第百三十話
魔法少女協会日本支部本部、情報班オフィス。
新実由鶴は、アンチジャマー技術の管理ログを、静かに見つめていた。
「……おかしいわね」
由鶴は、モニターに表示されたアクセス履歴を、何度も遡って確認していた。
あの湾岸での激突の際、ヴィクトリア・ローゼンベルグが使用していたアンチジャマー技術。その理論は、由鶴が三神零のジャマーキラー体質を元に開発したものと、ほぼ完全に一致していた。
(——外部への漏洩経路は、限られているはず)
由鶴は、技術資料へのアクセス権限を持つ人間のリストを、一人一人、丁寧に洗い出していった。
開発チームのメンバー、承認プロセスに関わった上層部、そして——。
「……この人物」
由鶴の指が、あるログの一点で止まった。
資料の最終承認直前、深夜の時間帯に、通常業務では考えられない頻度でアクセスしている記録。それは、由鶴自身の直属の部下——情報班の若手職員、江本奏のアカウントだった。
(江本くん……? まさか、彼が……)
由鶴は、信じたくないという思いを抱えながらも、冷静に証拠を積み重ねていった。
外部との不審な通信履歴、深夜の単独残業の頻度、そして、江本が最近になって購入したという、身分不相応に高価な私物の数々——。
「……確定的、ね」
由鶴は、深いため息をついた。
これ以上の追及には、正式な内部調査が必要になる。由鶴は、証拠を整理したファイルを作成し、静かに湯野麗香への報告書を書き始めた。
(——星監と繋がっていた、か。……道理で、あれほど早く技術情報が渡っていたわけね)
裏切りへの怒りよりも先に、由鶴の中には、パズルのピースが噛み合っていく、研究者としての冷静な納得感が広がっていた。
しかし同時に、身近な部下が、敵対組織と通じていたという事実は、由鶴の胸に、静かながらも確かな重さを残していた。
その日の午後。
由鶴は、報告書の提出を終えた後、少し気分転換にと、本部近くの公園を歩いていた。
湾岸での事件以降、心身ともに張り詰めていた緊張を、少しでも解きほぐしたいという思いがあった。
「——あら」
ベンチの近くで、見覚えのある人影に気づく。
協会の制服姿の少女が、少し疲れた様子で、缶ジュースを片手に座っていた。三神澪だ。まだ協会での業務報告を済ませていないのか、鞄には協会の識別章が下がっている。
「あなた……確か、三神くんの、お姉さんよね」
由鶴が声をかけると、澪は驚いたように顔を上げた。
「あ、はい……。えっと、由鶴さん、でしたっけ。弟が、以前お世話になったとかで」
「ええ。……少し、隣に座ってもいいかしら」
「どうぞ」
由鶴は、澪の隣に腰を下ろした。
「最近、現場に配属されたそうね。……お疲れ様。大変だったでしょう」
「あ、ご存知だったんですね。……はい、正直、色々考えさせられることばかりで」
澪は、少し苦笑いを浮かべながら、そう答えた。
「協会って、もっと万能な組織なんだと思ってました。……でも、実際は、把握しきれてない脅威が、たくさんあるんですね」
その言葉に、由鶴は、僅かに目を細めた。
奇しくも、今日、由鶴自身が痛感したばかりの現実と、澪の言葉が、静かに重なっていた。
「……ええ、その通りよ。協会も、完璧な組織じゃない。……内部にすら、把握しきれていない綻びがあるくらいだから」
由鶴の声に滲んだ、僅かな苦さに、澪は少し不思議そうな表情を浮かべた。
「由鶴さんも、何か大変なことがあったんですか?」
「……まあ、ね。仕事上の、ちょっとした頭痛の種よ」
由鶴は、それ以上詳しくは語らず、曖昧に笑った。
情報班内部での裏切りという事実は、まだ正式な処分が下るまで、部外者に軽々しく話せることではない。
「三神くんは、元気にしてる?」
由鶴が、話題を変えるように尋ねた。
「はい、相変わらず、家のことばかり気にしてる、お節介な弟です」
澪が、くすりと笑いながら答える。
「……そう」
由鶴は、静かに頷きながら、ふと、あの夜の様々な符合を、脳裏に思い浮かべた。
零への興味自体は、すでに薄れている。しかし、こうして澪と話していると、ほんの少しだけ、あの頃の好奇心が、心の奥で微かに疼くのを感じた。
(——まあ、今は、それどころじゃないけれど)
由鶴は、そんな思考を振り払うように、静かに立ち上がった。
「今日は、少し話せてよかったわ。……また現場で会うこともあるかもしれないけれど、お互い、無理はしすぎないようにしましょうね」
「はい、ありがとうございます」
澪は、律儀に頭を下げた。
由鶴は、小さく手を振ると、公園を後にした。
その夜。東京湾岸から遠く離れた、都内某所の隠れ家。
福音の鐘の一室で、須藤真里が、ルディアに静かに報告を上げていた。
「ルディア様。星監の東アジア支部、規模を縮小しながらも、依然として活動を継続している模様です」
「……そう。あの女、簡単には尻尾を巻かないというわけね」
ルディアは、静かに窓の外を見つめながら、そう呟いた。
「こちらも、負けてはいられないわ。……須藤、水面下での情報収集を、引き続き強化しなさい。次にぶつかる時は、確実に決着をつける」
「かしこまりました」
須藤真里が、深々と一礼する。
湾岸での激突は、表向きには痛み分けという形で幕を閉じていた。しかし、ルディアとヴィクトリア、二人の間に燻る因縁の炎は、水面下で、静かに、しかし確実に、燃え続けていた。
一方、星監の秘匿拠点でも、ヴィクトリア・ローゼンベルグが、冷徹な眼差しで報告を受けていた。
「——福音の鐘が、こちらの動向を再び探り始めている、と」
「はい。……いかがいたしましょうか」
「放っておきなさい。……あの女がどう出てこようと、次は完膚なきまでに叩き潰すだけよ」
ヴィクトリアは、レイピアの柄を、静かに指先でなぞった。
「それと——江本くんの件、情報班に感づかれた可能性があるようね」
「はい。……処分は、いかがいたしますか」
ヴィクトリアは、僅かに口角を上げた。
「切り捨てなさい。……使えなくなった駒に、用はないもの」
その冷酷な言葉は、遠く離れた協会本部で、静かに事態の推移を見守る由鶴の耳には、まだ届いていなかった。
水面下では、複数の勢力の思惑が、静かに、しかし確実に絡み合い続けていた。




