第百三十四話
東京湾岸での『福音の鐘』と『星監』の大規模な激突から、数週間が経過していた。
三神零の周辺は、驚くほど平和で、静かな日常が続いていた。
その理由は、裏社会の勢力図において明白であった。
世界の均衡を謳う秘密組織『星監』は、ルディア率いる『福音の鐘』による苛烈な報復攻撃を受け、日本国内の拠点を次々と潰されていたのだ。星監が零の捕獲に向けて動こうとするたびに、なぜかカルト教団の暗殺部隊が先回りして拠点を物理的に粉砕してしまうため、星監からの被害は完全に「ゼロ」に抑え込まれていたのである。
もちろん、一般の男子高校生である零自身は、星監という組織が自分を狙っていることや、ルディアたちが裏で星監を掃除してくれていることなど、微塵も知らない。
しかし、零は「なぜか最近、カルト教団の双子に常に見守られている」ことには、はっきりと気がついていた。
(ストーカーの亡霊から俺を守ると息巻いていた姉ちゃんも妹の玲奈も、最近は新人魔法少女としての現場仕事が忙しくなって、四六時中俺を監視している余裕はなくなった。もちろん俺の無事を気にかけてはくれているようだが、家にいない時間も増えた。そして何より、俺を24時間体制で密着護衛すると宣言していた羽衣緋雪大佐は今、東京にいない)
先日、夕飯時に我が家へハンバーグを強奪しに来た只野真奈(土のエース)からの情報によれば、緋雪は現在、協会からの特別任務で全国各地を飛び回っているらしい。今日は愛知県に出張中で、某世界的自動車メーカーのPRイベントに参加しているとのことだった。
(トップエースも姉ちゃんたちもいない。代わりにどういうわけか、最近はカルト教団の双子の暗殺幹部が、スーパーや街角で俺をジッと見守ってくるようになった。……ある意味で、今の俺は日本一安全で、しかも自由な男子高校生かもしれないな)
テロリストの親玉に気に入られ、双子に懐かれているという状況は胃痛の種でしかないが、直接的な危害を加えられる気配はない。むしろ、双子たちは休日の公園やスーパーの道すがら、まるで近所の野良猫のように遠くから零を眺めては、満足そうにしているのだ。
家族の過剰な監視と、トップエースの密着護衛から(一時的に)解放され、久しぶりに手に入れた男子高校生としての平凡な休日。
土曜日の朝、零は親友の狭間稔と共に、駅前の大型カードショップの前に並んでいた。
「くぅ〜っ! ついにこの日が来たぜ、零! 『魔法少女クロニクル』の新拡張パック【覚醒の戦乙女たち】の発売日だ!」
稔が、長蛇の列の中で興奮気味に鼻息を荒くする。
『魔法少女クロニクル』——通称マホクロ。魔法少女協会が公式にライセンスを供与し、実在する魔法少女たちをモデルにして作られた、現在世界中で大ヒットしている公式トレーディングカードゲームである。
「お前、本当にマホクロ好きだよな。この前もバイト代全部突っ込んでなかったか?」
「当たり前だろ! 今回の新弾は熱いんだよ! 最近現場に出始めたルーキーたちのカードが初収録されてるし、何よりトップエースたちの新規描き下ろしイラストの『シークレットレア』が封入されてるんだ!」
列はすでに数百人規模に膨れ上がっているが、零は顔色一つ変えずに並んでいた。
彼にとって、この程度の行列は「年末のヤオヨシの大特売」や「タイムセール卵1パック98円争奪戦」に比べれば、朝の散歩のようなものである。
「俺の狙いはもちろん、日本トップエース・羽衣緋雪大佐のサイン入りシークレットだ! あれが出たら、俺のデッキは完成する……!」
「はいはい。俺は付き添いだから、お前が買えたら飯でも食って帰ろうぜ」
零は適当に相槌を打ちながら、周囲の気配をこっそりと探った。
案の定、通りを挟んだ向かいのビルには、なぜかクレープを食べながらこちらにちぎれんばかりに手を振っているゴスロリ姿の双子の姿がある。
(……なんで休日まで俺を見守ってるんだ。普通に友達とカード買いに来てるだけだぞ)
零は内心で深いため息をつきながらも、向かいのビルの双子に向けて、胸の高さで小さく手を振り返してやった。すると双子はパァッと顔を輝かせ、嬉しそうにクレープを頬張り始めた。
謎の監視に胃の辺りをチクチクと痛ませながらも、零は平静を装い、無事に自分と稔の分のBOX(箱)を購入することに成功した。
