第百三十一話
魔法少女協会日本支部本部、取調室。
無機質な照明の下で、情報班の若手職員・江本奏は、青ざめた顔で震えていた。
向かいの席には、杖をつかずに自立できるようになった新実由鶴と、副会長の湯野麗香が、冷徹な視線を彼に注いでいる。
「……アンチジャマー技術の外部アクセスログ。そして、あなたの個人口座への出所不明な多額の入金記録。言い逃れできるとは思わないことね、江本くん」
由鶴が、机の上に数枚の報告書を滑らせた。
江本は、額から滝のような冷や汗を流しながら、必死に首を振った。
「ち、違います! これは何かの間違いで……!」
「星監、と言ったかしら。あのような国際的な非合法組織に、一体何を握られたの? お金? それとも脅迫?」
麗香が、静かに、しかし威圧感のある声で問い詰める。
江本は完全に言葉に詰まり、ガタガタと肩を震わせた。その時、彼の内ポケットに入っていた黒いスマートフォンが、不自然な電子音を鳴らした。
江本が震える手で画面を見ると、そこには『Connection Lost(接続切断)』という無機質な文字が表示されていた。
「——あ、あぁ……見捨てられた……」
江本は、絶望に満ちた声で呟いた。星監の最高指導者、ヴィクトリア・ローゼンベルグによる「切り捨て」が、システム上でも明確に実行されたのだ。
次の瞬間。江本の持っていたスマートフォンから、禍々しい紫色の煙が噴き出した。
「なっ……魔力反応!? 由鶴、下がって!」
麗香が咄嗟に由鶴を庇う。
江本の絶叫と共に、紫の煙が彼の全身を包み込み、その肉体を強引に異形の姿へと作り変えていく。星監が情報漏洩用の端末に仕込んでいた、口封じのための魔獣化プログラムだった。
「グガァァァァァッ!!」
人型と獣が混ざり合ったような異形の魔獣と化した江本は、取調室の分厚い壁を力任せに破壊し、そのまま協会の外、東京の夜の街へと逃亡を図った。
「くっ……口封じのために、魔獣の触媒を仕込んでいたのね……! エース部隊に緊急出動を要請して!」
麗香の鋭い指示が、警報の鳴り響く本部に響き渡った。
同じ頃。
都内の少し高級な焼肉店『牛将』では、三神家が和やかな週末の夕食を楽しんでいた。
「わぁーっ! お肉がキラキラしてる!」
玲奈が、大皿に盛られた霜降りの特上カルビを見て目を輝かせる。
母の奈々美も、「たまにはこういう贅沢もいいわねぇ」と嬉しそうにお茶を飲んでいた。
「よし、じゃあ焼いていくぞ。……澪、玲奈、絶対に俺の許可なく肉を網に乗せるなよ。肉のポテンシャルを最大限に引き出すには、温度管理と配置が全てだ」
零は、両手にトングを構え、まるで戦場に臨む指揮官のような真剣な眼差しで網を見つめていた。
外食とはいえ、肉を焼くという行為において、宇宙一の主夫である彼がトングを他人に譲るはずがない。
「はいはい、お任せしますよ、焼肉奉行様」
澪が呆れたように笑いながら、サラダを取り分けている。
零は、網の温度が完璧な状態に達したのを見計らい、特上カルビを一枚ずつ、芸術的な手つきで網に乗せていく。ジュワァァァッという至福の音が、テーブルを包み込んだ。
「いいか、この特上カルビの最適な焼き時間は、片面四十五秒、裏返して三十秒だ。……それ以上でもそれ以下でもない」(※諸説あり)
零が、ストップウォッチでも見ているかのように正確に時間を数え始めた、まさにその時だった。
『——ウゥゥゥゥゥゥッ!!』
突如、店外からけたたましいサイレンの音が鳴り響き、同時に、スマートフォンの防災アプリが一斉に警報を鳴らした。
「えっ、何!?」
「近隣エリアに魔獣が出現したみたいよ! こっちに向かってるって!」
店内の客たちが、一斉にパニックになり立ち上がる。
澪と玲奈も、魔法少女としての本能から、即座に身を乗り出した。
「お母さん、危ないからお店の奥にいて! 私たち、ちょっと外の様子見てくる!」
「気をつけてね、二人とも!」
澪と玲奈が、店の外へと駆け出していく。
残された零は、トングを握りしめたまま、網の上で完璧に焼き上がりつつある特上カルビを睨みつけていた。
(……ふざけるな。せっかくの家族の焼肉を……よりによって、この特上カルビの片面四十五秒が経過しようとしている、この完璧なタイミングで邪魔するだと……!?)
宇宙一の主夫の怒りが、星監の陰謀や協会の都合など関係なく、臨界点を突破した。
「母さん、俺、ちょっとトイレ行ってくる」
「えっ、零!? こんな時にトイレなんて——」
零は、焦げる寸前のカルビを網の端の低温ゾーンに素早く退避させると、猛ダッシュで店の裏口へと向かった。
(あと三分。……三分以内にあの騒ぎを片付けて、絶対にこの肉を最高の状態で食わせてやる……!)
