第百十四話
工業地帯の外れ。人気の少ない裏路地を、一人の女性がゆっくりと歩いていた。
黄金の長い髪を夜風になびかせ、上質な漆黒のコートを纏ったその姿は、傍から見れば、ただの美しい夜歩きの女性にしか見えない。しかし、その正体は、カルト組織『福音の鐘』の絶対的指導者——ルディア・ロンディニウムであった。
「……まったく。まさか本当に、大規模な魔獣の氾濫が起きるとはね」
ルディアは、遠くに響き続けるサイレンの音に耳を傾けながら、微かに口元を歪めた。
彼女自身、この夜の異変については、ある程度の予測を立てていた。地脈の魔力濃度の上昇は、教団の観測網でも捉えていたところだ。しかし、想定以上のスピードでの進行に、内心では驚きを隠せずにいた。
「これも、『神』を迎えるための、序章に過ぎないというのなら……」
恍惚とした呟きを漏らしながら、ルディアは工業地帯の路地を進んでいく。
本来であれば、こんな場所に足を運ぶ用事などない。しかし、教団の下部組織が管理する隠れ家の一つが、この近辺に存在しており、その定期的な視察のために、彼女は今夜、この地を訪れていたのだった。
「——ん?」
ふと、路地の先、小さな町工場の壁際に、何かが倒れているのが目に入った。
ルディアは訝しみながら、静かにそちらへと歩み寄る。
「……子供……?」
街灯の乏しい薄暗がりの中、そこにいたのは、制服らしき私服姿の少年だった。
全身のあちこちに、まるで何かに切り裂かれたような傷跡があり、纏っている服も所々破れ、血に汚れている。壁にもたれかかったまま、ぐったりと意識を失っているようだった。
「これは……」
ルディアは眉をひそめ、少年の傍らにしゃがみ込んだ。
顔を覗き込んだ瞬間、彼女の瞳が僅かに見開かれる。
「……あら。あなた、あの時の……」
京都の足湯の休憩所で出会った、あの不思議な男子高校生。
特に何をするでもなく、ただ隣に座っていただけの、奇妙なほどに心を落ち着かせる気配を持った少年だった。まさか、こんな場所で、こんな状態で再会するとは思ってもみなかった。
「三神……そう、三神くん、といったかしら。……これは、一体どういうことなの」
ルディアは少年——三神零の首筋にそっと指を当てた。
脈は、弱いながらも確かに感じられる。呼吸も浅いが、途絶えてはいない。命に別状はなさそうだが、放置すれば危険な状態であることは、彼女の目にも明らかだった。
「……この規模の魔獣氾濫の最中、こんな場所に一人で倒れているなんて。巻き込まれたのね、可哀想に」
ルディアの脳裏には、微塵も『この少年こそがゴーストである』という発想は浮かんでいなかった。
変身が解けた零の姿は、彼女が知る『漆黒のドレスを纏う黒髪の少女』とは、あまりにもかけ離れている。目の前で気を失っている、ただの一般の男子高校生。その事実だけが、彼女の認識の全てだった。
「このまま放っておくわけにはいかないわね。……近くに、私の同胞の隠れ家がある。そこで手当てをしましょう」
ルディアは零の体を、細腕からは想像もつかないほどの力で軽々と抱き上げると、静かにその場を後にした。
路地裏から少し離れた雑居ビルの地下。
一見すると廃業した倉庫にしか見えないその場所は、福音の鐘の下部組織が拠点として使用している隠れ家の一つだった。
「ルディア様……!? その方は……!」
入り口で番をしていた信徒の一人が、ルディアの抱える少年の姿を見て、驚愕の声を上げた。
「詳しいことはいいから、すぐに応急処置の準備を。……宮子は、いるかしら」
「は、はい! 高級幹部の宮子様なら、奥の治療室に!」
ルディアは案内された部屋の奥へと進み、簡素なベッドの上に、そっと零の体を横たえた。
「——ルディア様? こんな時間に何のご用……って、え、ちょっと! 誰なんですかその子!?」
治療室で薬品の整理をしていた、教団高級幹部にして治癒魔法の使い手・堀宮子が、驚いた様子で駆け寄ってくる。
その声を聞きつけ、廊下の奥からも幹部たちが次々と顔を出した。
「宮子ちゃん、どうしたの騒がしい——って、うわぁ、本当に男の子連れてきてる!」
「……ルディア様が、誘拐?」
「リリア、人聞きの悪いこと言わないの! でも、確かにびっくりだね、これ!」
高級幹部の須藤真里、そしてその護衛を務める双子のルカとリリアが、次々と治療室に姿を現した。
三人とも、ルディアが唐突に見知らぬ少年を担ぎ込んできたという異様な光景に、揃って目を丸くしている。
「そんなことより、堀宮子。この子を今すぐ治療してちょうだい。かなり深い傷を負っているわ」
