第百三十三話
魔法少女協会日本支部本部、情報班オフィス。
新実由鶴は、車椅子から立ち上がり、窓の外の景色を眺めながら、ゆっくりとコーヒーを口に運んだ。
スタンピードと星監の一件が一段落し、彼女の頭脳は再び、本来の「好奇心」に向けてフル回転を始めていた。その矛先は当然、あの謎多き未登録の魔法少女・ゴーストと、彼に纏わる不可解な符合の数々である。
「——由鶴。呼び出しなんて珍しいわね。アンチジャマーの件なら昨日の会議で終わったはずだけど?」
オフィスの扉が開き、私服姿の羽衣緋雪が顔を出した。
由鶴は振り返り、眼鏡を中指でクイッと押し上げながら、意味深な笑みを浮かべた。
「ええ、業務の話ではありません。……緋雪。あなた、三神零くんと最近連絡を取っていますか?」
「えっ? み、三神くん? と、取ってるわよ! たまにメッセージのやり取りくらいは……って、それが何よ」
突然意中の少年の名前を出され、緋雪が分かりやすく動揺する。
由鶴はデスクの上のタブレットを操作し、一枚の相関図を空中にホログラム投影した。そこには、ゴーストの出現地点と、三神零の行動ログが不気味なほど重なり合っているデータが示されていた。
「これを見てください。京都での一件、水族館、そして先日、彼が家族で焼肉に行っていた時間と場所……。ゴーストの出現地点と、三神くんの現在地が、異常なほど一致しています」
「……それがどうしたの? たまたま現場に居合わせただけでしょ?」
「一度や二度なら偶然でしょう。しかし、こうも毎回となると話は別です」
由鶴は声を一段低くし、もったいぶるように間を置いた。
「私の仮説です。——ゴーストは、三神くんに異常なまでの執着を抱く『ストーカー』なのではないでしょうか」
「……はぁっ!?」
緋雪の口から、素っ頓狂な声が漏れた。
「考えてもみてください。ゴーストは、三神くんや彼の家族がピンチに陥った瞬間に必ず現れ、そして去っていく。これは単なる正義感ではなく、彼という『個』に対する狂気的な執着心の表れです。……もしかすると、三神くんはすでにゴーストに脅され、監視されているのかもしれませんよ?」
しかし、由鶴のこの斜め上の仮説は、緋雪の脳内で最悪の化学反応を引き起こした。
「あ、あの恐ろしい亡霊が、三神くんを……ストーキングしてるって言うの!? 夜道で後ろからジッと見つめたり、彼のお弁当の残り物を回収したり、お風呂を覗いたりしてるかもしれないってこと!?」
「まあ、そこまで変態的かどうかは分かりませんが、付き纏っている可能性は極めて高いですね。彼女の力を考えれば、一般人の三神くんが自力で逃れることは不可能です」
由鶴の無責任な追い打ちに、緋雪の表情がスッと消えた。
彼女の周囲の気温が急激に低下し、オフィスの観葉植物の葉がパリパリと凍り始める。
「……許せない」
「え?」
「許せないわ!! 三神くんの平穏な日常を脅かすなんて、絶対に許さない! 由鶴、情報提供ありがとう! 私が、彼を24時間体制で完璧に護衛してみせるわ!!」
「え、ちょっと緋雪……?」
由鶴が止める間もなく、氷の女王は猛烈な吹雪を巻き起こしながらオフィスを飛び出していった。
ストーカーから意中の人を守るという大義名分を得た緋雪の暴走は、もはや特S級魔獣にも止められない。
その日の放課後。
三神零は、スーパーの特売チラシを片手に、足早に家路についていた。
「今日はヤオヨシのポイント5倍デーだ。それに豚のブロック肉が半額……今夜は特製角煮にするしかないな」
宇宙一の主夫として、1円単位の妥協も許されない勝負の日である。
エコバッグを握りしめ、スーパーへと続く交差点を曲がろうとした——その時だった。
「——三神くん!!」
「うわっ!?」
電柱の陰から、白いトレンチコートを着込んだ羽衣緋雪が、ものすごい勢いで飛び出してきた。
「は、羽衣さん!? どうしたんですか、そんな切羽詰まった顔して。魔獣でも出ましたか?」
「三神くん、安心して! 私が来たからには、もう『あいつ』に指一本触れさせないわ! 今日から私が、あなたの完全密着護衛になるから!!」
緋雪は零の両手をガシッと握りしめ、至近距離で見つめ上げてきた。
銀髪から漂うシャンプーのいい香りと、圧倒的な美少女の顔面圧に、零は思わずのけぞる。
「ご、護衛? あいつって、誰のことですか?」
「ゴーストよ! あいつ、あなたのことをストーキングしてるみたいなの! でも大丈夫、買い物でもお風呂でもトイレでも、私がずっと傍にいて守ってあげるから!」
(——はぁぁぁぁぁっ!?)
