第百二十話
——ズシャアアアッ!
シンディーの放った氷の刃が、ゴーストの左肩を掠めた。
浅くはない傷から、赤黒い血が滲む。ゴーストは咄嗟に後方へ跳び、間合いを取り直した。
「くっ……!」
「動きが、鈍いわね」
シンディーの声には、一切の感情の起伏がなかった。
まるで機械のように正確で、無駄のない動き。氷の刃を次々と生成しては放ち、ゴーストの逃げ場を的確に潰していく。
「そんな満身創痍の体で、よくもまだ立っていられるものだわ。……その粘り強さだけは、評価してあげる」
「——余計な、お世話よ……!」
ゴーストは大剣を振るい、迫る氷の刃を叩き落とす。
しかし、一本を防ぐそばから、次々と新たな刃が生成され、四方八方から襲いかかってくる。
——ズブッ。
防ぎきれなかった一本が、ゴーストの右太腿を貫いた。
「——ッ、ぐぅ……!」
膝から力が抜け、片膝をつく。
闇の魔力を掌に集めようとするが、指先が思うように震えるだけで、傷を癒やすほどの力は、もはや残っていなかった。
(——魔力が、ほとんど、ない……)
工業地帯での激戦、その後の連続した転戦。積み重なった消耗が、今、限界の形となって全身に重くのしかかっていた。
「これで、終わりよ」
シンディーが、右手に巨大な氷の槍を形成し、静かに構えた。
その切っ先が、ゴーストの心臓を正確に狙っている。
(——避けられ、ない……)
ゴーストの視界が、絶望的な現実を捉えた。
体は動かない。魔力も尽きている。この一撃を防ぐ手段は、もはやどこにも残されていなかった。
しかし。
——キィィィンッ!!
鋭い金属音と共に、放たれた氷の槍が、横合いから飛来した氷結の太刀によって、真っ二つに弾き飛ばされた。
「——ッ、なに……!?」
シンディーが、初めて僅かに眉を動かす。
「——大丈夫、ゴースト!?」
凛とした声と共に、屋上へと駆け上がってきたのは、羽衣緋雪だった。
太刀を構え、ゴーストを庇うようにその前に立ちはだかる。
「……あなた……」
「無事でよかった……! こんなに傷だらけで……!」
緋雪の瞳に、安堵と、そして激しい怒りが同時に宿った。
「——あなたが、この元凶……?」
緋雪が、シンディーを鋭く睨みつける。
しかし、その表情に、次第に驚きと苛立ちの色が混じり始めた。
「——シンディー……? あなた、まさか……」
「久しぶりね、緋雪。……こうして顔を合わせるのは、あの『ゴースト捕獲作戦』の夜以来かしら」
シンディーの声に、僅かに屈折した感情の色が滲んだ。
かつて米国支部調査官として日本に乗り込み、エースたちを囮に使ったゴースト捕獲作戦を主導した女。トラップは全て見破られて破壊され、指揮車両にまでゴーストの襲撃を許した挙句、責任を問われて謹慎処分——それが、緋雪の記憶する『シンディー・クラネル』の顛末だった。
「……あなた、あの一件で謹慎になって、それきり協会からも姿を消したはずよ! それが、こんなところで……!」
「謹慎、ね。……ええ、確かに私は、あなたたちの協会から体よく切り捨てられたわ。……失脚した人間の使い道なんて、あなたたちにはもう必要なかったのでしょうね」
