第百十五話
「……っ、ぅ……」
鈍い痛みが、全身を這うように広がっている。
三神零は、重い瞼をゆっくりと開いた。視界に映るのは、見覚えのない、簡素な作りの天井だった。
「……いてぇ……」
思わず声が漏れる。
体を少しでも動かそうとすると、あちこちの筋肉や皮膚が悲鳴を上げた。特に脇腹の辺りは、まるで焼けた鉄棒を押し当てられたかのような、鈍く重い痛みが残っている。
(……ここ、どこだ?)
零は痛みに顔をしかめながら、慎重に上半身を起こした。
簡素なベッド、白い壁、消毒液のような匂い。どうやら、医務室のような場所らしい。だが、見覚えのある病院とも、協会の施設とも違う雰囲気だ。
(……そうだ、俺、工場の裏で……)
記憶が、少しずつ蘇ってくる。
執事姿の人型の魔獣。木の根と蔦による猛攻。決死の一撃で相手を倒した後、力尽きて壁に寄りかかったところまでは、はっきりと覚えていた。
(あの後、俺……変身、解けたのか……?)
全身に走る痛みの度合いから察するに、あの戦闘で負った傷が、まだ完全には癒えていないのは明らかだった。しかし、体の傷そのものは、明らかに誰かの手当てを受けた痕跡がある。丁寧に巻かれた包帯、清潔な着替え。
(誰が、俺を……)
混乱する頭を抱えながら、零がなんとか状況を整理しようとした、その時だった。
「——あ! 起きた起きた!」
部屋の扉が、勢いよく開いた。
「わっ……!」
零は驚いて肩を跳ねさせた。
入ってきたのは、見覚えのある二人組の少女だった。ゴスロリ調の黒いフリルワンピースに身を包んだ、双子の姉妹。
水族館で写真撮影を頼んできた、あの二人——ルカとリリアだった。
「え……あ、あんたら……!?」
零の背筋に、冷たいものが走った。
この二人の正体は知っている。カルト組織『福音の鐘』の暗殺特化の高級幹部。しかも、以前ゴーストとして自分が大剣で叩きのめした相手でもある。
(——なんでこいつらが、俺のいる部屋に……!? って、そうか、ここ、まさか……)
「よかったー! 全然目を覚まさないから、心配してたんだよ!」
ルカが、無邪気な笑顔でベッドの傍らに駆け寄ってくる。
「……お兄さん、また会ったね」
リリアも、いつものクールな無表情のまま、静かに近づいてきた。
「あ、あの……ここ、って……」
「私たちのアジトだよ! お兄さん、工場の外で倒れてたんだって。ルディア様が見つけて連れてきたの」
「ルディア……様……」
零の心臓が、大きく跳ねた。
福音の鐘の絶対的指導者。特A級ヒドラと同格、あるいはそれ以上の実力を持つ、Sランクのカルト教祖。京都で会った時とはまた違う、恐怖にも似た緊張が全身を駆け巡る。
(——バレたのか? 俺がゴーストだって、もう気づかれてるのか……!?)
冷や汗が、どっと背中に噴き出した。
しかし、目の前の双子の様子を見る限り、彼女たちは特にこちらを警戒している素振りは見せていない。それどころか、水族館での再会時と同じように、どこか無邪気で気安い態度のままだった。
「にしても、お兄さん、すごい怪我してたよ! 堀宮子お姉ちゃんも、びっくりしてたし!」
「なんか、戦った跡みたいだって、言ってた」
「え……い、いや、それは……」
ギクッとした零の反応を、しかしルカもリリアも、深くは気にしていない様子だった。
「まあ、今夜は魔獣がいっぱい出てたみたいだしね! 巻き込まれちゃったんだよね、きっと!」
「災難、だったね」
あくまで『一般人が魔獣の氾濫に巻き込まれた』という前提で会話が進んでいく。
零は内心で、ホッと胸を撫で下ろした。どうやら、正体そのものがバレたわけではないらしい。
(……いや、待て。安心するのはまだ早いぞ。この二人、東京で対峙したゴーストの容姿と、目の前の俺を結びつけて考えてるわけじゃない。あくまで『気配が似てる一般人』程度の認識のはずだ……)
零は必死に、頭の中で状況を整理する。
変身が解ければ容姿も声も変わる。だからこそ、これまで何度も正体を隠し通してこられたのだ。だが、それでも油断は禁物だった。
「にしても、お兄さん、水族館の時とはまた違う場所で会うとはねー! 運命感じちゃう?」
ルカが、悪戯っぽく笑いながら顔を覗き込んでくる。
その屈託のない態度に、零は思わず苦笑してしまった。
水族館で写真撮影を頼まれた時も、この双子はまるで普通の仲良し姉妹のように無邪気だった。あの時、大剣で叩きのめした相手だとは到底思えないほどの、あっけらかんとした空気感。
「……そうだな」
「それにゴースト様と雰囲気にているね!」
「私たちにとって、あの方は特別。……お兄さんとは、違う」
リリアが、いつもの淡々とした調子でそう答えた。
(——それ、めちゃくちゃ複雑な気持ちになる発言なんだけど……!)