零の心臓が、文字通り口から飛び出そうになった。
(ゴーストが俺のストーカー!? 誰だそんな頭の悪い仮説を立てた奴は)
しかも、買い物だけでなく風呂やトイレまで密着護衛などされた日には、変身はおろか、平穏な日常の全てが崩壊する。
「い、いやいや羽衣さん! お気持ちはありがたいですけど、俺みたいな一般人を護衛するなんて、エースの時間の無駄遣いですよ! それに、さすがにお風呂は無理ですって!」
「無駄じゃないわ! 市民の平穏を守るのがエースの務めだもの! さあ、今日はどこへ行くの? ヤオヨシ? 一緒に行きましょう!」
完全に『彼氏をストーカーから守護するスパダリ彼女』のスイッチが入ってしまった緋雪は、零の腕を引いてズンズンと歩き出してしまった。
零は激しい胃痛を抱えながら、為す術もなくスーパーへと引きずられていく。
しかし、零の受難はそれだけでは終わらなかった。
スーパー『ヤオヨシ』の店内。
自動ドアを抜けると、いつも流れているのんびりとしたBGMに混じって、妙に聞き覚えのある声が飛び込んできた。
「いらっしゃいませー! 今日のおすすめは、そこのお兄さんだよー!」
「ルカ。売り文句が間違ってる。正しくは『特売の豚肉』」
「……ん?」
零が青果コーナーの方に目を向けると、そこにはヤオヨシの緑色のエプロンと三角巾を身につけた、ゴスロリ調の双子——ルカとリリアが立っていた。
(——なんでカルト教団の暗殺幹部が、スーパーで試食販売のバイトしてんだよ!?)
零は内心で盛大に絶叫した。
驚くべきことに、カルト教団『福音の鐘』は、星監が三神零の周辺を探っているという情報を独自にキャッチしていた。そして、彼らが崇める『神』と同じ実家の匂いを放つ、ルディアお気に入りの少年を守るため、教団を挙げてヤオヨシのパート店員として潜入し、独自の防衛網を敷いていたのである。
「あ! お兄さん! いらっしゃい!」
ルカが零に気づき、満面の笑みで駆け寄ってくる。リリアもトコトコとついてきた。
「……お兄さん、これ、特別な豚肉。教団の……じゃなくて、店長の隠し在庫。お兄さんだけに、75%オフでいい」
リリアが、最高級のブランド豚肉のブロックに『75%オフ』というとんでもない割引シールをペタリと貼り付け、零の買い物カゴにねじ込んだ。
「え、いや、これさすがに安すぎないか……?」
「いい、お兄さんは私たちの特別なお客さんだから。あと、ポイントはリリアが20倍にしといた。そこのお姉さんは彼女さん?お似合いだね?」
「か、彼女!? そそそ、そんなんじゃないわよ! 私はただの護衛で……!」
緋雪が顔を真っ赤にして両手を振る。双子は「ふふん」と笑いながら青果コーナーへと戻っていった。
緋雪は双子の顔を知らないため、ただの親切なバイトの子供だと思っている。しかし零の胃袋はすでに限界に近かった。
「……おいおい、鮮魚コーナーにいるの、須藤真里じゃないか……」
奥の鮮魚コーナーでは、教団の高級幹部である須藤真里が、血しぶきを飛ばしながら凄まじい包丁捌きでブリを解体していた。
さらにはレジ打ちの場所に、黄金の髪を後ろで束ね、ヤオヨシのエプロンを優雅に着こなしたルディア・ロンディニウムの姿まである。
(テロリストの親玉がレジ打ちしてるとか、どんなカオスな空間だよ!ここが日本で一番危険な場所になってるじゃないか!ってか、なんで誰もバレない!?)
零は冷や汗を流しながら、緋雪にバレないよう、一刻も早く買い物を済ませて店を出ようと決意した。
しかし、その様子を、店外からじっと見つめているもう一つの影があった。
「……やっぱり、零のやつ、何か隠してる」
電柱の陰から、サングラスとマスクで変装した三神澪が、双眼鏡越しにスーパーの中を監視していた。
焼肉店での一件以来、澪は「零はゴーストの正体を知っていて、裏稼業に巻き込まれているのではないか」という疑念を拭えずにいた。そして今日、ついに弟の尾行を決行したのだ。
澪の視界には、日本トップエースである羽衣緋雪を連れて歩き、さらにはスーパーの店員たち(カルト幹部とは知らない)から異様なVIP待遇を受けている零の姿が映っていた。
「トップエースの羽衣大佐が、なんで零の護衛みたいな真似を……? それに、あの店員たちの零への接し方、明らかに普通じゃない。……間違いないわ。零は、協会のトップや裏社会の人間と、深く繋がっているんだ!」
澪の勘違いが、真実の欠片を掠めながらも、斜め上の方向へと猛スピードで昇華していく。
「バカな弟……! 脅されて無理やり協力させられてるに決まってるわ! 私が、姉である私が、零を裏社会の繋がりから抜け出させてやるんだから!」
澪が一人で熱血な決意を固めていた、その時だった。
『——警告。近隣エリアに魔獣が出現します』
澪の持つ協会の端末が、静かに警告音を鳴らした。
スーパーの裏手、人気のない搬入口の路地裏に、黒い靄が集束していく。星監が、ゴーストをおびき寄せるための観測用として放った、特B級クラスの虎型魔獣だった。
「……あんなところに魔獣が! 零のいるスーパーが危ない!」
澪は変装をかなぐり捨て、二等兵の制服を実体化させると、魔獣のいる裏路地へと一直線に駆け出した。
「グルルルルッ!!」
搬入口のシャッターを破壊しようとしていた虎型魔獣の前に、澪が炎の槍を構えて立ちはだかる。
「そこまでよ! 私の弟の買い物は、絶対に邪魔させないわ!」
澪が果敢に炎の刺突を放つが、特B級の硬い毛皮に弾かれ、逆に強烈な前足の一撃を食らって吹き飛ばされる。
「くっ……! 速い……! それに、この硬さ、私一人じゃ……!」
二等兵である澪の実力では、特B級を単独で討伐するのは至難の業だ。
魔獣が再び大きく跳躍し、倒れ込んだ澪に牙を剥く。
同じ頃、スーパーの店内で異変を察知した零と緋雪も、通用口から外へと飛び出していた。
「姉ちゃん!? なんでこんな所に!」
零の顔から一気に血の気が引いた。魔獣の牙が、今まさに澪に迫っている。
(くそっ! 変身しなければ魔法は使えない……! だがここで変身すれば、緋雪さんの目の前で正体がバレる!)
