第百二十二話
協会支部からの帰り道。
三神澪は、いつもより足取りが重かった。
鞄の中には、今日配布されたばかりの資料——今回のスタンピードによる、都内各所の被害報告書の写しが入っている。訓練校を卒業し、正規の魔法少女として現場に立つようになったばかりの身として、こうした資料に目を通すことも、大切な業務の一環だった。
(……零のやつ、あの夜、本当にただ転んだだけなのかしら)
澪の脳裏には、あの夜、深夜に帰宅してきた弟の姿が、何度も繰り返し浮かんでいた。
全身の痛々しい傷。手際の良すぎる包帯の巻き方。そして、あの夜、都内では過去十年で最大規模のスタンピードが発生していたという、動かしがたい事実。
(普通に考えたら、あの怪我とスタンピードは、無関係とは思えない。……でも、零は一般人よ。まさか、巻き込まれて、あんな怪我をしたっていうの……?)
澪の胸の中に、じわりと不安が広がっていく。
弟が何か重大な秘密を隠しているのではないか、という漠然とした疑念とは別に、もっと単純で、もっと切実な心配が、澪の心を締め付けていた。
(もし、本当にあの夜、零がスタンピードに巻き込まれていたのだとしたら……)
協会で学んだ知識が、否応なく澪の想像力を刺激する。
特級魔獣の脅威、地脈の乱れによる二次被害、逃げ遅れた市民の犠牲者数——資料に並ぶ数字の一つ一つが、弟の身に起きたかもしれない最悪の可能性と、重なって見えてしまう。
「……ただいま」
澪は、いつもより静かな声で、玄関の扉を開けた。
「あ、澪お姉ちゃん、おかえりー!」
リビングから、妹の玲奈が顔を出す。
「零は?」
「お兄ちゃんなら、キッチンで夕飯の準備してるよ」
澪は、鞄を置くのもそこそこに、キッチンへと足を向けた。
「——零」
「ん? おかえり、姉ちゃん」
零は、包丁を握りながら、軽く振り返った。
彼の顔色は、あの夜に比べれば、随分と良くなっている。だが、澪の目には、まだどこか無理をしているような、微かな疲労の色が見て取れた。
「……ちょっと、話があるんだけど」
「話? なんだよ、改まって」
零は、包丁を置き、澪の方へと向き直った。
澪は、少しの間、言葉を選ぶように沈黙してから、静かに切り出した。
「あの夜のこと。……あんたが、怪我して帰ってきた夜のこと」
「……あー、あれか。転んだって、もう説明しただろ」
「そうじゃなくて」
澪は、まっすぐに零の目を見据えた。
「あの夜、都内で大規模なスタンピードが起きてたのよ。協会でも、被害報告書が配られてる。……零、あんた、本当は、その巻き添えになったんじゃないの?」
零の心臓が、ドクンと大きく跳ねた。
澪の言葉は、真実の核心には触れていない。だが、限りなく、その核心に近い場所を、正確に突いていた。
「……あー、いや、それは……」
零は、思わず視線を泳がせた。
嘘をつき続けることへの罪悪感と、これ以上澪を心配させたくないという思いが、複雑に絡み合う。
「あんた、もし本当に魔獣に襲われたりしたなら、ちゃんと言ってよ。……隠さなくていいから」
澪の声には、責めるような調子はなかった。
ただ、純粋な、弟を案じる姉としての心配だけが、そこには滲んでいた。
「私だって、もう正規の魔法少女なのよ。……あんたが、どんな危険な目に遭ったのか、ちゃんと知りたい。一人で抱え込まないでよ」
その言葉に、零の胸が、ぎゅっと締め付けられた。
澪は、零の正体には、当然ながら気づいていない。ただ、シンプルに、「弟がスタンピードに巻き込まれた一般人の被害者だったのではないか」と、本気で心配しているだけなのだ。
(——姉ちゃん……)
零は、深く息を吐いた。
全てを話すことはできない。しかし、このまま澪の優しさを、完全に無視することもできなかった。
「……姉ちゃん。心配かけて、悪かった」
零は、静かにそう切り出した。
「正直に言うと……あの夜、確かに、ちょっとした魔獣の騒ぎに巻き込まれた。運良く、近くにいた魔法少女の人に助けてもらって、なんとか無事だったんだ」
零は、真実の断片だけを、慎重に選び取りながら語った。
自分がゴーストであることは、決して明かせない。だが、「一般人として、たまたま魔獣の被害に遭い、誰かに助けられた」という筋書きなら、澪を納得させつつ、正体を隠すことができる。
「……そう、だったの」
澪は、安堵とも、複雑な思いともつかない表情で、小さく息を吐いた。
「もう、無茶しないでよね。……あんたに何かあったら、私、絶対に許さないから」
「ああ、分かってる。……ありがとう、姉ちゃん」
零は、素直にそう告げた。
嘘は、まだ多く残っている。だが、澪の優しさに、少しでも誠実に応えたいという気持ちだけは、本物だった。
「まあ、無事だったなら、いいわ。……今日の夕飯、何?」
「豚汁と、鮭の塩焼き」
「いいじゃない。手伝う?」
「ああ、じゃあ大根切ってくれ」
姉弟の間に、いつもの、ごく当たり前の空気が戻ってくる。
しかし、澪の胸の奥には、まだ拭いきれない小さな違和感が、静かに燻り続けていた。
(……本当に、それだけなのかしら。……零、あんた、何か、もっと大きな秘密を抱えてるんじゃ……)
澪は、まな板の上で大根を切りながら、ちらりと弟の横顔を見つめた。
弟の日常を守りたいという思いと、彼の秘密に対する漠然とした不安。その二つの感情が、澪の中で、静かに絡み合い続けていた。
その夜、自室のベッドに横たわりながら、零は小さくため息をついた。
(——姉ちゃんに、あそこまで心配されるとは思わなかったな)
嘘をつくことへの罪悪感が、胸の奥に重く残る。
だが同時に、家族が自分をこれほどまでに案じてくれているという事実が、疲れた心に、じんわりとした温かさをもたらしてもいた。
(……いつか、本当のことを話せる日が来るのかな)
零は、天井を見上げながら、そんな想像を巡らせた。
しかし、その答えは、まだ見つかりそうになかった。
三神家の日常は、表面上は変わらぬまま続いていく。