「よぉーし! 早速開封の儀といくぜ!」
カードショップ近くのファストフード店。
ハンバーガーとポテトを頼み、テーブルの上に購入したばかりのBOXを積み上げた稔は、目を血走らせていた。
零も一応、付き合いで購入した1BOXを手に取り、丁寧にシュリンク(包装)を剥がす。
「おっ、いきなり来たぜ! 『炎槍の新人・三神澪』のレアカード!」
「ぶっ!」
稔の言葉に、零は飲んでいたコーラを吹き出しそうになった。
「マジか……身内がカード化されてるって、なんかすごく恥ずかしいな」
「何言ってんだよ、お前の姉ちゃん、今マホクロ界隈じゃ『使い勝手がいい炎属性のアタッカー』として結構人気なんだぞ。ほら、こっちは『双刃の旋風・三神玲奈』だ。姉妹デッキが組めそうだな」
テーブルの上に並べられた、勇ましく槍を構える姉と、元気に双剣を振るう妹のキラカード。
本物の二人は家でジャージ姿でゴロゴロしながらポテトチップスを食べているのを知っているだけに、零はなんとも言えない複雑な感情に襲われた。
「あー、アイドル魔法少女の星宮きらりちゃんも出た! 可愛いなぁ。……よし、次だ。俺の本命、羽衣大佐を出してやる!」
稔が次々とパックを剥いていく。零も手持ち無沙汰なので、自分の分のパックを適当に開け始めた。
「ん? なんだこれ」
零が5パック目を開けた時。
一番後ろに入っていたカードが、他のカードとは全く違う、禍々しくも美しいホログラムの輝きを放っていた。
カード枠は漆黒。そこに描かれているのは、夜の街灯の下に立つ、黒いゴシックドレスを纏い、大剣を肩に担いだ少女の新規描き下ろしイラストだった。顔は意図的に影で隠されているが、その放つ圧倒的な威圧感と美しさは、嫌というほど見覚えがある。
零の動きが、ピタッと止まった。
カード名には『反逆のカリスマ・ゴースト』と、禍々しい金色の箔押しで刻印されている。
「お、おい零! お前、それ……!!」
向かいに座っていた稔が、椅子からガタッ! と立ち上がり、周囲の客が驚いて振り向くほどの声で叫んだ。
しかし、零自身は驚愕するどころか、無表情のまま内心で深い深いため息をついていた。
(……またか。また新しいバージョンが出たのかよ……肖像権どうなって……あ、ゴーストとしての戸籍がないから法が適応されないのか……)
実は、未登録の魔法少女であるゴーストが公式カードゲームに収録されるのは、これが初めてではない。以前にもシークレット枠でこっそり収録されたことがあり、零は自室の机の引き出しの奥底に、その『絶版になった初期版カード』を(捨てるに捨てられず)厳重に封印しているのだ。
だから、新弾にゴーストのカードが収録されていること自体には、今更驚かない。
驚きはしないが——やはり、自分が女装して戦っている姿を、全国のカードゲーマーたちに品評されていると思うと、猛烈に恥ずかしかった。
『【属性】:闇/氷/炎
【能力】:相手のフィールド上の結界・防壁効果を全て無効化する。
【解説】:協会未登録の謎の存在。その正体は誰も知らないが、絶大な力で魔獣を屠る孤高の亡霊』
(情報班の由鶴少佐あたりが、自分の仮説を基にカード会社にデータ提供して面白半分で収録させてるんだろうな……。ジャマーキラーの能力までしっかりカード効果に反映されてるじゃないか)
しかも、零の胃痛の種はこれだけではなかった。
最近、ネットの噂やクラスメイトの会話の端々から、「某同人イベントで、ゴーストの18禁同人誌が大量に出回っている」という恐ろしい情報を耳にしてしまったのだ。(※新堂鈴乃大先生の趣味が多分に影響している可能性があるが、零は知る由もない)。
自分の姿の薄い本が、世の男性たちに消費されている。
『中身は男子高校生だぞ! いい加減にしろ!』と大声で叫びたい衝動を、零は必死に喉の奥で押さえ込んでいた。
「すっげえ……! これ、今ネットのフリマアプリで10万円以上で取引されてる幻のカードだぜ! お前、今日の夕飯どころか、ひと月分の食費が余裕で浮くぞ!」
「……10万」
その金額を聞いた瞬間、宇宙一の主夫の脳内で、凄まじい葛藤が巻き起こった。
(10万円……! これがあれば、少し調子が悪くなってきた冷蔵庫の買い替え資金の足しになる。いや、最新のオーブンレンジだって買える……! 自分の黒歴史カードを売るだけで、家計が劇的に潤う……!)
