第百四十一話
早朝の静まり返った公園。
漆黒のドレスを纏い、妖艶な素顔を晒すゴーストを前に、氷のトップエース・羽衣緋雪は『絶零の太刀』を構えたまま、ギリッと奥歯を噛み締めていた。
(……くっ! 今すぐ斬りかかって、三神くんに執着する理由を吐かせたい。でも……!)
緋雪の脳裏に、魔法少女協会の上層部から通達されている『特S級・ゴーストに対する基本方針』が過る。
——『ゴーストとはいかなる理由があろうとも交戦を避けること。ヤツの機嫌を損ねれば、街一つが地図から消滅しかねない』。
目の前のゴーストは、先ほどまで「超高密度の異常な魔力反応」を放っていた存在だ。ここで自分が感情のままに攻撃を仕掛ければ、周囲の住宅街——ひいては、すぐ近くにある三神零の家まで、特大の魔法戦の巻き添えにしてしまう。
「……ッ、チィッ!」
緋雪は血が滲むほど唇を噛むと、太刀を下段に下げた。
交戦はしない。しかし、決して退きはしないという強い意志を込めて、氷のような視線でゴーストを射抜く。
「……協会の方針に従い、こちらから攻撃は仕掛けないわ。でも、これ以上この街に——『彼』の周囲に付き纏うというなら、刺し違えてでもあなたを排除する」
その鬼気迫るトップエースの宣言を受け、ゴースト——の中身であるただの男子高校生・三神零は、内心で滝のような冷や汗を流していた。
(ひえええっ!? なんかめちゃくちゃ睨まれてる! 俺、マジで何もしてないのに! っていうか『彼』って俺のことだよな!? 緋雪さん、どんだけ俺の護衛任務に命懸けてんだよ!)
零は、緋雪が自分の(表向きの)人柄を評価し、一般市民として真面目に守ろうとしてくれているのだと完全に勘違いしていた。
しかし、このまま睨み合いを続けていれば、そのうち家族が起きてきてしまう。どうにかしてこの場を誤魔化し、緋雪たちを退かせなければならない。
(……そうだ。適当にからかって、毒気を抜いてやるか。相手は年上の大人の女性なんだし、ちょっと冗談を言えば、呆れて帰ってくれるはず……)
零は覚悟を決めると、冷たく妖艶な『ゴースト』の顔を作り、ふわりと艶やかな笑みを浮かべた。
「ふふっ。そんなに怖い顔をして、どうしたの?」
「……何がおかしいの」
「ええ、おかしいわ。だって今のあなた……」
ゴーストは、ブランコから一歩だけ緋雪に近づき、からかうように首を傾げた。
「——まるで、自分の『好きな男』を泥棒猫に取られないように、必死になって威嚇している乙女にしか見えないわ」
ピタリ、と。
早朝の公園の空気が、文字通り完全に凍りついた。
「…………へ?」
緋雪の口から、氷のトップエースらしからぬ、間抜けな声が漏れた。
次の瞬間。
ボンッ!! という幻聴が聞こえそうなほどの勢いで、緋雪の顔面が首の根元から耳の先まで、真っ赤に茹で上がった。
「す、す、す、好きなっ!? お、男をっ!? と、ととと、取られるっ!?」
「……え?」
予想外すぎる反応に、今度はゴーストが素の声を漏らす。
「ちちち、違っ、私は別に三神くんのことがす、好きとかそういうんじゃなくて、ただ特務機関の人間として一般市民を保護する義務と責任があるからであって! そ、それに三神くんはお弁当を作ってくれたりとかすっごく優しくて、笑顔が素敵で、家事も完璧で、たまに見せる男らしいところが本当に反則級にかっこよくて……って、ちがぁぁぁぁぁっ!!」
プシューーーーッ!!
緋雪の頭頂部から、氷のオーラとは全く違う、高温の『湯気』が吹き出した。
完全にオーバーヒート(誤作動)を起こしたトップエースは、あろうことか自身の武器である『氷結の太刀』をカラン、と取り落とし、涙目になりながらゴーストへとフラフラ近づいていった。
「な、なんて卑劣な精神攻撃……! わ、私をからかって……っ!」
ポカッ、ポカッ、ポカッ。
「……え?」
顔を真っ赤にした緋雪が、ゴーストの漆黒のドレスの胸元を、両手の拳でポカポカと弱々しく叩き始めたのだ。
(ええええええっ!? なにこれ!? あのクールなトップエースが、泣きながら俺をポカポカ叩いてるんだけど!?)
ゴーストは完全にドン引き——いや、激しくパニックを起こしていた。
まさか、ここまで激しく動揺されるとは。あの凛々しい大人の女性である緋雪が、恋をからかわれた女子中学生のように顔を真っ赤にしてテンパっている。
零の鈍感な脳みそは「俺、なんかとんでもない地雷踏んだ!?」と大混乱状態だった。
「ひ、緋雪……? 護衛対象にあんた、嘘でしょ……?」
隣で風の槍を構えていた飛鳥が、完全に戦意を喪失し、ポカンと口を開けて相棒を見下ろしていた。
そこへ。
「待たせたわね! 緋雪、飛鳥! 異常な魔力反応の正体は——」
「了解だよ!」
情報班トップの新実由鶴と、エースの武闘派・只野真奈が、息を切らして公園に駆け込んできた。由鶴はデスクワークを放り出して自ら現場の解析に来たのだ。
しかし、二人が目にしたのは、熾烈な魔法戦の光景ではなく。
「三神くんは渡さない……絶対に渡さないんだからぁ……うぅっ……」
顔を真っ赤にして、宿敵であるはずの特S級の胸をポカポカと叩きながら、謎のうわ言を呟いている日本のトップエースと。
「いや、あの……うん。ごめん」
なぜか気まずそうにされるがままになり、目を逸らしている裏社会最凶のバケモノ(特S級・ゴースト)の姿だった。
「「…………は?」」
遅れてやってきた真奈と由鶴も、完全に状況が理解できず、唖然として立ち尽くす。
カラスが「カァ」と間の抜けた声で鳴いて飛び去った。
「あー……その。とりあえず、朝のお散歩はこれで終わりにするわ。お邪魔したわね」
ゴーストは、これ以上このカオスな空間に居続けるのは精神的に限界だと悟った。
そそくさと空間跳躍の魔法陣を展開すると、呆然と立ち尽くす飛鳥、真奈、由鶴、そして未だに顔を真っ赤にしてポカポカと空を叩き続けている緋雪を残し、漆黒の靄と共に逃げるように姿を消した。
「……えっと。由鶴さん。今の、何だったんですかね?」
「…………私に聞かないで頂戴。私の頭の処理能力も、とうに限界を超えてます……」
早朝の公園に残されたのは、ただの高校生の無自覚な一撃によって完全に乙女の顔を暴かれてしまったトップエースと、虚無の表情を浮かべるエース部隊の面々だけだった。




