第百四十四話
姫嶋結衣をはじめとする最高幹部とエース部隊がごっそりと抜け落ちた魔法少女協会・日本支部本部は、まるで魂の抜けた巨大な墓標のように、どんよりとした空気に包まれていた。
しかし、権力に固執する上層部の老婆たちは、その危機的状況を「組織の浄化」であると都合よく解釈していた。
最上階の豪華な支部長室。
そこに、新たな日本支部支部長として就任した27歳の女性——宮田理恵子が、ふかふかの革張りチェアに深く腰を下ろしていた。
彼女はかつて裏方の事務畑を歩んできた人間であり、実戦経験は皆無に等しい。だが、上層部の意向を「絶対的な正義」として盲従し、いかにして上のご機嫌を取るかという政治的立ち回りにおいてのみ、特A級の能力を発揮する野心家であった。
「姫嶋前会長たちの造反は、協会にとって痛手ではありません。むしろ、上層部の方針に反発する獅子身中の虫が一掃されたことで、日本支部は真の統制を取り戻したと言えるでしょう」
宮田は、通信モニターに映る役員たちに向かって、媚びを含んだ笑みを浮かべた。
彼女の背後には、新たに結成された「新エース部隊」の四人の魔法少女が、まるで感情のない人形のように直立不動で並んでいる。
「ご紹介いたします。旧エース部隊の穴を埋め、上層部の方針を忠実に実行する我が協会の新たな『剣』たちです」
宮田が扇子で示す先、最初に一歩前に出たのは、燃えるような赤い髪をショートにした少女だった。
「新・炎のエース、林道沙也加です。……離反した新堂鈴乃のような個人的な趣味や甘さは持ち合わせておりません。上層部の命令とあらば、いかなる犠牲を払ってでも任務を遂行します」
林道の瞳には、魔法少女としての誇りや人々を守るという使命感はない。あるのは、冷酷な上昇志向と功名心だけだった。
続いて、風に揺れる緑色の髪を束ねた少女が一礼する。
「新・風のエース、金丸凛子と申します。弓飛鳥のような無駄な現場主義は捨て、常に効率と結果を追求し、協会の利益を第一に動きますわ」
金丸は優雅な所作を見せながらも、その目は獲物を狙う蛇のように狡猾に光っていた。
三番目に進み出たのは、水色の長い髪を無造作に垂らした、生気のない目をした少女。
「新・水のエース……矢島スズ(やじま すず)。……氷の羽衣緋雪の後任。命令、待機中」
矢島は、まるで機械のように感情の起伏を感じさせない。上層部にとって、一切の疑問を持たずに命令を実行する彼女は、最も扱いやすい「駒」であった。
最後に、一際大柄で重戦車のような体躯を持つ少女が、地響きを立てて一歩前に出た。
「新・土のエース、遠山静音。……壁でも、魔獣でも、砕く。それだけだ」
只野真奈の無邪気さとは対極にある、ただ破壊のみに特化した無口なパワータイプである。
「素晴らしい。彼女たちなら、あの姫嶋や羽衣のような『勝手な正義感』で命令に背くことはないでしょう」
モニター越しの役員が、満足げに頷いた。
「はい。彼女たちは、協会の威信を取り戻すための最強の駒です。……そして、上層部の皆様が立案された『未登録魔法少女・ゴーストの捕獲および戦力化計画』。これも、彼女たち新エース部隊を主軸に、必ずや成し遂げてみせます」
宮田は自信満々に宣言した。
「あの『白百合の盾』などという烏合の衆が世間の注目を集めているようですが、所詮は一過性のもの。我々が正体不明のゴーストを捕獲し、記憶と精神を書き換えて協会の『対魔獣用・絶対兵器』として君臨させた暁には、再び世論も政府も我々にひれ伏すことでしょう」
実力も、ゴーストの底知れぬ恐怖も知らない者たちによる、机上の空論。
自分たちこそが世界の支配者であると信じて疑わない彼女たちは、その計画自体が、絶対につついてはならない『複数の超特大の地雷』を同時に踏み抜く行為であることに、まだ気づいていなかった。
同日、深夜。
都内某所にある、一見ごく普通の庶民派スーパー『ヤオヨシ』。
シャッターが下り、客のいなくなった暗い店内を抜け、バックヤードのさらに奥にある従業員休憩室では、極悪非道なカルト教団『福音の鐘』の最高幹部会議が開かれていた。
「——これが、白百合の盾の情報班(新実由鶴)から裏ルートでリークされた、新生魔法少女協会の極秘データです」
治癒魔法特化の高級幹部である堀宮子が、疲れ切った顔で一枚のタブレット端末を長机に置いた。
そこには、『未登録魔法少女・ゴースト捕獲および戦力化計画』の全貌と、新支部長・宮田理恵子、そして新エース部隊の顔写真が並んでいた。
「ふむ……。要約すると、我らが至高の神を捕獲し、その御魂を書き換えて、協会の便利な道具(兵器)としてこき使おう、という魂胆のようですね」
緑色のヤオヨシのエプロンを優雅に着こなした教団教祖・ルディア・ロンディニウムは、手元の『明日の特売品ポップ』を綺麗な字で書き進めながら、極めて穏やかな声で言った。
しかし、その黄金の瞳の奥には、絶対零度よりも冷たく、地獄の業火よりも恐ろしい『静かなる激怒』が渦巻いていた。
当然ながら、彼女たちは「ゴーストの正体が三神零である」ことなど微塵も知らない。彼女たちにとってゴーストとは、絶対不可侵にして至高の『神』そのものである。
ドゴォォォォォンッ!!