零がゴーストのカードを握りしめ、顔面を蒼白にしながらプルプルと震えていたその時。
ファストフード店に面した裏路地では、星監の残党である黒装束の男たちが数名、零を拉致しようと静かに接近していた。
「……ターゲットはファストフード店の中だ。羽衣緋雪は愛知県のPRイベントで不在。三神姉妹も協会で任務中。今なら誰も邪魔立てできない」
「了解。ヴィクトリア様の命令だ。手段は問わず、三神零を確保する——」
男たちが通信機で連絡を取り合い、裏口から店内に突入しようとした、その瞬間。
「——お兄さんの休日は、邪魔させないよ」
「——ゴミは、ゴミ箱へ」
頭上のビルの屋上から、ゴスロリ衣装の双子が音もなく舞い降りた。
ルカの踵落としが一人の男の顎を粉砕し、リリアの手刀がもう一人の延髄を正確に刈り取る。手には、さっきまで食べていたクレープの包み紙がしっかりと握られている。
「なっ!? 福音の鐘の暗殺部隊……! なぜこんなところに!」
「うるさいなぁ。お兄さんはルディア様のお気に入りなの! 星監の負け犬どもが近づいていい人じゃないんだよ!」
ルカが楽しそうに笑いながら、残る男たちを容赦なく壁に叩きつける。
わずか十秒足らず。裏路地は、星監の残党たちの無残な残骸で埋め尽くされた。
「お掃除完了! リリア、駅前でタピオカ買ってからアジトに帰ろ!」
「ん。お兄さんには内緒の、パーフェクト・ガード」
双子たちは、自分たちが裏社会の勢力図を大きく塗り替えるほどの戦闘をこなしたことなど気にも留めず、鼻歌交じりに路地裏から去っていった。
星監の残党は、こうしてまたしても、トップエースや家族が不在の隙を突いたにも関わらず、零が気づかないうちに完璧に処理されたのである。
「——で、どうするんだよ零。そのカード、売るのか?」
店内で、稔が興奮冷めやらぬ様子で尋ねる。
零は、手の中にある『反逆のカリスマ・ゴースト』のカードと、スマホのフリマアプリに表示された「100,000円」という相場を交互に見つめ、深く、深くため息をついた。
「……いや。売らない」
「マジで!? もったいねえ!」
零はカードをそっとスリーブに入れ、ポケットの奥底に封印した。
(これを売って家計に入れたら、絶対に姉ちゃんや母さんに「その大金、どうしたの?」って怪しまれる。それに……自分の黒歴史カードが、どこの誰とも知らない奴の手に渡ってデュエルで使われるなんて、想像しただけで精神が崩壊する)
主夫としての欲望を、羞恥心と理性がギリギリで押さえ込んだ瞬間だった。
引き出しの奥の「絶版初期版」の隣に、このカードも厳重に封印しなければならない。
「お前も、いいカード当たってよかったな。さ、用が済んだなら帰るぞ。今日は夕飯の前に、風呂掃除を念入りにやりたいんだ」
「お前、本当に高校生とは思えないくらい所帯染みてるよな……」
呆れる稔と共に、零は店を出る。
外に出ると、秋の爽やかな風が吹いていた。裏路地で血みどろの戦闘があったことなど微塵も感じさせない、平和な商店街の風景だ。
ふとスマホを見ると、メッセージアプリに通知が入っていた。愛知県にいる緋雪から『イベントの休憩中よ! 名古屋の手羽先、お土産に買っていくわね!』という写真付きのメッセージ。そして澪からは『今日は遅くなるから夕飯は冷蔵庫に入れといて』という業務連絡だ。
カルトの暗躍による裏社会の掃除と、遠く離れた地からのトップエースの気遣い、そして家族の日常。
今日も果てしない胃痛と同人誌への恐怖を抱えながらも、絶妙なバランスで成り立つ「平和」に包まれているのだった。




