つ。
「エージェントである三神零……全ては彼が描いた盤面ね。魔獣を呼び水にして全勢力を一つの場所に集結させ、それぞれの出方と戦力を値踏みする気なのよ。……ならば、星監(我々)もこの舞台に上がり、彼にとって『有益な同盟者』であることを証明してみせるわ!」
ヴィクトリアは、雷属性を操るS級の超越者である。彼女は紫電のレイピアを腰に帯び、たった単身で雷の転送陣を起動させ、戦場へと跳躍した。
かくして。
一つの「幻の卵」を守るためだけに顕現した魔法少女を中心に、表と裏の全勢力が一堂に会する、前代未聞の五つ巴の混沌が幕を開けようとしていた。
「ギ、ガアァァァッ!!」
広場の中央で、知能を持たない八体の人型魔獣が暴れ回り、そのうちの一体が烏骨鶏プレミアム卵のテントを今まさに粉砕しようとした、その瞬間。
——ピシッ。
空間が凍りつくような、極めて冷たく、そして絶対的な魔圧が広場全体を制圧した。
漆黒の靄が晴れ、そこに現れたのは、身の丈ほどある大剣を片手で軽々と提げ、漆黒のゴシックドレスを身に纏った絶世の少女——『ゴースト』だった。
その素顔は、息を呑むほど美しく、白磁のような肌と深淵のような瞳が、周囲の空気を一変させる。
彼女の姿を見た瞬間、暴れ狂っていた魔獣たちの動きすら、本能的な恐怖によってピタリと停止した。
(あぶねぇ……! ギリギリ卵は無事だ)
内面では安堵の息を吐く零だったが、表向きは徹底して冷酷な魔法少女である。
「……目障りね。消えなさい」
艶やかで冷たい女性の声を響かせ、ゴーストが大剣を構えようとした、その時。
「——目標確認。これより、未登録魔法少女ゴーストを捕獲する」
上空から、四つの影がゴーストを取り囲むように降り立った。
宮田支部長の命令を受けた、協会の『新エース部隊』である。
「炎槍・乱れ咲き!」
新・炎のエースである林道が、挨拶代わりとばかりに無数の炎の槍をゴーストに向けて放つ。続いて、風のエース・金丸が真空の刃を、水のエース・矢島が高圧の水流弾を、土のエース・遠山が巨大な岩の杭を一斉に撃ち込んだ。
四人のエース級による、一撃必殺の飽和攻撃。
しかし、ゴーストは素顔のまま、冷ややかな瞳で彼女たちをチラリと一瞥しただけで、一切動こうとはしなかった。
「……鬱陶しいわね」
一定値以下の魔力を無効化する闇魔法と、彼女自身が放つ圧倒的な魔力障壁の前に、新エースたちの複合魔法は、ゴーストのドレスの裾に触れることすらできず、文字通り『無』へと還元されて消滅した。
「なっ……!?」
「私たちの全力攻撃が、相殺すらされずに消滅した……!?」
林道と金丸が、驚愕に目を見開く。
「……あなたたち。ここで暴れられて、土埃が舞ったらどうなるか分かっているの?」
ゴーストは、大剣の切っ先を新エースたちに向けた。
(土埃が卵のパックに被ったら、後で拭くのがめちゃくちゃ面倒なんだよ! っていうか、お前ら誰だ!? 協会の人事異動なんか知るか!)
心の中で激しくツッコミを入れながらも、ゴーストの放つ殺気は本物だった。
「ひっ……!」
冷徹な処刑人のようなプレッシャーと、素顔の彼女のあまりの美しさと威圧感に、新エースたちが思わず後ずさった、その瞬間。
「——身の程を知りなさい、協会の犬どもが」
ゴーストと新エース部隊の間に、極大の光属性の魔力が弾けた。
空間の歪みから優雅に姿を現したのは、緑色のスーパーのエプロンを身につけ、黄金の蛇剣を構えたS級の光属性魔法使い——ルディア・ロンディニウムだった。さらにその後ろから、いつのまにかメイン武器になってしまっている出刃包丁を構えた須藤真里と、暗殺の構えをとる双子のルカとリリアが続く。
「ルディア・ロンディニウム!? なぜ福音の鐘の教祖がここに……!」
林道が叫ぶ。
「決まっていますわ。我らが至高の神に、穢れた武器を向けた罪。……その首をもって、贖っていただきます」
カルト教団の最高戦力が、ゴーストを守る壁として新エース部隊に殺気を放つ。
だが、その直後。
バリバリバリッ!!
