第百十六話
「はい、あーん」
「——な、な、なんで急にスプーンで……! 自分で食べられます、俺!」
零は、目の前に差し出されたスープの匙に、思わず顔を真っ赤にして仰け反った。
須藤真里が運んできた温かい野菜スープを、ルディアが甲斐甲斐しく匙に掬い、当然のような顔で口元まで運んできていたのだ。
「腕にも傷があるでしょう。無理に動かして傷口が開いたら大変だわ。……さあ、遠慮しないで」
「い、いや、腕はそこまで酷くないですし……!」
「ルディア様、それもう完全にお世話焼きモードだね」
「珍しい光景。……記録しておく」
ルカがくすくすと笑い、リリアはスマートフォンをこっそり構えている。
「り、リリアさん! それ撮らないでください!」
「安心して。私だけの記念」
「全然安心できない発言なんですけど!?」
教団の一室で繰り広げられる、あまりにも脱力感のあるやり取り。
零は、ボロボロの体に鞭打ちながら、なんとかこの異様な『甘やかし空間』から逃れようと必死だった。
同じ頃。魔法少女協会日本支部本部。
深夜にもかかわらず、待機室には煌々と明かりが灯り、緊迫した空気が漂っていた。
「——ゴーストの反応が、消えた」
羽衣緋雪が、通信端末を握りしめたまま、険しい表情でそう呟いた。
「大田区の工業地帯で最後に魔力反応があったきり、その痕跡が完全に途絶えています」
由鶴が、車椅子の上でタブレットを操作しながら報告する。彼女の顔にも、隠しきれない焦りの色が浮かんでいた。
「討伐された魔獣の残骸は確認できました。おそらく、そこで何らかの激しい戦闘があったのは間違いありません。……ですが、その後の足取りが」
「まさか、やられたの……?」
真奈が、不安げに声を震わせる。
「いいえ、それは考えにくいわ」
緋雪が、首を横に振った。
「ゴーストがそう簡単にやられるはずがない。……でも、この長時間、姿を見せないのは、あまりにも不自然よ」
彼女の脳裏に、水族館デートの日、木陰でお弁当を頬張っていた三神零の笑顔が、なぜか一瞬よぎった。
最近、なぜかゴーストの気配を感じる瞬間と、三神零と一緒にいる時の安心感が、時折奇妙に重なることがある。だが、その違和感の正体に、緋雪自身はまだ気づいていなかった。
「本部からエース部隊全員に通達。大田区周辺の徹底捜索を最優先とする」
会長室から届いた姫嶋結衣の直接指示に、待機室の空気が一気に張り詰めた。
「もし、ゴーストの身に何かあれば……このスタンピードを食い止める最大の戦力を、私たちは失うことになる」
結衣の言葉が、通信端末越しに重く響く。
緋雪は、拳を強く握りしめた。
「……絶対に、見つけ出すわ」
その声には、協会のエースとしての使命感だけでなく、もっと個人的な——彼女自身も自覚しきれていない、深い焦燥が滲んでいた。
三神家、リビング。
時刻は、すでに深夜零時を回っていた。
「……零、遅いわね。連絡もないし」
母の奈々美が、心配そうにスマートフォンの画面を何度も確認している。
いつもなら、どんなに遅くなっても必ず一報を入れてくる息子が、今夜に限って、夕方以降ぷっつりと連絡が途絶えていた。
「お母さん、零お兄ちゃん、大丈夫かな……。ニュースでも、今夜すごい数の魔獣が出たって言ってたし」
妹の玲奈が、不安そうにテレビの画面に目をやる。
画面には、都内各所で発生した『原因不明の地脈異常』とそれに伴う被害状況が、繰り返し報じられていた。
「まさか、あの子……」
奈々美の脳裏に、悪い想像が過ぎる。しかし、それを振り払うように、彼女は首を振った。
「大丈夫よ。零は、こう見えてしっかりしてる子だもの。きっと、友達の家にでも避難してるのよ」
自分に言い聞かせるようなその言葉は、しかし、リビングに漂う重い沈黙を払拭するには至らなかった。
姉の澪も、腕を組んだまま、険しい表情でスマートフォンを睨みつけている。
(……あんた、まさかまた、何か厄介事に首突っ込んでるんじゃないでしょうね)
澪の胸には、漠然とした、しかし拭いきれない不安が渦巻いていた。
教団のアジト、治療室。
スープを無理やり口に運ばれながら、零は内心で全く別の焦りと戦っていた。
(——まずい。もう、こんな時間だ。母さんたち、絶対心配してる……)
窓の外はすでに真っ暗だ。スマートフォンで時刻を確認したいところだが、あいにく自分の私物が今どこにあるのか分からない。
「あの……すみません、俺の荷物とか、スマホって、どこに……」
「ああ、それなら、こちらに」
ルディアが、傍らのテーブルに置かれていた、零のポケットの中身をそっと差し出した。
スマートフォンの画面には、未読の着信通知が、うんざりするほど並んでいた。
「——うわ……」
母からの着信、七件。妹からのメッセージ、三件。姉からも、簡潔だが刺々しい一文が届いている。
零の顔から、サーッと血の気が引いた。
「あの、俺、そろそろ帰らないと……! 家族が、心配してるみたいで……!」
「あら、それは大変だわ」
ルディアは、特に引き止める様子もなく、あっさりと頷いた。
「傷はまだ完治していないけれど……そうね、外傷はある程度塞がっているし、簡単な応急処置さえしておけば、帰宅くらいはできるでしょう」
「ほ、本当ですか! ありがとうございます……!」
零は、心底安堵した様子で頭を下げた。
この状況から一刻も早く抜け出せるのなら、それに越したことはない。
「送りましょうか?」
「い、いえ! 大丈夫です、自分で帰れますので……!」
(——というか、送られたら余計にヤバいだろ! カルト教団の教祖に家まで送迎されるとか、シャレにならん!)
零は必死に固辞し、なんとかルディアの申し出を丁重に断った。
「そう? 無理はしないでね。……それと」
ルディアは、立ち上がろうとする零に、静かに視線を向けた。
「もし、また何か困ったことがあれば、いつでも私たちを頼ってちょうだい。あなたには、なぜだか放っておけない何かを感じるの」
その言葉に、零の心臓が、再びドクンと大きく跳ねた。
(——それ、絶対に俺の正体に関する『何か』を無意識に感じ取ってるんだよな……。頼むから、これ以上勘を働かせないでくれ……!)
冷や汗を流しながらも、零はなんとか愛想笑いを浮かべ、深々と頭を下げた。
「本当に、ありがとうございました。……皆さんも、その、お元気で」
ルカとリリアに見送られながら、零はふらつく足取りで、教団のアジトを後にした。
地上に出ると、夜風が痛む体に染み渡る。空を見上げれば、遠くにまだいくつものサイレンの音が響いていた。
(——スタンピードは、まだ終わってない。急いで、家族の無事を確認しないと……それに、もう一度、変身して現場に戻らないと)
零は、痛む脇腹を押さえながら、暗い夜道を、家族の待つ我が家へと急いだ。
彼の知らないところで、多くの人々が彼——正確にはゴーストの行方を、必死に案じ続けていることも知らないまま。
見えない糸が、少しずつ、しかし確実に絡まり始めていた。