シンディーの瞳に、一切の懐かしさは浮かんでいなかった。あるのは、燻り続ける屈辱と、静かな憎悪だけだった。
「羽衣緋雪、日本支部トップエース。……ちょうどいいわ。あの夜の借り、少しだけ返させてもらうわね」
「口ばかり達者ね。……ゴースト、下がってて! ここは私が食い止めるから!」
「……いえ」
ゴーストは、震える足でなんとか立ち上がった。
「あなた一人には、任せられないわ。……あの女は、私が始末をつけなきゃいけない相手だから」
緋雪が、驚いたようにこちらを見る。
その視線の先で、ゴーストは大剣を握り直し、残された最後の力を振り絞るように、闇の魔力を刀身へと集中させ始めていた。
「あなた、加勢を頼むわ……あと、あの祭壇、破壊してもらえるかしら?」
「——分かったわ!」
緋雪は、即座に頷いた。
迷いのない即答に、ゴーストの胸に、僅かな安堵が広がる。
「シンディー・クラネル。……あなたの相手は、私がするわ」
「あら、二人がかり? ……まあ、いいでしょう。どちらから相手をしても、結果は変わらないもの」
シンディーが、再び両手に氷の魔力を収束させる。
三者の視線が交錯し、屋上に、これまでで最も張り詰めた静寂が満ちた。
「——行くわよ!」
緋雪が、真っ先に地を蹴った。
氷結の太刀が、シンディーへと鋭く迫る。
「無駄よ」
シンディーは、片手だけでその斬撃を受け止めた。
氷と氷がぶつかり合い、鋭い音と共に、周囲の気温が一気に下がっていく。
「——ッ、力が……!」
緋雪が、その圧倒的な力に押され、後退する。
「今よ……!」
その一瞬の隙を、ゴーストは見逃さなかった。
残された魔力の全てを刀身に込め、シンディーの死角から、渾身の一撃を放つ。
「——ッ!」
シンディーが咄嗟に振り向き、氷の壁を展開して防御する。
しかし、ゴーストの闇の刃は、その氷の壁ごと切り裂き、シンディーの右肩に深々と食い込んだ。
「——ぐっ……!」
初めて、シンディーの顔に苦痛の色が浮かんだ。
「これで、終わり……!」
緋雪が、間髪入れずに追撃の一閃を放つ。
氷結の太刀が、シンディーの胴を貫いた。
「——な……こんな、連携……」
シンディーの体が、大きくよろめく。
二人がかりの猛攻に、彼女の余裕の表情は、完全に崩れ去っていた。
「——終わらせる、わよ……!」
ゴーストが、最後の力を振り絞り、大剣を振り下ろす。
闇の刃が、シンディーの胸元を深く貫いた。
「——ぁ……」
シンディーの体から、力が抜けていく。
彼女は、驚愕とも、どこか安堵とも取れる複雑な表情を浮かべたまま、その場に崩れ落ちた。
「……終わった、の……?」
緋雪が、荒い息のまま呟く。
ゴーストは、大剣を杖代わりに、なんとかその場に立ち続けていた。
「……あなたは……祭壇を」
「——ええ!」
緋雪は即座に踵を返し、禍々しい紫の光を放つ祭壇へと駆け寄った。
太刀に最大限の氷結魔力を纏わせ、渾身の一撃を振り下ろす。
——パリンッ!!