突如、凄まじい轟音が休憩室に響き渡った。
見れば、鮮魚コーナー担当の実行部隊長・須藤真里が、愛用の出刃包丁を長机に叩きつけ、分厚い鉄製の机を真っ二つに両断していたのだ。
般若のように歪んだ真里の顔からは、特A級の殺気が止めどなく溢れ出ている。
「……あの、腐れ外道共が。我らが神を、あろうことか『兵器にする』だと? あの方の御心を弄り、己らの権力のために利用しようというのか……!」
真里の声は、怒りで震えていた。
「今すぐ日本支部本部に単騎で乗り込み、あのクソババア共と新エース部隊とやらの首を一つ残らず切り落とし、ミンチにして海にバラ撒いてやりましょうか、ルディア様ッ!!」
「あははっ、真里お姉ちゃん怒りすぎー!」
「でもでも、私たちも賛成。神様を冒涜する奴らは、全員死刑」
ゴスロリ衣装の上に三角巾を被った暗殺双子(ルカ&リリア)が、無邪気な笑顔のまま、両手に見えないほどの魔力を集中させながら同調する。
「……ええ、ええ。お気持ちは分かります、真里、ルカ、リリア」
ルディアは、書き終えた『国産豚バラ肉・半額』のポップを丁寧に横に置くと、ふっと微笑んだ。
その瞬間、休憩室内の空間が歪み、致死量の魔圧が充満した。
「神への涜神行為は万死に値します。……それに、協会が神を追えば、必然的に『神の気配をその身に宿す少年』……神が慈しむ代行者たる、あの三神くんの周囲まで嗅ぎ回ることになるでしょう。彼らがもし、三神くんの『特売日に並んで、家族のために美味しいご飯を作る』という尊くも平穏な日常を、1ミリでも、1秒でも脅かすような真似をしたならば」
ルディアの黄金の瞳が、タブレットに映る宮田支部長の顔写真を冷酷に射抜く。
「私が直々に、あの協会本部ビルごと『幽閉の楽園』の底なしの暗闇へと沈め、永遠の苦痛を与えて差し上げますわ。……今は泳がせておきなさい。神が自ら鉄槌を下すか、我々が三神くんの盾として『お掃除』するかは、神の御心のままに」
裏社会を恐怖に陥れる最凶の狂信者たちは、スーパーの特売準備という極めて庶民的な業務の裏で、協会新体制を「いつでも消し飛ばせるゴミ」として認定したのであった。
一方その頃。
三神家の隣に建つ、場違いなほど立派な豪邸の最上階。
秘密組織『星監』の最高指導者であるヴィクトリア・ローゼンベルグは、シルクのガウンを羽織り、高級ワインのグラスを揺らしながら、暗い部屋の中で一人、大型モニターに映し出された日本のニュース番組を凝視していた。
『——白百合の盾の設立により、魔法少女協会は完全に二分化されました。新支部長の宮田氏は、徹底抗戦の構えを見せており……』
「……やはり。全ては、あの『ゴースト』の描いた盤面通りに進んでいるというわけね」
ヴィクトリアは、紫水晶のような瞳を細め、ワインを一口喉に流し込んだ。
彼女もまた、ゴーストの正体が隣に住む男子高校生だとは夢にも思っていない。
しかし彼女の脳内では、現在進行形でとんでもない規模の「深読み」と「論理的飛躍」が爆走していた。
(特S級の怪物であるゴーストが、自ら表舞台の人間社会の政治に直接介入するはずがないわ。あのような超越者は、手駒を使って間接的に世界を動かすもの。つまり……ゴーストの指示を受け、実働部隊として裏でエースたちを操っているのは、あの方の専属エージェントたる『三神零』よ!)
