第百十八話
福音の鐘、地下アジトの最奥。
石造りの祭壇の前で、ルディア・ロンディニウムは、静かに目を閉じていた。
「……ついに、この時が来たのですね」
傍らに控える須藤真里が、恭しく頭を垂れる。
「地脈の乱れ、魔獣の大量発生。これはまさに、ルディア様が予言なさった『魔獣の波』そのもの……」
「ええ」
ルディアは、ゆっくりと目を開いた。
その黄金の瞳には、これまでにない強い高揚と、恍惚とした光が宿っている。
「数週間前、私は確かに感じ取っていた。この国の地脈が、大きく歪み始めていることを。……そして、あの方が私にお与えになったこの傷が、私自身の魔力の感受性を、より鋭く研ぎ澄ませていたのでしょう」
ルディアは、まだ完全には癒えていない自身の首元の古傷に、そっと触れた。
「予言は、成就した。……ならば、私たちがなすべきことは一つ」
「第二段階の実行、ですね」
真里が、確認するように問う。
ルディアは、静かに頷いた。
「この混沌を利用し、神への最大の供物を用意する。……全国で暴れる魔獣たちを、あえて一箇所に集約させ、その中心に『祭壇』を築くのです。あの方が、必然的にその場所へ降臨せざるを得ないような、壮大な舞台を」
「……つまり、意図的に魔獣を誘導し、大規模な戦場を演出すると」
「ええ。すでに各地の下部組織には、地脈操作用の触媒を配置させています。あと数時間で、都内某所に、これまでにない規模の魔力の渦——『供物の座』が完成するでしょう」
ルディアの言葉に、周囲に控えていた信徒たちが、一斉にどよめいた。
「ルディア様……それでは、街に甚大な被害が出るのでは……」
一人の若い信徒が、おずおずと声を上げる。
「構わないわ。……いいえ、むしろそれこそが本望なのです。この世界の穢れを一度洗い流し、あの方の御手によって、真に新しい秩序が築かれる。それこそが、私たちの目指す救済なのだから」
ルディアの声には、迷いも躊躇もなかった。
狂信の名のもとに、彼女はすでに、街一つを犠牲にすることすら厭わない覚悟を固めていた。
「須藤、リリア、ルカ。準備を急がせなさい。……儀式は、今夜のうちに完遂します」
「かしこまりました」
三人が、一斉に頭を垂れる。
福音の鐘の企みは、静かに、しかし確実に、最終段階へと突入しようとしていた。
その頃、東京の各所では、依然として散発的な魔獣の発生が続いていた。
しかし、明け方に差し掛かった頃から、それまでランダムだったはずの発生地点に、奇妙な規則性が見られ始めていた。
「——おかしいですね」
協会本部、情報班のオフィスで、由鶴が眉根を寄せてモニターを睨みつけていた。
「発生地点が、明らかに一箇所——都心の某所へと収束するように移動しています。これは、自然発生の挙動ではありません」
「誘導されている、ということですか」
傍らにいた飛鳥が、緊張した面持ちで問い返す。
「ええ。……何者かが、意図的に魔獣の群れを誘導している可能性が高い。座標を割り出します」
由鶴が急いで解析を進めると、地図上に、これまでの発生地点を結んだ軌跡が浮かび上がった。その先に示されていたのは、都内でも指折りの巨大商業施設——多くの市民で賑わうはずの複合ビル群だった。
「——そんな……こんな場所に、誘導してどうする気なの……!」
「分かりません。ですが、このまま放置すれば、避難が間に合わない規模の被害が出る可能性があります。至急、会長への報告と、周辺エリアの緊急避難指示を」
由鶴は震える手でタブレットを操作し、緊急通信を発信した。
その情報は、瞬く間に緋雪たちの元にも届いた。
「——都心部への誘導……! 福音の鐘の仕業ね、間違いなく」
緋雪が、拳を強く握りしめる。
「ゴーストの行方も、まだ分かってないのに……こんな時に……!」
「緋雪、落ち着いて」
飛鳥が、静かにその肩に手を置いた。
「今は、目の前の脅威に対処することが最優先よ。エース部隊全員で、現場に急行するわ」
「……ええ、そうね」
緋雪は、深呼吸をして気持ちを切り替えた。
ゴーストへの心配は尽きないが、今この瞬間にも、多くの市民の命が危険に晒されている。優先すべきことは明確だった。
零は自室でわずか数時間の仮眠から目を覚ました零は、スマートフォンに表示された緊急速報のアラートに、思わず飛び起きた。
「——は? 都心の商業施設に、魔獣の大群が向かってる……?」
画面に表示されたニュース速報を見て、零の顔から一気に血の気が引いた。
まだ全身に痛みは残っている。昨夜の激戦の疲労も、完全には回復していない。しかし、この規模の脅威を前にして、家で寝ている選択肢は、彼の中に存在しなかった。
(——これ、絶対にただの自然発生じゃない。誰かが、意図的にやってる)
零の脳裏に、ルディアの姿がよぎった。
あの数日前、京都で聞いた言葉ではないが、教団特有の狂信的な言動の数々を思い出す。
もし、この誘導が福音の鐘の仕業だとすれば——それは、単なる魔獣被害以上の、恐ろしい意図を秘めている可能性が高い。
「……悪い、母さん。もう一回だけ、抜け出す」
零は、痛む体に鞭打ちながら、静かにベッドから起き上がった。
窓を開け、人目のない裏庭へと降り立つ。
「——変身」
その一言と共に、少年の輪郭が闇に溶けるように揺らぎ、漆黒のドレスを纏った少女——ゴーストの姿が、静かに夜闇の中に現れた。
「……ここが最後の踏ん張りどころ、ってわけね」
ゴーストは、痛む脇腹を押さえながらも、力強く前を見据えた。
まだ、完全に本調子ではない。しかし、これ以上多くの人々が危険に晒されるのを、指を咥えて見ているわけにはいかなかった。
「さて……教団の連中、一体何を企んでるのか。……直接、聞いてやろうじゃない」
ゴーストの姿が、闇に溶けるように消える。
次なる戦いの舞台——都心の巨大商業施設へと、彼女は真っ直ぐに向かっていった。
福音の鐘が用意した『供物の座』と、それを止めようとする守護者。
全ての糸が、一つの場所へと収束しようとしていた。




