第百八話
由鶴からの電話の翌日。
三神零は、いつもと変わらない顔で登校していた。少なくとも、表面上は。
「おーい零、聞いてるか? 次の数学のテスト範囲、三章の途中からだってよ」
「ん、ああ。悪い、聞いてなかった」
「珍しいな、お前がボーッとしてるなんて。……昨日、なんかあったのか?」
親友の狭間稔が、怪訝そうに顔を覗き込んでくる。
零は「いや、別に」と誤魔化しながら、窓の外に目をやった。
澄み渡った秋の空。特に変わったところはない、平凡な平日の風景だ。しかし、昨夜の由鶴の声色が、まだ耳の奥にこびりついて離れなかった。
(『対象範囲に入っている可能性がある』、か……)
昼休み。零は弁当を片手に、一人で屋上へと続く階段の踊り場に腰を下ろしていた。
スマートフォンを取り出し、由鶴に送るはずだった座標のメッセージを打ちかけて、ふと手を止める。
「……いや、待てよ。俺が『気にしすぎだ』とか思ってる場合か」
自分の身に危険が及ぶかもしれない話ではあるが、それ以上に零の頭にあったのは、母や姉妹、そして家の周りの近隣住民の安全だった。もしスタンピードが本当に起きるなら、真っ先に守らなければならないのは家族だ。
「……由鶴さんに、家の周辺の座標、送っとくか」
零は淡々とメッセージを打ち込み、送信した。
すぐに既読がつき、返信が来る。
『了解しました。周辺地域の警戒レベルを引き上げます。……三神くん、念のため聞きますが、あなたのご家族には何か伝えていますか?』
『いや、まだ。変に心配させたくないんで』
『賢明な判断だと思います。過度に不安を煽るのは得策ではありません。……ただ、何かあれば私に一報を。夜間、あなたの周辺にエース部隊を巡回させる手配をしておきます』
零は少しだけ驚いた。
これまでの由鶴なら、この状況を「絶好の観察機会」として利用しようとするはずだった。しかし、今の彼女の対応は、あくまで一般市民への配慮に徹している。
(本当に、変わったな……いや、変わったんじゃなくて、こっちが今まで見てなかっただけか)
零はそんなことを思いながら、弁当を頬張った。
その日の夕方。
三神零は、いつも通りの帰り道を歩いていた。
最寄りの商店街を抜け、特売の卵を買い忘れないようにと、いつものスーパー『ヤオヨシ』に立ち寄る。
「よし、卵と豆腐、それから今日は白菜が安いな。……鍋にするか」
買い物カゴを持ってレジへと向かおうとした、その時だった。
——ズズン。
地面が、微かに揺れた。
いや、正確には『揺れた』のではない。地震とは明らかに違う、もっと粘着質な、大地そのものが軋むような不快な感覚だった。
「……ん?」
店内の客たちも、一様に「あれ?」「今の何?」と顔を見合わせている。だが、震度でいえば一にも満たないような、ごく僅かな揺れだったため、すぐに誰もが気にせず日常に戻っていった。
しかし、零だけは違った。
特S級の亡霊としての鋭敏な感覚が、全身の毛を逆立てるような『気配』を捉えていた。
(……これは、地震じゃない。魔力の波動だ。しかも、今までのどの魔獣とも違う……)
零は買い物カゴを静かに棚に戻し、レジへの列を離れて店の外へと出た。
夕暮れの商店街。人々は普段通りに行き交っている。だが、その頭上を見上げると。
「……嘘だろ」
西の空に、うっすらとした紫色の靄が漂っているのが見えた。
肉眼で捉えられるかどうかというレベルの、ごく薄いものだ。一般人には決して気づけないだろう。だが零の目には、それがはっきりと『魔力の澱み』として映っていた。
ポケットの中でスマートフォンが振動する。由鶴からのメッセージだった。
『三神くん。今、感じませんでしたか。地脈の微振動です。……都内三箇所で同時に観測されました。予測より、明らかに早い』
『さっき、俺のいるスーパーでも揺れがありました。あと、西の空に変な靄が見えます』
既読の後、すぐに返信が来た。
『——それは、スタンピードの直接的な前兆現象です。魔力濃度の局所的な飽和が、目視可能なレベルにまで達している証拠。……いいですか三神くん、絶対に近づかないでください。今すぐ帰宅を』
零はスマートフォンを握りしめたまま、家路とは反対の方向、靄の見える方角へと視線を向けた。