結晶体が、甲高い音を立てて粉々に砕け散った。
同時に、周囲に渦巻いていた紫の光が、まるで悲鳴のように収縮し、跡形もなく消え去っていく。
「……終わった、わ」
緋雪が、安堵の息を吐いた。
都心の空を覆っていた不気味な魔力の圧力が、嘘のように霧散していく。
「——上出来ね」
緋雪が振り返ると、少し離れた場所で、ゴーストが大剣を杖代わりにしながら、静かにこちらを見つめていた。
「祭壇、ちゃんと壊れたみたいね。……よかった」
「え……ちょっと待って、そんな怪我で、これからどこに——」
「あとは、任せるわ。……私は、もう限界」
ゴーストは、掠れた声でそう告げると、緋雪が駆け寄る間もなく、闇に溶けるようにその場から姿を消した。
「——あ……ちょっと……!」
緋雪は、思わず伸ばした手を、虚しく空に泳がせた。
その表情には、安堵と同時に、行き場のない心配の色が滲んでいた。
「ゴースト……もう、無理しすぎなんだから」
誰もいなくなった屋上で、緋雪はぽつりとそう呟いた。
一方、その頃。
祭壇の破壊による衝撃波は、地下深く、福音の鐘の本拠地にまで伝わっていた。
「——なっ……! 供物の座が、破壊された……!?」
ルディアが、祭壇と繋がっていた魔力の糸が断ち切られる感覚に、鋭く目を見開いた。
「……レナード」
その名を呟いた瞬間、ルディアの黄金の瞳に、これまでにない冷たい光が宿った。
祭壇を任せた男が、自分に何一つ報告を寄越さないまま、儀式の崩壊と同時に姿を消している。その不自然な沈黙こそが、何よりも雄弁な答えだった。
「……そういうことだったのね」
ルディアは、静かに踵を返し、地下拠点の裏口から、夜の街へと歩み出た。
商業施設から数ブロック離れた、人気のない裏路地。
崩れた瓦礫の隙間を縫うように、レナードが足早に歩いていた。
「はは、まったく、危ないところだったよ。……まあ、目的は達成できたし、上出来と言っていいだろうね」
レナードは、懐から小さな通信用の魔道具を取り出しながら、口元に笑みを浮かべた。
あらかじめ定められていた、星監側の回収地点。あと数十メートルも進めば、迎えの人形部隊が待機しているはずだった。
「——遅かったわね」
静かな声が、路地の先から響いた。
「——ッ!?」
レナードの足が、ピタリと止まる。
薄暗い路地の奥、崩れたコンクリートの壁にもたれかかるようにして、ルディアが立っていた。
「る、ルディア様……!? なぜ、ここに……!」
「あなたが、この場所に向かうことくらい、容易に予測がつくわ。……信仰を利用するような、浅ましい謀を巡らせる相手のことなら、なおさらね」
ルディアの声は、氷のように静かで、そして底知れぬ怒りを湛えていた。
「ちょ、ちょっと待ってください。話せば分かる話じゃ——」
「話すことなど、何もないわ」
ルディアは、静かに黄金の蛇剣を抜いた。
「私の信仰を、私たちの『神』への祈りを……利用するためだけの、道具として扱った。それも、あの方の御業を汚す形で……。万死に、値するわ」
「——ッ、くそ、こんな所で……!」
レナードは、慌てて周囲に根と蔦を展開しようとした。
しかし、ルディアの姿は、それよりも一瞬早く、彼の目の前から消えていた。
「——え……」
レナードが振り返ろうとした、まさにその瞬間。
——ズシャアアアアアッ!!
黄金の蛇剣が、夜の闇を鋭く切り裂いた。
断末魔の悲鳴すら上げる間もなく、レナードの体は成す術もなく両断され、黒い粒子となって崩れ落ちていった。
「……道具風情が、私を謀るなんて、百年早いのよ」
ルディアは、静かに蛇剣を鞘に納めた。
その表情には、依然として激しい怒りが宿っていたが、同時に、どこか冷静な計算の色も見え隠れしていた。
「星監、と言ったかしら。……この借りは、必ず返してもらうわ」
夜の裏路地に、静寂が戻る。
福音の鐘の内部にも、そして彼女自身の中にも、新たな敵——星監という存在が、明確な脅威として深く刻み込まれた瞬間だった。
夜明け前の空の下、崩れかけた瓦礫の陰に、闇の中からゴーストが姿を現した。
変身が解けると同時に、体を支えていた気力が一気に緩み、その場に膝から崩れ落ちる。
「……っ、はぁ……」
全身の痛みと、深い疲労感が、波のように押し寄せてくる。
それでも、街を覆っていた紫の光が完全に消え去ったことを、零は薄れゆく意識の中で、確かに見届けていた。
(——終わった、のか……。ひとまず、は……)
長く、そして過酷だったスタンピードの夜が、ようやくその終わりを迎えようとしていた。
そして、自分の部屋に転移した。




