第百十七話
深夜、三神家の玄関の鍵が、静かに開いた。
「……ただいま」
零は、痛む体を庇いながら、なるべく音を立てないよう玄関に滑り込んだ。
しかし、その努力もむなしく、リビングの明かりはまだ煌々と灯っていた。
「——零!」
母の奈々美が、弾かれたように駆け寄ってくる。
「もう、こんな時間まで何してたの! 連絡もつかないし、心配で……! あなた、その傷……!」
「あ、ああ、ちょっと……帰り道で、転んで」
零は、とっさに用意していた言い訳を口にした。
夜道で足を滑らせて転倒し、たまたま近くを通りかかった親切な人に手当てをしてもらった——という、我ながら苦しい設定だ。
しかし、今夜はあまりにも多くの魔獣が発生し、ニュースでも大々的に報じられている。この状況下で「転んだだけ」という説明が、どこまで通用するかは怪しかった。
「転んだって、こんなに!? 病院は!? ちゃんと診てもらったの!?」
「い、いや、応急処置はしてもらったから大丈夫。……本当に、心配かけてごめん」
零は、頭を深々と下げた。
その様子に、奈々美は複雑そうな表情を浮かべながらも、それ以上追及することはしなかった。
「……とにかく、無事でよかったわ。お風呂沸いてるから、ゆっくり温まりなさい。傷、悪化させないでね」
「うん、ありがとう」
妹の玲奈も、心配そうな顔をしながらも「お兄ちゃん、生きてて良かった……」と胸を撫で下ろしている。
しかし、その後ろで、腕を組んだまま黙って様子を見ていた姉の澪だけは、違う目でその光景を眺めていた。
「……零」
「な、なんだよ、澪」
「あんた、その怪我……本当に、ただ転んだだけ?」
澪の声は、母や妹よりも一段低く、鋭かった。
「な、なんだよ急に。当たり前だろ」
「ふぅん」
澪は、それ以上何も言わなかった。
だが、その視線は、零の脇腹の辺りに巻かれた包帯——素人が慌てて巻いたにしては、あまりにも手際が良すぎる包帯の巻き方に、じっと注がれていた。
(……この巻き方、素人の応急処置にしちゃ丁寧すぎる。それに、この痛がり方……単なる打撲や擦り傷じゃない気がする)
澪自身、訓練校で基礎的な負傷対応の授業を受けている身だ。目の前の弟の怪我が、転倒程度で負えるものではないことは、経験上、なんとなく察しがついていた。
「……まあ、いいわ。今日はもう休みなさい。話は、また今度」
澪はそれだけ言うと、階段を上がって自室へと戻っていった。
残された零は、背中にじっとりとした冷や汗をかきながら、小さく息を吐いた。
(——マジで澪、鋭いんだよな……。いつかバレる時が来るとしたら、真っ先に気づくのは澪かもしれない)
零は重い足取りで、風呂場へと向かった。
今夜だけは、なんとか誤魔化しきれた。しかし、この綱渡りが、いつまで続けられるかは分からなかった。
同じ頃。魔法少女協会日本支部本部、情報班オフィス。
「……ん?」
新実由鶴は、車椅子に座ったまま、大量のモニターに囲まれ、あるログデータを見つめて、僅かに眉をひそめた。
「どうかしましたか、少佐」
部下の一人が、怪訝そうに声をかける。
「……いえ。少し、気になることがありまして」
由鶴は、タブレットの画面を拡大し、時系列のログを丁寧に確認していく。
そこに表示されていたのは、今夜自分がとった行動の記録だった。
三神零に電話をかけ、スタンピードの前兆について忠告した時刻。その直後から、地脈の異常振動が本格化し始めた時刻。そして——ゴーストが最後に確認された時刻と、その後、彼女の魔力反応が完全に途絶えた時刻。
「……この時系列、どこかで見た覚えが」
由鶴は、独り言のように呟きながら、過去のログを次々と遡っていく。
修学旅行の京都、ジャマーの結界内を平然と歩いていた三神零。そして今夜、彼に忠告の電話をかけた直後から、都内各所で急速に事態が悪化した——偶然にしては、あまりにも出来過ぎている符合が、彼女の頭の中で、少しずつ形を成し始めていた。
「……いや、さすがに考えすぎか」
由鶴は一旦、その思考を打ち消すように首を振った。
情報班トップとしての職業病か、あるいは元々の探求心の強さゆえか、彼女は些細な符合にも、つい深読みをしてしまう癖がある。今回も、単なる偶然の可能性の方が、遥かに高いはずだ。
「……ですが、念のため。三神零くんの行動記録、今夜分だけでも精査しておきましょうか」
由鶴は、タブレットに新たな検索条件を打ち込みながら、静かに呟いた。
その瞳には、いつもの好奇心とはまた違う、より慎重で鋭い光が宿っていた。
一方、待機室では、緋雪が疲れた様子でソファに深く腰掛けていた。
「……ゴースト、本当にどこに行ったのかしら」
「大丈夫ですよ、緋雪。あの人がそう簡単にやられるはずないですって!」
真奈が、努めて明るくそう励ます。
「そうね……そう、信じたいわ」
緋雪は、天井を見上げながら、小さくため息をついた。
脳裏には、なぜか三神零の顔が浮かんでいた。今夜、彼から一度も連絡がないことも、少しだけ気にかかっている。
(……三神くんも、大丈夫かしら。こんな大変な夜に、一人で家にいるなんて、怖い思いをしていないといいけれど)
ゴーストへの心配と、三神零への心配。
全く別の対象のはずのその二つの感情が、緋雪の中で、なぜか同じ温度で存在していることに、彼女自身はまだ、気づいていなかった。
「……よし。私も、もう少しだけ捜索を手伝うわ」
緋雪は、重い体を起こし、再び現場へと向かう準備を始めた。
夜は、まだ長く続いていた。
自室のベッドに横たわりながら、零はスマートフォンの画面を見つめていた。
時刻はすでに午前二時を回っている。全身の痛みは、風呂と多少の休息でいくらか和らいでいたが、それでも本調子には程遠かった。
(——明日、いや、もう今日か。学校、休むしかないよな、この体じゃ)
零は、稔にだけ「体調不良で休む」とメッセージを送り、スマートフォンを枕元に置いた。
(それにしても……澪の、あの目……)
姉の鋭い眼差しを思い出し、零は小さく身震いした。
これまで、家族に正体がバレる危険性については、常に警戒してきたつもりだった。しかし、今夜のような不測の事態が続けば、いつか本当に、綻びが生じてしまうかもしれない。
(……気をつけないとな。次は、もっとうまくやらないと)
重い瞼が、ゆっくりと落ちていく。
スタンピードはまだ収束していない。明日以降も、きっと戦いは続くだろう。
零は、疲れ切った意識の中で、そんな漠然とした予感を抱きながら、深い眠りへと落ちていった。
彼を心配する人々の存在も、彼に迫りつつある小さな綻びの数々も、まだ本人の知らないところで、静かに、しかし確実に、蠢き始めていた。