裏路地に飛び込んだ零は、胸のペンダントを強く握りしめた。
漆黒の魔力が弾け、最強の亡霊が、怒り狂った主夫の魂を抱いて夜の街へと顕現する。
「グガァァァァッ!」
焼肉店の入っているビルから少し離れた大通り。
魔獣と化した元情報班の江本が、周囲の車を薙ぎ払いながら暴れ回っていた。
駆けつけた澪と玲奈が、一般市民の避難誘導を行いながら、防戦に努めている。
「くっ、速い……! それに、なんか変な結界張ってるわ!」
澪が炎の槍を放つが、江本の周囲に展開された紫色の防壁に阻まれ、霧散してしまう。
江本は元情報班として、由鶴の研究していたアンチジャマーや結界技術の知識を無意識に魔獣の能力として還元していたのだ。
「これじゃ、エース部隊が到着するまで持ちこたえられないかも……!」
玲奈が風の魔法で瓦礫を防ぎながら、焦りの声を上げる。
江本魔獣が、大きく腕を振り上げ、二人に致命的な一撃を放とうとした——その瞬間。
「——【深淵の重圧】」
上空から、氷のように冷たい声が響いた。
ドゴォォォォンッ!!
凄まじい重力波が江本魔獣の頭上から叩きつけられ、アスファルトごと彼を地面にクレーター状にめり込ませた。
「——えっ?」
「ゴ、ゴースト……!?」
澪と玲奈が目を見開く。
街灯の上に降り立ったのは、漆黒のドレスを纏い、大剣を肩に担いだゴーストだった。
しかし、その紫の瞳には、いつものような冷静な威圧感ではなく、得体の知れない『焦燥感』が漲っていた。
(タイムリミットまで、あと二分十秒……! 急がないと肉が硬くなる!)
ゴーストは、江本が展開していた小賢しい紫色の防壁など完全に無視し、大剣を上段に構えて一気に跳躍した。
「ギィィィヤァァァッ!」
江本魔獣が防壁の出力を最大にして迎え撃つ。理論上、大半の魔法攻撃を減衰させるはずの、星監由来の結界技術。
「——邪魔よッ!!」
ゴーストの闇を纏った大剣が、防壁もろとも、江本魔獣の脳天から両断した。
理論も結界も関係ない、完全なる『物理と魔力の暴力』。
悲鳴を上げる間もなく、江本魔獣は真っ二つに裂け、黒い粒子となって消滅した。
討伐時間、わずか八秒。
「……うそ、一撃……?」
澪が、信じられないものを見るように呆然と呟く。
ゴーストは大剣を虚空にしまうと、消滅した江本の跡地に残されていた、焦げたスマートフォンのような端末を一瞥した。星監のマークが刻まれたそれを見て、軽く舌打ちをする。
(星監関連?……まあいい、協会が後で回収するだろ)
ゴーストは、澪と玲奈の方を一度だけ振り返ると、「怪我がなくてよかったわね」とだけ短く告げ、闇に溶けるように一瞬で姿を消した。
「行っちゃった……。相変わらず、嵐みたいな人ね」
「うん……でも、助かったね、お姉ちゃん」
姉妹が安堵の息を吐いている頃。
裏路地で変身を解いた零は、猛ダッシュで焼肉店のトイレの窓から店内へと舞い戻っていた。
「——ふぅ、すっきりした」
零は何食わぬ顔で席に戻ると、即座にトングを手に取った。
網の端の低温ゾーンに退避させていた特上カルビを中央に戻し、仕上げの十秒を数える。
「はい、お待たせ。完璧なミディアムレアだ」
零が皿に取り分けたカルビは、美しい焼き色と、溢れんばかりの肉汁を湛えていた。
ちょうど店内に戻ってきた澪と玲奈が、驚いたように零を見る。
「あんた、こんな騒ぎの時に、まだ肉焼いてたの!?」
「当たり前だろ。魔獣はエースがなんとかしてくれるが、焦げた肉は誰も元に戻してくれないからな」
零が澄ました顔で言うと、澪は深くため息をついた。
「はぁ……あんたのその肝の据わり方、ある意味尊敬するわ」
澪は呆れながらも、差し出されたカルビを口に運ぶ。
「——んんっ! 何これ、すっごく美味しい!」
「だろ? 秒単位で温度管理したからな」
家族が美味しそうに肉を頬張る姿を見て、零は内心でガッツポーズを決めた。
星監の暗躍も、協会の情報漏洩も、今の彼にとっては『特上カルビの焼き加減』の前には些細な問題でしかない。
しかし、肉を飲み込んだ後、澪がふと、じっと零の顔を見つめてきた。
「……零、あんたゴーストとなんか関係あるの?」




