第百三十八話
週末の午後。
都内の繁華街から少し外れた路地裏を、零は何度もスマホの時計を確認しながら猛ダッシュしていた。
(ヤバいヤバいヤバい! あと15分で、お気に入りアニメの最終回が始まっちまう! なんで今日に限って、録画予約を忘れちまったんだ……!)
ただの男子高校生である彼にとって、リアルタイムでアニメの最終回を見届けることは、学生生活における重大なミッションである。SNSでネタバレを踏む前に、なんとしても家のテレビの前にスタンバイしなければならない。
零が大通りを突っ切り、駅への近道を駆け抜けようとした——その時だった。
「——きゃあぁぁぁっ!?」
「逃げろ! バケモノだ!!」
突如として、悲鳴と怒号が繁華街を包み込んだ。
逃げ惑う群衆の向こう側、ビルの谷間に現れたのは、先日協会が警戒を呼びかけていた『人型魔獣』の群れだった。
それらは人間の服を着て、人間の顔を模しているが、腕は刃物のように鋭く変異し、赤い瞳からは剥き出しの殺意が放たれていた。
「出たわね、人型魔獣! 飛鳥、右を頼むわ!」
「了解!」
上空から駆けつけたのは、氷のトップエース・羽衣緋雪と、風のエース・弓飛鳥だった。
二人は即座に戦闘態勢に入り、魔獣たちに応戦する。しかし、戦況は協会のエースにとって極めて分が悪いものだった。
「……ッ、群衆に紛れ込まれると、広範囲魔法が撃てない!」
「しかもあいつら、逃げ遅れた一般人の顔に擬態しやがった! どれが本物か見分けがつかないわ!」
知能を持つ人型魔獣は、逃げ惑う人々の姿を即座にコピーし、「助ケテ……!」と泣き叫びながら緋雪たちに接近しては、不意打ちの斬撃を繰り出していた。
民間人を巻き込むわけにいかない緋雪たちは、防御と回避に徹するしかなく、ジリ貧の状態に追い込まれていく。
その光景を物陰から見ていた零は、舌打ちをした。
(おいおいおい、勘弁してくれよ! あそこを通らないと駅に行けないのに……。迂回なんてしてたら、絶対に放送開始時間に間に合わないぞ!)
零にとって、人型魔獣の脅威よりも「最終回のリアタイ視聴」の方が遥かに重大な危機であった。
このまま協会がモタモタしていれば、放送が終わってしまう。
「……仕方ない、手っ取り早く片付けるか」
零は路地裏のさらに奥、監視カメラの死角に滑り込むと、魔力を解放した。
漆黒の魔力が渦を巻き、平凡な男子高校生の姿を包み込む。
数秒後、そこに立っていたのは、身の丈ほどある大剣を肩に担ぎ、漆黒のゴシックドレスを纏った特S級の未登録魔法少女——『ゴースト』だった。
「くっ……! このままじゃ、防衛線が突破される……!」
緋雪が氷の防壁を展開し、飛鳥が風の槍で牽制するが、人型魔獣の数は十体以上に増え、じりじりと包囲の輪を狭めていた。
魔獣の一体が、子供の姿に擬態して緋雪の死角から飛びかかる。
「緋雪、危ないっ!」
飛鳥の叫びが響いた、その瞬間。
ドゴォォォォン……ッ!!!