自分自身のことを目の前で語られているという、なんとも言えない気まずさに、零は内心で頭を抱えた。
「まあ、なんにせよ、お兄さんが元気そうでよかったよ! お茶とか飲む? 堀宮子お姉ちゃんが淹れてくれたやつ、あるよ」
「あ、ああ……ありがとう」
差し出された湯呑みを、零は戸惑いながらも受け取った。
カルト組織のアジトで、暗殺特化の幹部からお茶を振る舞われるという、なんとも異様な状況ではあるが、双子の態度があまりにも自然体すぎて、緊張感が徐々に薄れていくのを感じる。
(……なんか、水族館の時とほとんど変わらないな、この空気)
零は、内心で苦笑しながら、そっと湯呑みに口をつけた。
しかし、その和やかな空気は、長くは続かなかった。
「——ルカ、リリア。彼の様子はどう?」
部屋の扉が再び開き、二人の女性が姿を現した。
一人は、高級幹部の須藤真里。もう一人は——黄金の長い髪をなびかせた、上質な漆黒のコートを纏う女性、ルディア・ロンディニウムだった。
「——ッ」
零の全身が、瞬時に緊張で強張った。
湯呑みを持つ手が、僅かに震える。
(——ルディア……! やっぱり、ここ、あいつのアジトだったのか……!)
「あ、ルディア様! 真里お姉ちゃん! お兄さん、もう目を覚ましましたよ!」
「あら、それはよかったわ」
ルディアが、ゆっくりとベッドに歩み寄ってくる。
その優雅な足取りと、どこか慈愛に満ちた微笑みは、京都で対峙した時と変わらない。しかし、あの時とは違い、今の零は正体を隠したまま、彼女の目の前に無防備な状態で座らされていた。
「お加減はいかが? 三神くん」
「……あ、はい。え、っと……」
名前を呼ばれたことに、零の心臓がさらに跳ねる。
彼女は、京都での短い邂逅の際に聞いた自分の名前を、しっかりと覚えていたらしい。
「体は、まだ痛みますよね。無理はしないで、ゆっくり休んでちょうだい」
「……あの、その、ここは一体……俺、なんでここに……」
「工業地帯の外れで、あなたが倒れているのを見つけたの。……深い傷を負っていたわ。今夜の魔獣の氾濫に、巻き込まれてしまったのでしょう?」
ルディアの言葉には、疑う様子は微塵も感じられなかった。
零は内心で、必死に平静を装いながら、頭をフル回転させる。
(——よし、まだバレてない。このまま『巻き込まれた一般人』として押し通せば……!)
「そう、なんです……。急に地面から魔獣が湧いてきて……気づいたら、こんな怪我を……」
零は、なるべく自然に見えるよう、しどろもどろにそう説明した。
あながち嘘ではない。ただし、その魔獣を叩きのめしていたのが自分自身であるという部分だけは、当然伏せている。
「そう……大変な思いをしたのね。この規模の魔獣被害、一般市民に及ぶのは、私たちとしても看過できないことだわ」
ルディアが、静かに眉を曇らせる。
「須藤、彼にも治療に使った分の薬草代を、教団の経費として計上しておいて頂戴」
「かしこまりました、ルディア様」
須藤真里が、恭しく一礼する。
ごく普通の会話のように進んでいくやり取りに、零は内心で盛大に安堵しながらも、同時に強烈な違和感と罪悪感を抱かずにはいられなかった。
(——この人たち、俺のこと、本気で心配してくれてるんだよな……。それも、俺自身がボコボコにした本人たちが……)
「三神くん。傷が完全に癒えるまで、しばらくはこちらで休んでいって構わないわ。……ご家族には、連絡が必要かしら?」
「あ、いや、それは……大丈夫です! 自分で連絡します!」
零は慌てて首を振った。
万が一、母や姉妹にこの状況が知られたら、それこそ大惨事だ。カルト組織のアジトで療養しているなどと知られれば、家族全員が卒倒しかねない。
「そう? 無理はしないでね」
ルディアは、穏やかにそう言うと、零の頭を、まるで幼い子供にするように優しく撫でた。
「——ッ」
突然の接触に、零は思わず身を固くする。
双子たちは「あ、ルディア様のお気に入りモードだ」とニヤニヤと顔を見合わせ、須藤真里も微笑ましそうにその光景を見守っていた。
(——なんだこの状況ォォォ! テロリストの親玉に頭撫でられてる状況って、一体どういうこと!?)
零の内心は、完全なるパニックに陥っていた。
正体を知られていないという安堵と、この異様な状況への戸惑いが、複雑に絡み合う。
教団のアジトという敵地のど真ん中で、当の敵幹部たちに手厚く介抱されるという、なんとも皮肉な事態。
三神零の受難の夜は、まだ終わりを見せそうになかった。




