第百十話
「——七箇所……いや、それ以上に、東京だけじゃなく関東全域で……」
ゴーストは自分の呟きを反芻しながら、崩れた公園の景色を見渡していた。
全身の魔力はまだ枯渇していない。しかし、絶え間ない戦闘と連続した瞬間移動、そして子供を救い出す際の集中力の消耗が、ボディブローのように確実に体力を削り取っていた。
「ゴースト……?」
緋雪が、怪訝そうにこちらを見つめている。
ゴーストは「大丈夫」と口を開こうとした。しかし、そう答えようとした瞬間——足元が、ぐらりと揺れた。
(——あれ?)
視界が、僅かに白く霞む。
地面が近づいてくる感覚。膝から力が抜けていくのを、自分でもどうすることもできなかった。
「——ッ、ゴースト!?」
緋雪の悲鳴のような声が、遠くで聞こえた気がした。
しかし、崩れ落ちるはずだったゴーストの体は、地面に叩きつけられる寸前で、誰かの腕にしっかりと受け止められていた。
「——大丈夫ですか! しっかりしてください!」
聞き覚えのある、しかし今はいつもの飄々とした余裕を欠いた、切迫した声。
ゴーストが薄目を開けると、そこには杖を放り出し、両腕でこちらを支える新実由鶴の姿があった。まだ全快とは程遠い、松葉杖なしでは本来歩けないはずの彼女が、痛みに顔を歪めながらも必死に体を支えている。
「……あなた、なんで、ここに……」
「情報班として、現場の状況確認は当然の職務です。……それより、あなたの方こそ何をしているんですか。魔力反応は健在ですが、明らかに体力の限界を超えています。今すぐ休んでください」
由鶴の声には、いつものような研究者としての好奇心の色は薄く、ただ純粋な焦りだけが滲んでいた。
「ゴースト! 大丈夫!?」
「無茶をしすぎです、あなた……!」
新堂鈴乃と弓飛鳥も、慌てて駆け寄ってくる。
鈴乃は炎の魔力で応急的に周囲を温めながら状態を確認し、飛鳥はゴーストの手首を取って脈を測ろうとしていた。
「ゴースト、しっかりして! 顔色、真っ青よ!」
緋雪も駆け寄り、由鶴と反対側からゴーストの体を支える。
この状況では、普段は犬猿の仲であるはずの緋雪と由鶴が、奇妙な連携で一人の少女を支える構図になっていた。
「……さすがに、ちょっと、無理しすぎたみたいね」
ゴーストは荒い息の合間に、そう呟いた。
周囲に人がいる状況では、なるべく口数を減らして正体の手がかりを与えないようにするのが、いつもの零の流儀だった。だが、今はそんな余裕すらない。
「大丈夫、無理に喋らなくていいわ。……由鶴、あなたも療養中の身でしょう! なんでこんな無茶を!」
「緋雪、私よりも、ゴーストです。……それに」
由鶴は、ゴーストを支えたまま、小さく呟いた。
「彼女が、これほどまでに消耗するところを初めて見ました。……ずっと、規格外の力を持つ存在だと思っていましたが……当たり前ですが、彼女にも限界はあるのですね」
その声には、研究者としての観察眼と同時に、確かな心配の色が滲んでいた。
少し離れた場所では、真奈が周囲の被害状況を見渡しながら、感嘆の声を上げていた。
「うわあ……おお! これは壮観だね! 公園まるごと更地になっちゃったみたいなもんだね!」
「真奈……不謹慎よ、その言い方」
飛鳥が呆れたように窘めるが、真奈は気にせず地面に開いた無数の穴を覗き込んでいる。
「だってさ、飛鳥さん! 一人でこの数を相手にしてたなんて、ゴーストってやっぱりバケモノ級だね! 私だったら三体目くらいでギブアップしてるよ、絶対!」
「不謹慎かもしれないけど……真奈の言う通り、これは異常事態だわ。しかも、この規模がすでに関東全域に広がっているとなると……」
飛鳥がタブレットで避難誘導の状況を確認しながら、表情を険しくした。
「避難させた住民の数、この公園だけで四十三人だね! みんな無事で本当によかった!」
真奈が明るい声でそう報告しながらも、その目はどこか真剣だった。彼女なりに、事態の深刻さは十分に理解しているのだろう。
ゴーストは、緋雪と由鶴に両側から支えられながら、なんとか自分の足で立っていた。
