第百二十一話
スタンピードの夜が明けてから、三日が過ぎていた。
東京の街は、表向きにはすでに平静を取り戻している。度重なる魔獣の発生に対する住民の不安は根強く残っていたが、協会による迅速な復旧作業と、目立った被害の少なさもあり、日常はゆっくりと元の姿を取り戻しつつあった。
魔法少女協会日本支部本部、情報班オフィス。
新実由鶴は、車椅子から松葉杖での歩行に切り替えられるようになった体で、自身のデスクに積み上げられた大量の資料と向き合っていた。
「……やっぱり、おかしい」
由鶴は、モニターに表示された時系列表を、何度目かの検証にかけていた。
あの夜、自分が三神零に忠告の電話をかけた時刻。地脈の異常振動が本格化した時刻。ゴーストが最初に児童公園で目撃された時刻。そして、ゴーストの魔力反応が大田区の工業地帯で途絶えた時刻——。
「三神くんへの忠告電話の直後から、まるで示し合わせたかのように、ゴーストの動きが活発化している。……これが、単なる偶然だと思う方が、無理があるわ」
由鶴は、ペン先でモニターの一点をコツコツと叩きながら、独り言のように呟いた。
「それに、あの夜、三神くんは私に『家の近所からカラスが消えた』と教えてくれた。……あれは、一般人が気づくには、あまりにも早すぎる異変への気づきだった」
由鶴の脳裏に、これまでの様々な符合が、次々と浮かび上がってくる。
京都の修学旅行での一件。ジャマーの結界内を、まるで散歩するように平然と歩いていた三神零の姿。
そして、水族館デートの日、双子のテロリストと遭遇した際の、彼の不自然なほどの落ち着きよう。
(普通の一般人なら、あそこまで冷静ではいられないはず。……まるで、修羅場に慣れているみたいだった)
由鶴は、こめかみに指を当てながら、慎重に思考を組み立てていく。
「……三神くん自身が、ゴーストだという可能性は……いいえ、それはさすがに、あり得ないでしょうね」
由鶴は、一旦その仮説を、自ら打ち消した。
変身による容姿の変化があったとしても、三神零という少年から、あの絶対的な強者の気配を感じ取ったことは、これまで一度もなかった。ただの、心優しい、家庭的な男子高校生。それが、由鶴の中にある三神零の印象の全てだった。
(——だとすれば、もっと別の可能性がある)
由鶴は、タブレットに新たな仮説を打ち込み始めた。
「三神零くんは、ゴーストと何らかの形で、面識がある。あるいは、彼女の協力者、もしくは彼女に近しい立場にいる人物なのではないか……」
その仮説は、由鶴の中で、次第に確信めいた重みを帯びていった。
もしそうだとすれば、これまでの数々の不可解な符合にも、説明がつく。三神零が異変にいち早く気づけたのも、ゴーストが度々彼の周辺に現れているように見えるのも、全ては、二人の間に何らかの繋がりがあるからだと考えれば、腑に落ちる部分が多い。
「……面白い。実に、興味深い仮説だわ」
由鶴の口元に、久しぶりに、あの研究者らしい好奇心に満ちた笑みが浮かんだ。
「三神くんの周辺を、もう少し注意深く観察する必要がありそうね。……もちろん、彼自身に危害を加えるつもりは、毛頭ないけれど」
由鶴は、タブレットに『三神零・行動パターン観察計画』という新たなファイルを作成し、静かに保存した。
彼女の探求心の矛先は、これまでの「ジャマーキラーとしての三神零」から、「ゴーストの協力者としての三神零」へと、少しずつ、しかし確実に移り変わり始めていた。
「——由鶴、少しいいですか」
オフィスの扉が開き、羽衣緋雪が顔を出した。
「あら、緋雪。どうしたの」
「今度の会長発表の件、あなたも同席するのよね? 念のため、資料の最終確認をお願いしたくて」
「ええ、もちろん。……その前に、緋雪」
由鶴は、タブレットの画面を閉じながら、緋雪へと視線を向けた。
「あなた、最近、三神くんとは会っている?」
「——え? 急に、何よ」
緋雪が、僅かに動揺した様子を見せる。
「いえ、他意はないの。……ただ、少し気になることがあって。彼、最近何か変わった様子はなかったかしら。例えば、怪我をしていたり、体調を崩していたり」
由鶴の問いに、緋雪の脳裏に、あの水族館デートの日以来、なんとなく気になっていた違和感が蘇った。
しかし、それをこの場で由鶴に話すべきかどうか、緋雪自身、判断がつかなかった。
「……さあ、どうかしら。最近、あまり会えてないから、分からないわ」
緋雪は、なんとなく曖昧に答えを濁した。
由鶴は、その微妙な間に、僅かに目を細めたが、それ以上深追いすることはしなかった。
「そう。……まあ、いいわ。それより、資料の確認、お願いできる?」
「え、ええ。もちろん」
二人は、それ以上その話題に触れることなく、会長発表の準備へと話を移していった。
しかし、由鶴の中で芽生えた仮説の種は、この日を境に、静かに、しかし着実に育ち始めていた。
放課後、三神家。
零は、リビングのソファに座り込み、スマートフォンの画面を眺めていた。
体の傷は、闇魔法による応急治療と、その後の自然治癒によって、ほとんど目立たなくなっている。しかし、まだ完全に本調子とは言い難く、階段の上り下りだけでも、時折鈍い痛みが走ることがあった。
「……そういえば、由鶴さんから連絡ないな」
あの夜以来、由鶴からの連絡は、ぱったりと途絶えていた。
てっきり、スタンピードの後始末で忙しいのだろうと思っていたが、なんとなく、それだけではない何かを感じる沈黙でもあった。
(……まあ、考えすぎか。とりあえず、今は目の前の夕飯だ)
零は、キッチンへと立ち上がった。
冷蔵庫を開け、今夜の献立を思案する。日常は、確かに戻ってきていた。しかし、その水面下では、少しずつ、しかし確実に、新たな緊張の糸が張り巡らされ始めていることに、当の本人はまだ、気づいていなかった。




