第百二十四話
「——よし、今日から通常授業再開だな!」
朝のホームルーム、担任の号令に合わせて、クラス全体が気だるげな返事をする。
スタンピードの影響で数日間続いていた休校措置も、ようやく解除された。三神零は、久しぶりの学生鞄の重みに、どこか懐かしさすら覚えながら、自分の席に腰を下ろした。
「よぉ、零。体調、もう平気なのか?」
隣の席から、親友の狭間稔が声をかけてくる。
「ああ、もうすっかりな。心配かけたな」
「マジで心配したんだぞ。あの日、急に『体調不良で休む』ってメッセージ来たっきり、二日も音沙汰なかったし」
「悪い悪い。……色々、あってさ」
零は、曖昧にそう誤魔化しながら、苦笑いを浮かべた。
あの夜、スタンピードに巻き込まれた(という体で)から数日、実際には満身創痍の体を休めるために、学校を休んでいたのだ。もちろん、稔にその詳細を話すわけにはいかない。
「まあ、無事ならいいけどよ。……そういえば、今日の放課後、新作ゲームの発売日だろ? 一緒に買いに行こうぜ」
「ああ、あれか。楽しみにしてたんだった」
零の顔に、自然な笑みが浮かぶ。
スタンピードという未曾有の非日常を経験したからこそ、こうしたなんでもない約束が、無性に愛おしく感じられた。
「よし、決まりだな! 購入予約しといたやつ、取りに行こうぜ」
「おう」
稔との、いつも通りの軽口の応酬。
零は、それがどれだけ貴重な日常であるかを、改めて噛み締めていた。
昼休み。
零は、朝から仕込んだ手作り弁当の包みを片手に、屋上へと向かっていた。
久しぶりの屋上の空気は、どこか清々しく感じられる。
「よっ、零。今日も気合入った弁当だな」
後からやってきた稔が、零の弁当箱を覗き込んで感心したように言う。
「まあな。……早起きした甲斐があったよ」
零は、弁当箱の蓋を開け、卵焼きを一つ、稔へと差し出した。
「ほら、味見してみろ」
「お、サンキュー。……うん、相変わらず美味い。お前、本当に高校生か?」
「うるせぇ」
二人は、屋上の柵にもたれかかりながら、他愛のない話をしつつ弁当をつついた。
久しぶりの、なんでもない昼休みの時間。零は、それがどれだけ貴重なものかを、改めて噛み締めていた。
放課後。
零と稔は、約束通り、駅前のゲームショップへと向かっていた。
「よっしゃあ、ちゃんと予約分、確保できてたぞ!」
「マジか、よかった!」
稔が、袋を掲げて嬉しそうな声を上げる。
二人は、そのまま近くのファストフード店に立ち寄り、他愛のない話に花を咲かせた。
「そういえば、お前、最近ちょっと疲れてる感じだったけど、もう大丈夫なのか?」
「ああ、平気平気。……最近、色々あってさ」
零は、曖昧にそう答えながら、フライドポテトをつまんだ。
「まあ、無理すんなよ。……お前、色々背負いすぎなところあるからな」
稔の何気ない気遣いに、零の胸が、じんわりと温かくなった。
正体を明かせない親友。それでも、彼が示してくれる純粋な友情は、零にとって、かけがえのないものだった。
「ありがとな、稔」
「なんだよ急に。気持ち悪いな」
「うるせぇ」
軽口を叩き合いながら、二人は他愛のない時間を過ごした。
稔と別れた後、零は夕飯の買い出しのために、駅前の商店街を一人で歩いていた。
スーパーのチラシを片手に、今夜の献立を思案しながら歩いていると、ふと、見覚えのある人影が視界に入った。
「——あ」
街路樹の傍、私服姿の少女が、通行人にちらちらと視線を向けられながら、所在なさげに立っていた。
パーカーにキャップという、変装のつもりらしい格好だったが、そのオーラは、明らかに一般人のものとは一線を画していた。新人アイドル、星宮きらりだ。
「あれ、きらり……さん、だっけ? なんでこんなところに」
「あ! 零くん! 久しぶり!」
きらりが、ぱっと顔を輝かせて手を振ってくる。
彼女は、芸能活動の傍ら、新人魔法少女としても活動している少女で、以前ショッピングモールで零(ゴーストとしてではなく、一般人として)と少しだけ言葉を交わしたことがあった。零とは別の学校に通う、他区の生徒だ。
「今日、この近くでレッスンがあってね。終わったら、なんか懐かしい気配感じて、ふらっと来ちゃった」
「懐かしい気配?」
「うん。……零くんといると、なんかホッとするんだよね。前から、ちょっと不思議に思ってたんだけど」
きらりは、そう言いながら、じっと零の顔を見つめてきた。
その視線に、零の心臓が、僅かに跳ねる。
(——まさか、まだ『星眼』で何か感じ取ってるのか……?)
