第百十三話
「悪いけど、そう都合よくは、いかせないわよ」
ゴーストは大剣を構え直し、執事姿の男へと踏み込んだ。
闇の刃が唸りを上げ、真っ向から相手の胴を斬り裂こうとする。
——ガキンッ!
しかし、その一撃は、いつの間にか男の周囲に生い茂っていた無数の木の根によって、いとも容易く弾き返された。
「——なっ」
「おや、驚いた顔だね。……これでも僕は、君と互角以上にやり合えるだけの力を持ってるんだよ?」
男が優雅に指を鳴らすと、地面から次々と太い蔦と根が伸び上がり、鞭のようにしなりながらゴーストへと殺到する。
「くっ……!」
ゴーストは咄嗟に大剣で薙ぎ払うが、一本を斬り落とすそばから、また新たな根が生えてくる。まるで際限のない再生力を持つ、生きた要塞そのものだった。
——ズシャッ!
避けきれなかった一本の蔦が、ゴーストの左腕を裂いた。
「——ッ、あぁ……!」
鋭い痛みに顔を歪めながらも、ゴーストは即座に傷口へと闇の魔力を集中させる。
掌からじわりと滲み出た闇の粒子が、裂けた傷を包み込み、僅かに疼く痛みだけを残して止血していく。
(これで、まだ動ける……!)
しかし、休む間もなく、男の追撃が続いた。
「はは、いい判断だ。……だが、それも長くは続かないよ。回復にだって、無尽蔵の魔力があるわけじゃないだろう?」
男の言葉通り、傷を癒やすたびに、ゴーストの中に残された魔力は着実に目減りしていく。
これまでの戦いでは、常に相手を圧倒し、一方的に叩き潰すことができた。しかし今、目の前の敵は、力でも技でも、明確にゴーストを上回りつつあった。
(——これが、力負けってやつか)
生まれて初めて味わう感覚に、ゴーストの背筋を冷たいものが走る。
男の操る根と蔦は、まるで意志を持つ生き物のように、絶え間なくゴーストを翻弄し続けた。
右肩を掠め、太腿を切り裂き、そのたびにゴーストは大剣を振るいながら、隙を見て闇の魔力で傷を塞ぐ。しかし、治す速度よりも、傷を負う速度の方が、明らかに上回っていた。
「——ハアッ!」
ゴーストが大剣を横薙ぎに振るい、伸びてきた太い根の一本を両断する。
しかし、その瞬間、背後から別の根が這い上がり、彼女の脇腹に再び深々と突き刺さった。
「——ぐぅッ……!」
視界が、一瞬白く霞む。
崩れ落ちそうになる体を、大剣を地面に突き立てることで、なんとか支えた。
「随分と、粘るね。……だが、そろそろ限界じゃないかな?」
男は愉悦に満ちた笑みを浮かべながら、ゆっくりと距離を詰めてくる。
ゴーストは荒い息を吐きながら、震える手を再び傷口へとかざした。
(——魔力が、もう……ほとんど残ってない)
わずかに残った闇の魔力を絞り出し、致命傷になりかねない脇腹の傷だけを、最低限塞ぐ。
完全な治癒には程遠い。それでも、これ以上血を流し続ければ、意識を保っていること自体が難しくなる。
(このままじゃ、ジリ貧だ……。次の一撃に、全部賭けるしかない)
ゴーストは残された力を全て、大剣の刃へと集中させ始めた。
闇の魔力が、刀身に沿ってどす黒く渦を巻く。これまでの戦いでは決して使うことのなかった、限界ギリギリまで魔力を凝縮させた、まさに一撃必殺の構えだった。
「——なんだい、その顔。まだやる気かい? その体で?」
男が、面白がるように首を傾げる。
「……ええ。まだ、終わってないもの」
ゴーストは、震える足に力を込め、地面を蹴った。
男の周囲に、再び無数の根と蔦が波のように立ち上がる。
絶望的な物量。まともにぶつかれば、確実に押し潰される密度だ。
しかし、ゴーストは避けることを選ばなかった。
迫りくる根の壁に向かって、真っ直ぐに、最短距離で突っ込んでいく。
「——ッ、避けないのかい!?」
男が、初めて驚愕の声を上げた。
太い根の群れが、ゴーストの体を容赦なく打ち据える。肩が、腕が、脇腹が、次々と裂けていく。それでも、ゴーストは止まらなかった。
全身から血を滲ませながら、渾身の力で地を蹴り、男との間合いを一気に詰める。
「——ここまで、よ……ッ!」
闇の魔力を極限まで凝縮させた大剣が、男の胸元へと吸い込まれていく。
男は咄嗟に身を捻り、致命傷を避けようとしたが、わずかに間に合わなかった。
——ズドンッ!!
大剣の切っ先が、男の左胸を深々と貫いた。
「——なッ……こんな、無茶な……!」
男の顔から、余裕の笑みが消え失せる。
その体が、まるで枯れ木のようにひび割れ、黒い粒子となって崩れ始めた。
「バカな……こんな、力任せの一撃で……僕が……ここは引くとしよう」
最後まで信じられないという表情を浮かべたまま、男の姿は完全に霧散し、後には静寂だけが残された。
「……はぁ、はぁ……」
ゴーストは、大剣を地面に突き立てたまま、荒い呼吸を繰り返していた。
全身のあちこちから、じわじわと血が滲んでいる。先ほどまで応急的に塞いでいた傷も、渾身の一撃を放った反動で、いくつか再び開いてしまっていた。
(——治さないと……)
残った僅かな魔力を掌に集めようとするが、思うように力が入らない。
これまで幾度となく戦場を駆け抜けてきたが、これほどまでに魔力を使い果たした経験はなかった。
それでも、なんとか意識を保ちながら、最後の力を振り絞って傷口へと魔力を送り込む。
パチッ、パチッと小さな音を立てて、闇の粒子が全身の傷を一つ、また一つと塞いでいく。致命的な出血は、なんとか全て止めることができた。
「……よし……」
ゴーストは、掠れた声でそう呟いた。
しかし、傷こそ塞がったものの、体の奥から込み上げてくる、これまで経験したことのないほどの深い疲労感は、どうすることもできなかった。
膝が、震える。
視界が、ゆっくりと暗くなっていく。
「——あ……」
ゴーストは、崩れ落ちるようにして、近くの町工場の壁へと背中を預けた。
立っているだけの力すら、もう残っていない。
ズルズルと、壁を伝うようにその場に座り込む。大剣は、力なく地面に転がった。
(……立てない……)
自分でも信じられないほどの、体の重さだった。
これまで、どんな激戦の後でも、最低限自力で立ち上がることだけはできていた。しかし今、その当たり前のことすら、体が拒否している。
「……こんな時に、限って……」
ゴーストは、壁に背を預けたまま、力なく空を見上げた。
工業地帯の夜空には、相変わらず遠くのサイレンの音が響き続けている。まだ、他の発生地点でも戦いが続いているはずだ。
助けに行かなければ。そう思う気持ちとは裏腹に、体は指先一つ動かすことすら億劫なほどに、深く沈み込んでいた。
「……ちょっとだけ……このまま……」
閉じかけた瞼の向こうで、ゴーストの意識は、次第に薄れていった。
これまで誰よりも強く、誰よりも孤高に戦い続けてきた特S級の亡霊が、初めて味わう、どうすることもできない『限界』。
工業地帯の片隅、冷たいコンクリートの壁にもたれかかったまま、彼女はそれ以上動くことができなかった。