そちらには、確か小学校と児童公園がある。
(……この時間、公園には小さい子供たちがまだ残ってる時間帯だ)
零の中で、主夫としての『日常を守りたい』という思いと、特S級の亡霊としての『市民を守らなければ』という使命感が、静かに、しかし確実に燃え上がった。
「悪い、由鶴さん。ちょっと寄り道してから帰る」
『——三神くん! 待ちなさい、危険です!』
由鶴の返信を最後まで読まないまま、零はスマートフォンをポケットに突っ込み、公園のある方角へと走り出した。
夕焼けに染まる街並みを駆け抜けながら、零の脳裏に一つの覚悟が固まっていく。
(もし本当にスタンピードの前触れなら……今夜、俺は変身することになる)
児童公園。
夕方の遊具には、まだ数人の親子連れの姿があった。
零が到着した時、公園の中央にある大きな欅の木の下に、異様な光景が広がっていた。
「うわあああっ! な、なんだこれ!?」
木の根元の地面が、ボコボコと不気味に隆起している。土がまるで生き物のように蠢き、その中心から、黒く濁った靄がゆっくりと立ち上り始めていた。
「お母さん、あれ何……?」
小さな子供を抱きかかえた母親が、青ざめた顔で後ずさっている。
「みなさん、離れてください! 早く公園から出て!」
零は咄嗟に声を張り上げた。ただの高校生の声だが、その場の異様な緊迫感に押されるように、公園にいた親子連れたちは我先にと出口へと駆け出していく。
人が完全にいなくなったのを確認し、零は木の陰に身を隠した。
地面の隆起が、さらに激しさを増す。
ズズズ、ズズ……という不快な音と共に、土の中から何かが這い出てこようとしていた。
(……こいつは、今までの魔獣とは何かが違う)
零のこれまでの戦闘経験は膨大だ。特A級のヒドラも、Sランクのカルト教祖も、彼にとっては瞬殺できる相手だった。
しかし、目の前で生まれつつある『何か』からは、単体の魔獣とは異なる、もっと根源的で、大地そのものが病んでいるかのような不吉な気配が漂っていた。
「……仕方ない」
零は公園の隅、街灯の陰に完全に身を隠し、静かに囁いた。
「——変身」
その一言と共に、彼の輪郭が闇に溶けるように揺らぎ、次の瞬間には漆黒のドレスを纏った少女——『ゴースト』の姿がそこに立っていた。
ズオンッ!!
地面の隆起が弾け、そこから姿を現したのは、体長三メートルはあろうかという、全身が土と根で構成された異形の巨躯だった。目に当たる部分には、赤黒い光が二つ、爛々と灯っている。
「……見たことのないタイプね」
ゴーストは冷静に呟きながら、大剣を虚空から引き抜いた。
この個体一体だけならば、造作もなく討伐できるだろう。だが、問題はその先にある。
(これが、本当に『前兆』なら……この程度の個体が、これから全国で無数に湧いて出るってことか)
ゴーストの背筋に、これまでの戦いでは感じたことのなかった、静かな緊張が走った。
目の前の敵はまだ弱い。だが、その先に控えているであろう『大量発生』という現象そのものが、初めて彼女にとっての真の脅威として立ちはだかろうとしていた。
「……悪いけど、私には守らなきゃいけない夕飯の予定があるの。手早く終わらせるわよ」
軽口を叩きながらも、ゴーストの瞳には、これまでにない真剣な光が宿っていた。
闇の魔力を纏った大剣が、夕闇の中で不気味な光を放つ。
平穏だった日常に、初めての本格的な綻びが生じた瞬間だった。
同時刻。魔法少女協会本部、会長室。
「——会長! 都内三箇所で同時に地脈の異常振動を観測! うち一箇所、児童公園にて魔獣の実体化を確認しました!」
部下の報告に、姫嶋結衣は椅子から立ち上がった。
「なんですって……もう始まったの!? 麗香、エース部隊への緊急招集を!」
「すでに手配済みです、会長。ですが——」
湯野麗香が、タブレットに表示された現場の映像を見つめ、僅かに眉をひそめた。
「現場に、すでに何者かが到着しているようです。……この魔力反応は」
「まさか」
結衣と麗香の視線が、モニターに映る一つの黒い影に釘付けになる。
人類の想定を超えた脅威の始まりと、それに真っ先に立ち向かう規格外の守護者。
三神零の知らないところで、大きな歯車が、確かに回り始めていた。