「い、いや、それはいいですけど……なんでルディア様がこんな一般人らしき男の子を抱えて帰ってくるんですか!? しかも制服みたいなの着てますよ!?」
「工業地帯の外れで、倒れているのを見つけたの。……おそらく、今夜の魔獣の氾濫に巻き込まれたのでしょう」
「一般人が!? こんな中心部から離れた工業地帯まで来て、魔獣に襲われたって……そんな偶然あります!?」
宮子の言葉はもっともだったが、ルディアは特に気にする様子もなく、静かに零の様子を見守っていた。
「理由はどうあれ、目の前で傷ついている人を放っておくわけにはいかないでしょう。……早く、お願い」
「わ、分かりましたよ……! まったく、ルディア様は時々突拍子もないことをするんだから」
宮子はぶつぶつと文句を言いながらも、手早く治癒魔法の準備を始めた。
真里、ルカ、リリアも困惑を隠せない様子ながら、それ以上騒ぎ立てることはせず、静かに治療の様子を見守ることにしたようだった。
両手に淡い緑色の光を纏わせ、宮子は零の全身の傷へと丁寧に治癒魔法をかけていく。
「……うわ、思ったよりも傷、深いですね。これ、絶対にただの魔獣の巻き添えってレベルじゃないような……なんか、戦った跡っぽい傷の付き方してます」
宮子が、零の脇腹や腕に残る、鋭利な切り傷や刺し傷を見ながら首を傾げる。
「戦った……?」
「はい。逃げ惑ってるだけの一般人が負う傷って、もっとこう、擦り傷とか打撲が多いはずなんですけど……この傷、なんというか、明確に『何かと斬り結んだ』ような跡なんですよね」
宮子の指摘に、ルディアはわずかに眉をひそめた。
しかし、それ以上深く考えを巡らせる前に、宮子が治療の手を再び動かし始めたため、その疑問は一旦、意識の外へと押しやられた。
「……まあ、詳しい事情は、この子が目を覚ましてから聞けばいいわ。今は、命を救うことが先決よ」
「そうですね。……よし、まずは深い傷から優先的に塞いでいきます」
治療室に、静かな緊張感が満ちる。
下級信徒たちは、突然運び込まれた謎の一般人らしき少年に困惑しながらも、ルディアの指示に従って湯や清潔な布などを次々と運び込んでいた。
「あの……ルディア様。この子、本当にただの一般人なんでしょうか。……なんというか、妙に落ち着く空気を纏ってますよね。ルディア様が言ってた、あの『神』の御前にいる時みたいな」
一人の信徒が、おずおずとそう口にする。
その言葉に、ルディアの瞳が、僅かに反応した。
「……ええ、そうね。私も、初めて彼と出会った時から、同じことを感じていたわ」
ルディアは、ベッドに横たわる零の穏やかな寝顔を見つめながら、静かに呟いた。
「まるで、あの方の御傍にいる時のような……不思議な安らぎ」
その言葉に、治療にあたっていた堀宮子も、そして周囲の信徒たちも、思わず顔を見合わせた。
誰一人として、目の前で治療を受けているこの少年こそが、自分たちが崇める『神』——ゴーストその人であるとは、微塵も気づいていなかった。
「……治療、一通り終わりました。目立った外傷は塞ぎましたけど、体力と魔力……というか、生命力そのものの消耗が激しいみたいで。しばらくは、目を覚まさないと思います」
宮子が額の汗を拭いながら、治療の完了を報告する。
「そう。……ありがとう、宮子」
「いえ、それは別にいいんですけど……ルディア様、この子、これからどうするつもりなんですか? 目を覚ましたら、普通に驚いて大騒ぎになりません? ここ、一応秘密のアジトですし……」
宮子の懸念はもっともだった。
カルト組織の隠れ家で目を覚ました一般人が、平静でいられるはずがない。しかし、ルディアは特に慌てる様子もなく、穏やかな表情を浮かべていた。
「大丈夫よ。彼が目を覚ましたら、然るべき説明をして、安全な場所まで送り届けるわ。……それに」
ルディアは、寝台の傍らの椅子に静かに腰を下ろし、零の寝顔を見つめた。
「彼のような優しい気配を持つ人が、私たちを恐れて騒ぐような真似をするとは、なぜだか思えないの」
その言葉に、宮子は「そんなものですかね……」と首を傾げながらも、それ以上追及することはなかった。
工業地帯の片隅で始まった、思いも寄らぬ邂逅。
特S級の亡霊としての正体を知らぬまま、カルト組織の教祖が、その少年を優しく見守り続けている——この状況こそが、三神零にとって、また新たな『地雷』の始まりであることに、当の本人はまだ気づく由もなかった。
地下の隠れ家に、静かな夜が更けていく。
その間にも、東京の各地では、まだ魔獣との戦いが続いていた。




