第百七話
水族館デートから三日後の、放課後。 三神零は自室の学習机で、数学の問題集とにらめっこをしていた。窓の外は茜色に染まりつつあり、そろそろ夕飯の下ごしらえを始めなければならない時間だ。
「……今日は肉じゃがにするか。じゃがいもが安かったし」
シャーペンを置き、伸びをしながら窓の外に目をやる。 三神家の裏には小さな雑木林があり、いつもならカラスが騒がしく鳴きながらねぐらへと帰っていく時間帯だった。
「……あれ?」
零はふと違和感を覚えて眉をひそめた。 いつもの喧しい鳴き声が、今日に限って一切聞こえない。木々を見上げても、黒い影は一羽も見当たらなかった。
「気のせいか……いや」
特S級の亡霊としての勘が、微かな警戒信号を発している。 魔獣を相手にしてきた経験上、動物が一斉に姿を消す時は、大抵ロクなことが起きていない。地脈の乱れ、あるいは強大な魔力の気配を、彼らは人間よりずっと早く察知する。
「……気にしすぎだよな。最近、色々ありすぎて神経過敏になってるだけだ」
零は自分に言い聞かせるように呟き、机に向き直った。 しかし、シャーペンを握る手は、なぜかしばらく問題集の上で止まったままだった。
同じ頃。魔法少女協会日本支部本部、情報班のオフィス。
「……おかしい」
新実由鶴は、松葉杖を壁に立てかけたまま、車椅子に座って大量のモニターに囲まれていた。全身打撲の療養はまだ完全に明けていないが、彼女は病室のベッドではなく職務に戻っていた。
「新実少佐、まだ復帰は早いのでは……」
部下の一人がおずおずと声をかけるが、由鶴は画面から目を離さない。
「休んでいる場合ではありません。……見てください、これを」
由鶴が示したのは、日本全国の地脈魔力濃度をリアルタイムで表示するマップだった。数週間前から徐々に赤く染まりつつあったそれが、ここ数日でさらに急激な変化を見せていた。
「魔力濃度の上昇速度が、当初の予測モデルを二十三パーセントも上回っています。……何かが、想定より早く動いている」
「福音の鐘の影響でしょうか」
「それだけでは説明がつきません。ジャマーによる地脈汚染は局所的なはずです。これは、もっと広範囲かつ根本的な……まるで、大地そのものが『何か』に呼応しているような数値です」
由鶴は眼鏡の奥の瞳を細め、タブレットを操作して過去のデータと重ね合わせた。
「……もう一つ、気になるデータがあります。都内各所の野生動物の異常行動報告が、この一週間で通常の十七倍に急増している」
「野生動物、ですか?」
「カラス、野良猫、公園の鯉。いずれも、普段の生息域から一斉に姿を消しているという報告です。動物は、人間よりも先に『歪み』を感知する。……これは、スタンピードの前兆として、過去の文献にも記録されているパターンと酷似しています」
由鶴は車椅子の上で、痛む肋骨を押さえながらも、鋭い眼光で画面を睨み続けた。
「予測より、早い。……このままでは、会長が想定していた『数週間以内』という猶予すらないかもしれません」
◆
その夜。三神家の食卓に肉じゃがが並んでいた頃。 零のスマートフォンに、見慣れない番号から一本の着信が入った。
「……ん? 知らない番号だな」
訝しみながらも、零は廊下に出て通話に応じた。
「もしもし」
「——三神くん。夜分に失礼します。新実です」
由鶴の声だった。しかし、いつものからかうような、あるいは執着じみた調子は、そこにはなかった。妙に静かで、真剣な声色だ。
「……由鶴さん? どうしたんですか、こんな時間に」
「単刀直入に言います。ここ最近、身の回りで何か『違和感』を覚えたことはありませんか。例えば……普段いるはずの生き物が急にいなくなった、とか」
零の心臓が、小さく跳ねた。夕方見た、カラスのいない雑木林。
「……なんで、それを」
「やはり。……三神くん、これはあなたを検体として扱おうとしているわけではありません。個人的な忠告です」
由鶴の声のトーンは、いつもの好奇心に満ちたものではなく、どこか焦りと緊張を滲ませていた。
「近日中に、過去十年で最大規模の魔獣の大量発生——スタンピードが起きる可能性が極めて高いと、協会は分析しています。しかも、当初の予測より事態の進行が早まっている。……一般人であるあなたは、決して一人で夜間の外出はしないでください。特に、川沿いや公園、緑地の近くは危険です」
「……」
零は無言で、由鶴の言葉を聞いていた。 その口調には、いつものような執拗な探求心の匂いはなく、ただ純粋な、危機に対する警告だけがあった。
「あなたの特異体質については、正直まだ興味は尽きません。ですが……この件に関しては、私は情報班の一員として、市民であるあなたの安全を最優先にお伝えしています。今、あなたの周りにも、何か異変の兆しがあるなら、些細なことでも構いません。私に、教えてもらえませんか」
「……本当に、俺の身体が目的じゃないんですか」
「今この瞬間だけは、違います。三神くん。……あなたに何かあれば、緋雪は絶対に自分を許さないでしょうから」
電話の向こうで、由鶴が小さく息を吐く気配がした。
「……分かりました。実は、夕方から近所のカラスが一羽も見当たらなくて」
「——やはり」
由鶴の声が、緊張を帯びた。
「三神くん。あなたの家の近辺も、対象範囲に入っている可能性があります。詳しい座標を、後ほど送ってもらえますか。……くれぐれも、油断はしないように」
「分かりました。……由鶴さん、あなた、いつもと違いますね」
「フフッ……何を今更。私だって、市民を守るために働いているんですよ。……ただ、平時はその合間に、少しばかり趣味の研究を挟んでいるだけです」
いつもの調子を少しだけ取り戻しつつも、由鶴はそう言って通話を切った。
零はスマートフォンを握りしめたまま、しばらく廊下に立ち尽くしていた。 由鶴の言葉に嘘は感じられなかった。彼女は、確かに『何か』を本気で恐れている。
「……肉じゃが、冷めるな」
零はポツリと呟き、リビングへと戻った。 しかし、その足取りはいつもより少しだけ、重かった。 平穏な日常の裏側で、静かに、しかし確実に、何か大きなものが動き始めていた。