上空から、紫電の稲妻が広場を真っ二つに切り裂くように降り注いだ。
雷光の中から単身で降り立ったのは、雷属性を操るS級の超越者にして星監の最高指導者、ヴィクトリア・ローゼンベルグであった。彼女の手には紫電を纏うレイピアが握られ、その全身から放たれる魔圧は、ルディアの黄金の魔力と真っ向から衝突し、広場全体の空気をバチバチとひび割れさせた。
「あら、ドブネズミかと思えば……ヴィクトリア・ローゼンベルグ。星監のトップがこんな所でコソコソと何をしておいでで?」
ルディアが、蛇剣を下段に構えながら、黄金の瞳に嫌悪感を剥き出しにして睨みつける。
「ふん、相変わらず胡散臭い後光を背負っているわね、ルディア・ロンディニウム。カルト教団の教祖様が、エプロン姿で何の冗談かしら?」
ヴィクトリアもまた、紫水晶の瞳を細め、レイピアの切っ先をルディアに向けた。
光と雷。互いにS級の力を持つ二つの巨頭が、互いをフルネームで呼び捨てにし、犬猿の仲であることを隠そうともせずに極大の殺気をぶつけ合う。
その後ろで、ゴーストは内心で深いため息をついていた。
(いやいやいや!? ローゼンベルグさんと、ルディアさんがここでバチバチにやり合ってんの!?)
「——そこまでよ!!」
さらにそこへ、氷の防壁が展開され、カルト教団、星監、そして新エース部隊の間に強引に割って入る者がいた。
『白百合の盾』の羽衣緋雪、弓飛鳥、只野真奈の三人である。
「新エース部隊……! あなたたち、一般人の避難や魔獣の討伐よりも、上層部の命令(ゴースト捕獲)を優先する気!?」
緋雪が、林道たちを激しく睨みつける。
「当然です、裏切り者の羽衣緋雪。我々は協会の剣。魔獣など後回しで構いません」
「ふざけないで! そんなやり方、絶対に認めないわ!」
そして緋雪は、背後に立つ素顔のゴーストを振り返り、彼女の圧倒的な美しさに一瞬息を呑みながらも、悲壮な決意を込めて叫んだ。
「ゴースト! あなたはこんな茶番に付き合う必要はないわ! ここは私たちが引き受けるから、あなたは下がって!」
彼女の叫びを聞き、ゴーストの瞳に微かな柔らかな光が宿る。
(緋雪さんたち……本当に真っ直ぐでいい人たちだわ。彼女たちの純粋な正義感には好感を持っているし、こんな馬鹿げた争いで怪我をしてほしくないわね)
新エース部隊、福音の鐘、白百合の盾、そして星監。
互いに強大な力を持つ者たちが睨み合い、広場は一触即発のメキシカン・スタンドオフ状態に陥った。
ヴィクトリアとルディアのS級同士の魔力衝突により、魔力的な均衡は完全に飽和状態に達している。
それぞれの思い込みと勘違いが、広場の中央で凄まじい火花を散らしていた。
だが、ただ一人。
卵を買いに来ただけの高校生にとって、そんな派閥争いなど、1ミリの価値もなかった。
「ギ、ガァァァァッ!!」
知能を持たない八体のA級魔獣たちは、周囲の複雑な睨み合いなど一切空気を読まず、咆哮を上げて一斉に暴れ出した。
そのうちの数体が、烏骨鶏プレミアム卵のテントに向かって突進を開始する。
「——いい加減になさい」
ゴーストの、極低温の怒声が響き渡った。
四つの組織の動きが、その声に込められた圧倒的な魔圧によって完全に凍りつく。ルディアの光も、ヴィクトリアの雷も、ゴーストの放つ深淵の気配の前では霞んで見えた。
ゴーストは、睨み合う彼女たちの横をゆっくりと通り抜け、真っ直ぐに八体の魔獣の元へと歩み寄った。
一切の無駄のない、優雅にして冷酷な足取り。
「『絶対零度の氷棺』」
ゴーストが冷たく詠唱した瞬間、八体の魔獣たちの足元から美しい白銀の氷柱が爆発的に突き出し、彼らの動きを一瞬にして完全な氷の彫像へと変えた。関節一つ動かすことすら許さない、絶対的な封印。
だが、それだけでは終わらない。
「『深淵の帳』」
ゴーストの左手から漆黒の魔力が放たれ、魔獣たちの周囲の空間そのものを巨大な半球体状に隔離する。光すらも飲み込む漆黒の結界。これは、これからの攻撃による「余波」や「爆風」で卵のテントが吹き飛ばされないための、極めて高度な空間隔離魔法である。
周囲の者たちは、その繊細かつ神業のような魔力操作に戦慄した。
(あれほどの数の魔獣を氷結させながら、同時に闇の結界で空間を完全に隔離するなんて……! 魔法の次元が違いすぎる!)