上空から、隕石でも落ちてきたかのような凄まじい衝撃と共に、大通りの中央に『漆黒の影』が降り立った。
アスファルトがクレーター状に陥没し、その中心から放たれる圧倒的な魔圧に、その場にいた全ての者——エースも魔獣も——が呼吸を忘れた。
「ゴ、ゴースト……!?」
緋雪が驚愕に見開いた瞳の先。
漆黒のドレスの裾を揺らし、ゴーストは静かに大剣を構えた。
「……ギ、ガァァッ!」
人型魔獣たちが、突如現れた強大な敵に対して一斉に牙を剥く。
一体の魔獣が、先ほどと同じように一般の女性の姿に擬態し、「タ、助ケテ……」と怯えた演技をしながらゴーストの懐へと潜り込もうとした。
人間特有の躊躇いを誘う、悪辣な手口。
しかし、ゴーストにとって、そんな小細工はひたすらに『時間の無駄』でしかなかった。
「——目障りね」
ゴーストの低く、静かな声が響く。
女性らしい優雅な所作でありながら、その一撃には一切の躊躇いがなかった。
大剣が横薙ぎに一閃されると、擬態していた魔獣は悲鳴を上げる間もなく、上半身と下半身が真っ二つに分断され、黒いチリとなって消滅した。
「なっ……!?」
「全く躊躇いなく斬り捨てた……!?」
飛鳥と緋雪が息を呑む。
ゴーストは、大剣を片手で軽々と振り回しながら、群がる人型魔獣のど真ん中へと悠然と歩みを進めた。
「ガアァァァッ!!」
怒り狂った魔獣たちが四方八方から襲いかかる。
だが、ゴーストの足元から『魔力の重圧』が波紋のように広がった瞬間、飛びかかってきた魔獣たちは見えない巨大な手に叩き潰されたかのように、一斉に地面に這いつくばった。
「グ、ギギギッ……!?」
「……氷結」
ゴーストが短く呟く。
次の瞬間、地面に叩き伏せられた十数体の魔獣たちの足元から、絶対零度の氷柱が突き出し、一瞬にして彼らを氷の彫像へと変えた。
さらに。
「……炎」
ゴーストが空いた左手でパチンと指を鳴らすと、氷漬けになった魔獣たちは、内側から爆発するような紅蓮の炎に包まれ、氷ごと跡形もなく蒸発した。
属性の相反する『氷』と『炎』を、詠唱すらなしに同時展開し、Sランク指定の新型魔獣を単騎で瞬殺する。
それはもはや、戦闘ではなく『蹂躙』だった。
「……圧倒的すぎる。これが、ゴーストの本当の力……」
飛鳥が、冷や汗を流しながら呟く。
全ての魔獣を掃除し終えたゴーストは、大剣をフッと消滅させると、緋雪たちを一瞥すらせずに、背を向けて歩き出した。
長居は無用だ。早く路地裏に戻って変身を解き、電車に乗らなければ。
「ま、待ちなさい、ゴースト!!」
立ち去ろうとする漆黒の背中に向かって、緋雪が叫んだ。
ゴーストの足が、ピタリと止まる。
「……あなたは、なぜ現れたの?」
緋雪は、決死の覚悟で問いかけた。
「まさか……この近くに、『三神くん』がいるからじゃないでしょうね!?」
(——ビクゥッ!?)
ゴースト(零)の肩が、不自然に大きく跳ねた。
(な、なんでそこで俺の名前が出るんだよ!? 俺はただ、アニメの最終回に間に合わせたいだけなのに! っていうか、近くにいるっていうか、俺が本人だから!!)
内心で激しくツッコミを入れながらも、ゴーストは絶対に焦りを顔に出さないよう、ゆっくりと振り返った。
「……」
ゴーストは何も答えず、ただ無言で緋雪を見下ろし、それから『ふっ』と鼻で笑うような、どこか艶やかな仕草を見せた。
そして次の瞬間、空間跳躍の魔法を展開し、漆黒の靄と共にその場から完全に姿を消した。
「消えた……」
飛鳥が周囲を見回すが、魔力反応は完全に途絶えていた。
「緋雪、あんた今、なんて?……」
「……ええ。間違いないわ」
緋雪は、ゴーストが消えた空間をキッと睨みつけながら、拳を強く握りしめた。
「あのゴーストが、意味もなく人型魔獣を討伐するはずがない。ヤツが最後に私を見て笑ったのは……『お前たちの護衛など無意味だ、私が彼を守る』という、私への強烈な挑発よ!」
「えぇ!? いや、あれは単に呆れてただけじゃ……」
「飛鳥! 急いでこの周辺を捜索するわよ! きっと三神くんが、どこかで震えているはずだわ!」
暴走状態に入ったトップエースは、風のエースの制止も聞かず、血眼になって周囲の捜索を開始した。
その数分後。
路地裏で急いで制服姿に戻った零は、スマホの時計を見ながら、路線の違う隣駅へと猛ダッシュしていた。
「ヤバイヤバイヤバイヤバイヤバイ!! 緋雪さん、絶対こっちに捜索に来るじゃん! ここで見つかったら、『なんでこんな所にいるの!?』って絶対に問い詰められる!」
アニメの放送開始まで、あとわずか数分。
だが、零の精神的なリミットはとうに限界を迎えていた。
「どうして俺は、ただ家でアニメを見たいだけなのに、こんな特務機関に追われるスパイみたいな逃走劇を繰り広げなきゃいけないんだよ……!!」
夕日に向かって走る、ただの男子高校生の悲痛な叫びは、誰に届くこともなく、都会の喧騒の中へと虚しく吸い込まれていった。