完全に座り込んでしまえば、色々と厄介なことになる。せめて意識だけは、しっかりと保っておかなければならない。
「……そのタブレット、貸してもらえますか」
ゴーストが、由鶴の手にあるタブレット端末に視線を向けた。
「え? ですが、あなたは今——」
「貸してください。今、どこにどれだけの規模で発生してるのか、確認したいんです」
有無を言わせぬ声色に押され、由鶴は戸惑いながらもタブレットを手渡した。
ゴーストは震える指で画面をスワイプし、日本全国の地図に表示された無数の赤い光点を睨みつけた。
「……こんなに」
思わず、声が漏れた。
関東を中心に、赤いマーカーが数十箇所。さらに目を凝らせば、中部や関西の一部にも、ポツポツと同様の反応が表示され始めている。
「……これ、今もリアルタイムで増え続けてますよね」
「ええ。この十分間だけでも、新たに五箇所の発生が確認されています。……予測モデルでは、今夜だけで全国で百箇所を超える可能性があると」
由鶴の声は、努めて冷静さを保とうとしていたが、その語尾には隠しきれない緊張が滲んでいた。
「エース部隊は、私たちだけじゃ絶対に足りない……」
緋雪が、悔しそうに唇を噛んだ。
日本トップエースである彼女ですら、この規模の同時多発発生を前にしては、無力感を覚えずにはいられなかった。
「……あの」
ゴーストは、タブレットの画面から目を離さないまま、静かに口を開いた。
「今から、俺——私が、他の発生地点にも向かいます」
「なっ……! 正気ですか! あなたは今、まともに立っているだけでも限界の状態です!」
由鶴が、鋭い声でゴーストの腕を掴んだ。
「これ以上無理をすれば、下手をすれば命に関わります! あなたの体は、無限の資源ではないんですよ!」
「でも、このままじゃ……」
「ダメよ!!」
緋雪が、由鶴以上に強い口調で割って入った。
「あなた一人がどれだけ無理をしても、この規模の脅威は防ぎきれないわ」
緋雪はそう言い切ると、悔しさを噛み殺すように続けた。
「それに……あなただけが戦ってるわけじゃない。今、各県に配置されているエースやエース級の子たちも、それぞれの現場で必死に食い止めてる。埼玉支部の隊長も、千葉のエースも、神奈川のエース部隊も……みんな、今この瞬間、あなたと同じように魔獣の群れと戦ってるのよ」
「——なっ」
ゴーストが、僅かに目を見開いた。
自分一人がこの脅威の最前線にいるのだと、無意識のうちに思い込んでいた。しかし、この国の各地で、名前も知らない誰かが、同じように歯を食いしばって戦っているという事実が、不思議と重く、そして温かく胸に響いた。
「本部からの続報です」
由鶴が、震える指でタブレットの通信ログを開いた。
「関東各県のエース部隊、および登録済みのエース級魔法少女、合計二十七名が、それぞれの担当地域で交戦中とのことです。……幸い、現時点で殉職者の報告はありません。ですが、いずれの現場も、あなたが経験したのと同様の物量戦を強いられています」
ゴーストは、地図に点在する赤いマーカーの一つ一つに、見知らぬ誰かの奮闘があることを改めて実感し、小さく息を呑んだ。
これまで、常に自分一人の判断で、自分一人の力で全てを解決してきた。誰かと共に戦っているのだという実感も、誰かに止められる、誰かに心配される、という経験自体も、あまりにも久しぶりだった。
「……悪いけど、少しだけ、休ませてもらうわ」
ゴーストは、ようやくそう呟き、その場に静かに座り込んだ。
由鶴と緋雪が、安堵とも呆れともつかない表情で、深く息を吐き出す。
「……最初からそう言えばいいのよ、まったく」
「同感です。……ですが」
由鶴は、ゴーストの傍らに膝をつきながら、タブレットの画面を見つめ、表情を引き締めた。
「この様子だと、今夜だけの問題では済まないでしょう。……エース部隊の全国動員、そして各支部との緊急連携が必要になります。会長への報告を急がなくては」
夜の帳がすっかり下りた東京の空に、幾筋もの遠いサイレンの音が、途切れることなく響き続けていた。
平穏な日常を守り続けてきた特S級の亡霊にとって、これはまだ、長い戦いの始まりに過ぎなかった。