ヴィクトリアは、ホワイトボードに協会、白百合の盾、ゴースト、そして中心に「三神零」と書き込み、赤い糸で複雑な相関図を繋ぎ合わせながら、一人で戦慄していた。
(ゴーストの指令を受けた三神零は、意図的に『人型魔獣』の脅威を野放しにし、あえて自身の姉と妹に重傷を負わせるという冷酷極まりない演出を行った。……すべては、トップエースである羽衣緋雪や姫嶋結衣たちの心に『上層部への反発』と『独立』という決定的な火をつけるための工作よ!)
実際には、零は病院で怪我をした家族を見て本気で肝を冷やし、テレビを見て「なんで怪我人が会見に出てるんだ!」と怒りの電話をかけただけである。
しかし、ヴィクトリアのフィルターを通せば、それは『緻密な情報操作とマインドコントロール』に変換される。
(三神零は、見舞いの電話一つ、言葉の端々すらも計算し尽くし、エースたちを『白百合の盾』として見事に独立させた。クラウドファンディングによる巨額の資金調達も、日本政府への接近も、全てはゴーストの意を汲んだ三神零の情報網が裏で手を引いているに違いないわ。合法的な権力と世論を味方につけ、無能な旧協会を孤立させる……恐ろしいまでの策士ぶり!)
ヴィクトリアは、恐怖で微かに震える手で、旧協会・宮田支部長の写真を指差した。
(さらに恐ろしいのは、この無能な新体制に『ゴースト捕獲』という馬鹿げた餌を撒き、自滅するように仕向けていること。宮田たちは、自分たちが狩られる側だとも知らずに、三神零の盤面の上で踊らされているだけ。そしてその間、エージェントである三神零本人は……『怪我をした妹を心配して電話で説教する、平凡で優しい兄』という完璧なアリバイを維持し続けている。社会の誰も、彼がこの混沌を仕掛ける黒幕の右腕だとは疑わない!)
「……なんて、恐ろしい男なの。私が少しでも隙を見せれば、星監もあの男の謀略によって、跡形もなく消し飛ばされるわ」
ヴィクトリアは、ゴクリと唾を飲み込んだ。
裏社会のトップに立つ自分が、一人の男子高校生の手腕にここまで完全に恐怖を植え付けられたのは初めてのことだった。
彼女は、決意を固めるようにホワイトボードを隠すと、隣の家——エージェント・三神零が住む方向をじっと見つめた。
「ゴーストとその代行者である彼に狩られないためには、星監は彼にとって『完全に無害な存在』として潜伏し続けるしかない。……ええ、私は最高の隣人を演じ切ってみせるわ」
ヴィクトリアは、深夜にも関わらず、キッチンに向かい、フリルのついたエプロンを身につけた。
「明日の朝、彼が好きな高級食パンの生地を仕込んでおくのよ。そして『作りすぎちゃったから』という自然な口実で差し入れし、彼の警戒心を解く……。これもゴーストの目を欺き、生き残るための、命懸けの情報戦よ……!」
星監の最高指導者は、涙ぐましい努力でパン生地をこね始めた。その姿は、傍から見ればただのパン作りが趣味の不器用なお姉さんにしか見えなかった。
翌朝。
世界が新たな混沌と、それぞれの極端すぎる陰謀論に包まれていることなど、微塵も知らない三神家。
キッチンでは、ただの男子高校生である三神零が、昨夜電話で説教したせいで大人しく病院で入院している澪と玲奈の分の弁当を作りながら、冷蔵庫に貼られたチラシを真剣な顔で睨みつけていた。
「よし……。今日は特売の卵が1パック98円、大根が1本90円。完璧な布陣だな。ヤオヨシの開店ダッシュを決めて、そのあと隣のローゼンベルグさんに回覧板を持っていって……お昼は昨日のレバニラの残りでチャーハンにしよう」
魔法少女の分裂も、カルトの怒りも、隣人の命懸けのパン作りも。
零の脳内には、今夜の献立の足しにもならない無価値な情報として、最初から存在すらしていなかったのであった。