ヴィクトリアやルディアですら、その桁外れの実力に冷や汗を流す。
「『終焉の業火』」
そして、ゴーストが右指を鳴らした。
隔離された闇の結界の内部で、紅蓮の炎が超高熱の爆発を引き起こす。
音すらない。爆風すらない。
ただ、結界の中で氷漬けにされた八体のA級魔獣が、内側からの超高熱によってチリ一つ残さず、一瞬にして完全消滅したのだ。
相反する三属性の極大魔法による同時展開。
人類の脅威であるはずの魔獣の群れは、素顔のゴーストの文字通り「指先一つ」で、塵芥のように処理された。
「……圧倒的……」
緋雪が、呆然と呟いた。
周囲が水を打ったように静まり返る中。
ゴーストは、魔獣が消滅した跡地を素通りし、奇跡的に無傷で残った『幻の烏骨鶏プレミアム卵』のテントへと歩み寄った。
そして、安堵の息を吐きながら、綺麗に並べられた卵パックの一つをそっと手に取った。
(よかった……! 割れてない! 最高品質だ!)
ゴーストは、テントのレジ用トレイの上に、千円札を一枚ピラリと置いた。
「……お釣りは、結構よ」
そう女性らしい声で呟くと、卵パックを大切そうに胸に抱えたまま、空間跳躍の魔法を展開する。
漆黒の靄が彼女を包み込み、次の瞬間、魔法少女は、嵐のような混沌だけを後に残して、完全に姿を消した。
ゴーストが去った後のセントラルパーク広場。
そこには、呆然と立ち尽くす各勢力だけが残されていた。
「……あれが、ゴースト。なにも、出来なかった、あんな化物、捕獲できるわけがない……」
新・水のエースである矢島が、感情のない声に初めて恐怖を滲ませて呟いた。
新エース部隊は、自分たちに下された任務がいかに無謀で愚かなものであったかを、骨の髄まで思い知らされていた。
「ふふっ……見ましたか、皆様。神は我々の醜い争いを止めるため、自ら魔獣を討ち払い、そして……あの『卵』をお持ち帰りになられましたわ」
ルディアが、恍惚とした表情でテントを見つめる。
「卵は生命の象徴。神は、新たな創世の儀式を行われるおつもりに違いありません……! 我々も撤収しますわよ」
カルト教団の面々は、恭しく一礼して空間の彼方へと消え去った。
「ゴーストは、私たちと協会が争うのを止めるために、あえて卵を……?」
緋雪もまた、激しい深読みに囚われていた。
「私たちが無意味に傷つくのを避けてくれたのね。……ありがとう、ゴースト」
白百合の盾のエースたちも、ゴーストの底知れぬ配慮に深く感謝し、残された一般人の救護へと向かっていった。
そして。
ただ一人広場に残ったヴィクトリアは、冷や汗を流していた。
(あ、あの男……! エージェント・三神零は、この混沌の中心で、一切の痕跡を残さずにゴーストに『卵を買わせた』というの!? 全ての組織を手玉に取り、己の目的……『特売品の確保』という名の暗号任務を完璧に遂行し、ルディア・ロンディニウムという劇薬をぶつけて星監(私)の戦力を削ごうとした……! 恐ろしい男よ、三神零!)
五つ巴の防衛戦は、こうして誰一人として「真実」に辿り着くことなく、それぞれの組織に特大の勘違いを植え付けて幕を閉じた。
◆
その日の夕方。三神家のキッチン。
「ただいまー! お兄ちゃん、今日のご飯なにー?」
「あ、姉ちゃん、玲奈おかえり。怪我の調子はどうだ?」
「白百合の盾の専属の治癒魔法使いに診てもらったから、もうだいぶいいわよ。……それより、なんか凄くいい匂いがするんだけど」
エプロン姿の零は、誇らしげにフライパンを煽った。
「今日は特別だぞ。奇跡的に手に入れた『幻の烏骨鶏プレミアム卵』で作った、究極の特製オムライスだ!」
「「やったー!!」」
歓声を上げる姉と妹を見つめながら、零は心の中でガッツポーズを決めていた。
(ふふっ、あんなヤバい連中に囲まれながらも、卵を死守した甲斐があったぜ!)
自分が世界の裏社会の勢力図をめちゃくちゃに書き換えたことなど露知らなかった。