以前、協会上層部への報告で、きらりが零を「抹茶クッキーのお兄さん」と結びつけかけていたという話を、零自身は知る由もなかった。しかし、彼女の勘の鋭さについては、以前から薄々警戒していた。
「な、なあ、きらりさん。その、『星眼』だっけ? あれって、今も俺に対して、何か反応してたりする?」
零は、なるべく自然を装いながら、探りを入れてみた。
人通りの多い商店街で立ち話をするのも気が引けたが、この機会を逃す手はないと、零は内心で気を引き締めていた。
「んー、実はね」
きらりは、少し首を傾げながら、答えた。
「最近、事務所の人に紹介してもらった専門の先生から、星眼の使い方をちゃんと教わったんだ。それで、色々コントロールできるようになって……。前は、なんでもかんでも視えすぎて、逆にノイズだらけだったんだけど、今はちゃんと、必要な情報だけ選んで視られるようになったの」
「へえ、そうなんだ」
「それでね、改めて零くんのこと視てみたんだけど……」
きらりは、目を細めて、じっと零を見つめた。
零は、思わず息を呑んだ。
「うーん、やっぱり、すっごく温かくて、優しい気配。……でも、それだけだよ? 前に感じてた『闇』とか、そういう不穏な感じは、今は全然しない」
「……そう、なんだ」
零は、心底安堵した様子で、小さく息を吐いた。
どうやら、きらりの星眼の精度が上がったことで、逆に「ゴーストの闇」と「零の日常の気配」を、明確に切り分けて認識できるようになったらしい。以前のような、混同した疑念を抱かれる心配は、これでかなり薄れたと言えそうだった。
「零くんって、本当に不思議な人だよね。……でも、悪い人じゃないってことは、ちゃんと分かるから安心して!」
「あ、ああ、ありがとう……?」
零は、曖昧にそう返しながら、内心で胸を撫で下ろした。
星眼という、これまで警戒していた脅威の一つが、思わぬ形で、むしろ良い方向に落ち着いたことに、密かな安堵を覚えていた。
「それじゃあ、私、そろそろ戻るね! 零くん、またね!」
きらりは、屈託のない笑顔でそう言うと、周囲の視線を避けるようにキャップを深く被り直し、雑踏の中へと駆けていった。
一人残された零は、スーパーのチラシに視線を戻しながら、小さく息を吐いた。
(——一つ、心配の種が減ったな)
これまで積み重なってきた綻びの数々の中で、久しぶりに訪れた、明るい兆しだった。
夜、三神家のリビング。
夕飯を終えた家族団らんの時間、零はソファに座り、母の淹れたお茶を啜っていた。
「零、最近顔色いいわね。もう体調、すっかり戻ったの?」
「うん、平気だよ、母さん」
「なら良かったわ。……そういえば、今週末、久しぶりに家族で外食でもどう? みんなで、あのお肉屋さん行きましょうよ」
「いいねー! 行きたい!」
妹の玲奈が、目を輝かせて賛同する。
澪も、珍しく特に反対することなく、静かに頷いていた。
「……たまには、外の空気吸うのもいいわね」
澪のその一言に、零は、ふと視線を向けた。
澪の目には、以前のような鋭い探るような色はなく、ただ、家族との時間を楽しみにしている、穏やかな表情があった。
(——姉ちゃんも、少しは落ち着いてきたのかな)
零は、そう思いながら、小さく安堵の息を吐いた。
嘘は、まだ多く残っている。それでも、こうした何気ない家族の団らんの中に、確かな幸せがあることを、零は改めて実感していた。
「よし、じゃあ週末は、みんなでお肉食べに行こう」
「賛成ー!」
家族の明るい声が、リビングに響き渡る。
スタンピードという嵐が過ぎ去った後、三神家には、いつもと変わらぬ、穏やかな日常が戻ってきていた。
それは、決して当たり前ではない、零が命を懸けて守り続けてきた、かけがえのない光景だった。




