第百三十九話
その日の夕方。
三神家のリビングで、ただの男子高校生である零が、ハンバーグのタネを捏ねていた時のことだった。
エプロンのポケットに入っていたスマホが、けたたましく鳴り響いた。
『——三神くん! 落ち着いて聞いて。澪ちゃんと玲奈ちゃんが、パトロール中に負傷して、今協会の指定病院に搬送されたわ!』
電話の主は、トップエースの羽衣緋雪だった。
その言葉を聞いた瞬間、零の頭の中から、ハンバーグの焼き加減も、特売のチラシの記憶も、全てが完全に吹き飛んだ。
「すぐ行きます!!」
零はエプロンを放り投げ、火の元を確認するのもそこそこに、全速力で家を飛び出した。
魔法少女協会が提携する総合病院の特別病棟。
息を切らして駆けつけた零が病室のドアを開けると、そこにはベッドの上で包帯を巻かれ、魔力回復用の点滴を受けながら横たわる姉・澪と妹・玲奈の姿があった。
「姉ちゃん! 玲奈!」
「……あ、零。ごめん、心配かけちゃったね」
「お兄ちゃん……ごめんなさい……」
二人の顔色は青白く、制服の下のあちこちに痛々しい治療の痕があった。命に別状はないと看護師から説明を受けたものの、ボロボロになった家族の姿を見て、零の胸の奥で、冷たくて重い『何か』がドクンと脈打った。
「謝るなよ。生きて帰ってきてくれただけで十分だ。……一体、何があったんだ?」
零がベッドの傍らの丸椅子に座り、なるべく普段通りの、安心させるような優しい声で尋ねると、澪が悔しそうに唇を噛んだ。
「今日、第4セクターの廃工場エリアで、A級指定の人型魔獣の群れと交戦したの。玲奈と連携して、なんとか群れのボスを追い詰めたんだけど……」
「……別の魔獣に、奇襲されたのか?」
「うん……。ボスの人型魔獣にとどめを刺そうとした瞬間、完全に魔力反応を消していた『多脚型の蜘蛛の魔獣』が、死角から飛び出してきた。あいつ、わざとボスの人型魔獣を囮にして、私たちが隙を見せるのを待ってたのよ……!」
卑劣極まりない騙し討ち。
人間の姿をした魔獣と戦うという精神的ストレスを利用し、さらに背後から急襲をかける。知能と悪意に満ちたやり口だった。
「きらりちゃんが……とっさに私たちを庇ってくれなかったら、どうなっていたか……」
玲奈が震える声で言う。
「星宮さんが? ……彼女は無事なのか?」
「ええ。腕に深い裂傷を負っちゃって、今は隣の病室で治療と絶対安静の処置を受けてるわ。……本当に、彼女には申し訳ないことをしたわ」
隣の病室。壁一枚隔てた場所にきらりがいると知り、零は微かに安堵した。
もし彼女がこの同室にいれば、特異能力である『星眼(オーラ視認)』を通して、今の零の内側から漏れ出そうになっている『殺意』に気づかれてしまったかもしれないからだ。
きらりの目が届かないこの状況は、零にとって都合が良かった。
「……そっか。三人とも無事で本当によかった。その蜘蛛の魔獣は?」
「……取り逃がしたわ。飛鳥さんたちが事後処理に向かってくれているけど、あの廃工場は入り組んでるから、すぐに見つけ出すのは難しいかも……」
「そうか。……二人とも、今日はゆっくり休めよ。母さんには俺から連絡しておくから」
零は立ち上がり、ニコリと笑った。
「ちょっとそこまで、買い出しに行ってくる。怪我の回復には、鉄分とタンパク質が必要だからな。退院したらいっぱい食べられるように、新鮮なレバーとほうれん草、買っておくよ」
「うん……ありがとう、零」
「お兄ちゃん、気をつけてね……」
二人に見送られ、零は静かに病室のドアを閉めた。
廊下に出た瞬間、彼が浮かべていた「優しい零」の笑顔は、一切の感情を持たない、冷徹な氷のような表情へと一変した。
夕闇が迫る、第4セクター・廃工場エリア。
人の気配が完全に消えた赤錆だらけの迷宮の奥深くで、多脚型の凶悪な蜘蛛の魔獣は、天井の梁に張り付きながら次の獲物を待ち伏せしていた。
知能の高いこの魔獣は、人間の『連携』を崩す術を学習している。先ほどの未熟な魔法少女たちも、囮を使えば簡単に背後を取れた。追手が来ても、同じように背後から嬲り殺しにしてやる。
魔獣が暗闇の中で複数の赤い眼を光らせた——その時。
突如として、廃工場内の『影』が異常なほど濃く、深く歪み始めた。
空間そのものが黒く染め上げられていくような、圧倒的な魔力反応。
「……ギ?」
魔獣が訝しげに首を傾げた次の瞬間。
濃密な闇の奥から、カツン、とヒールの音が鳴った。
姿を現したのは、身の丈ほどある大剣を片手で軽々と提げ、漆黒のゴシックドレスを身に纏った一人の少女だった。
その素顔は、息を呑むほど美しく——そして、絶対的な零度の怒りを湛えていた。
「……見つけたわ」
特S級の未登録魔法少女『ゴースト』。
彼女が静かに、そして艶やかな声でそう呟いた瞬間、蜘蛛の魔獣は本能で理解した。
目の前にいるのは『獲物』などではない。自分という存在を根絶やしにするために顕現した、正真正銘の『死神』であると。
「ガ、ギィィィッ!!」
恐怖で悲鳴を上げた魔獣は、自慢の俊敏さを活かし、壁を蹴って全力で逃亡を図ろうとした。
「……逃がすわけないでしょう? 氷結」
ゴーストが冷たく詠唱した瞬間、大気中の水分が瞬時に凍りつき、魔獣の多脚が天井の鉄骨ごと絶対零度の氷柱に縫い留められた。
メキメキッ! と音を立て、氷は魔獣の関節を完全に封じ込める。
「ギ、ギガァァッ!?」
身動きが取れなくなった魔獣を見上げ、ゴーストは静かに大剣を構えた。
その刀身に、漆黒の魔力と紅蓮の炎が絡み合い、周囲の空間が熱と魔圧で陽炎のように歪み始める。
「世界の均衡だの、裏社会の覇権だの、私にはどうでもいいことよ」
ゴーストの素顔が、冷酷な美しさを伴って微かに歪んだ。
「けれど……私の大切な家族を傷つけた罪は、万死に値するわ」
氷と、炎と、闇。
三つの属性が完全に融合した極大の魔力刃が、ゴーストの手によって一閃される。
「灰に還りなさい」
ドゴォォォォォンッ!!!!!
放たれた漆黒の炎刃は、蜘蛛の魔獣を悲鳴を上げる暇すら与えずに呑み込み、天井の鉄骨ごと跡形もなく蒸発させた。
あとに残ったのは、高熱で赤熱化した廃材と、完全に消滅した魔獣の魔力の残滓だけだった。
「……ふう。これでよし、と」
大剣をフッと消滅させたゴーストは、小さく息を吐いた。
スカートの裾を軽く払い、彼女は夕闇に染まる空を見上げる。
家族の平穏を脅かす者への、容赦なき鉄槌。
裏社会の化物たちですら震え上がるほどの圧倒的な武力は、今日もこうして「ただの高校生」の日常を守るために振るわれるのであった。