零が激しく葛藤し、それでも姉を救うためにペンダントを握りしめようとした、まさにその瞬間だった。
「——させないわ!!」
零の横を、白い疾風が駆け抜けた。
羽衣緋雪だ。彼女は抜刀と同時に周囲の空気を凍てつかせ、特B級の虎型魔獣と澪の間に割り込んだ。
「——【絶零の太刀】!!」
ピキィィィンッ!!
緋雪の神速の一閃が魔獣の巨体を捉えた。特B級の分厚い装甲ごと、魔獣は一瞬にして巨大な氷の彫像と化し、直後にパリィンと音を立てて粉々に砕け散った。
日本トップエースとしての、圧倒的で洗練された一撃である。
「はぁっ……! 三神くんのお姉さん、大丈夫!?」
緋雪はすぐさま刀を納め、倒れ込んでいる澪に駆け寄って手を差し伸べた。
零はペンダントから手を離し、ホッと安堵の息を吐きながら二人の元へ走った。
「姉ちゃん! 怪我はないか!?」
「れ、零……。それに、羽衣大佐……」
澪は緋雪の手を借りて立ち上がりながら、目の前の光景に呆然としていた。
特B級の魔獣を瞬殺するトップエースの実力。そして、そのトップエースが、なぜ一般人であるはずの弟と一緒にスーパーの買い出しに来ていて、さらにここまで過保護に弟を守ってくれるのか。
(そうか……。やっぱり私の推測は当たっていたんだ)
澪の脳内で、全ての「点」が一つに結びついた。
(トップエースの羽衣大佐が、わざわざ零の側に張り付いている理由……。それは、零をあの恐ろしいゴーストや、危険な裏社会から守るため。あるいは、協会として零を監視し、保護するためなんだわ!)
スーパーの異様な店員たちの接客(裏社会の匂い)と、トップエースによる密着護衛。
澪は、弟が自分が想像していた以上に深く、そして危険な闇に囚われているのだと確信した。
「零……」
澪は、弟の両肩をガシッと掴み、真剣な眼差しで彼を見つめた。
「あんたがどれだけ深い闇に囚われているのか、トップエースに守られなきゃいけないくらい危険な状況にいるのか……私、やっと分かったわ」
「……は?」
「でも安心して。お姉ちゃんがもっともっと強くなって、いつか必ず、あんたをその裏社会の繋がりや、ストーカーの亡霊から解放してやるんだから!!」
「いや、だからお前、何を言って……」
「羽衣大佐! 弟を助けていただき、ありがとうございます! でも、いつまでも協会に迷惑はかけられません! 私が、姉である私が必ず零を守れるようになりますから!」
澪は緋雪に深々と頭を下げると、「零、特売の豚肉、絶対に死守しなさいよ!」と言い残し、熱い涙を浮かべながら去っていった。
「え、ええ……? 三神くんのお姉さん、すごく熱血な人ね……」
ポカンとする緋雪。
そこへ、スーパーの通用口を開けて、ルディア、真里、双子たちが「お兄さん、無事ー?」
「豚肉、安くしといたよー」と呑気に手を振っている。
(——なんだこのカオスな状況は……)
日本トップエースの護衛、カルト教団の過保護な店員たち、そして斜め上の決意を固めた姉。
四方八方から自分を守ろうとする過剰な善意と、壮大な勘違いの嵐に囲まれ、ただの高校生の三神零の平穏な日常は、今日も果てしない胃痛と共に暮れていくのだった。
彼が守りたかったのは、ただ「特売の豚肉を無事に家に持ち帰ること」だけだったというのに。




