第百六話
空を茜色に染める夕日が、ビル群の隙間から長く伸びる影を落としていた。
水族館での波乱に満ちた休日を終え、三神零は羽衣緋雪を彼女の自宅があるマンションの近くまで送っていた。
「今日は本当にありがとう、三神くん。家まで送ってもらっちゃって……ごめんなさいね、私の方が年上なのに」
「いえ、暗くなってきましたし、女の子を一人で帰すわけにはいきませんから。それに、帰りの方向も途中まで一緒でしたしね」
閑静な住宅街に建つ、セキュリティのしっかりした高級マンションの前。
少し冷たくなってきた秋の夕風に銀髪を揺らしながら、緋雪は名残惜しそうに零を見上げた。手には、水族館のギフトショップで零が「お土産に」と何気なく買って渡した、小さなクラゲのキーホルダーが握られている。
「……あのね、三神くん」
「はい?」
「今日、色々と変な人たちに絡まれちゃったけど……私、すごく楽しかった。三神くんが作ってくれたお弁当、本当に、世界で一番美味しかったわ」
緋雪は頬を夕日と同じくらい赤く染め、満面の笑みを浮かべた。
氷の女王としての凛々しさはどこへやら、そこにあるのは、好きな人とのデートを心の底から楽しんだ、一人の等身大の少女の顔だった。
「それはよかったです。朝早くから仕込んだ甲斐がありました。また機会があれば、今度はもっと気合を入れたメニューを作りますよ」
「本当!? 約束よ! 私、ずっと楽しみにしてるから!」
緋雪の瞳がパァァッと輝く。
(しまった、サービス精神でつい次の約束みたいなことを言ってしまった)と零は内心で少し焦ったが、彼女の嬉しそうな顔を見ていると、「まあ、いっか」と自然に思えた。
「じゃあ、気をつけて帰ってね。お弁当箱、洗って返そうかと思ったんだけど……」
「ああ、気にしないでください。どうせ家に帰ってから他の洗い物と一緒に食洗機に突っ込むんで。それじゃあ、おやすみなさい、羽衣さん」
「うん! おやすみなさい、三神くん!」
緋雪がマンションのエントランスに消えていくのを最後まで見届け、零は踵を返した。
空になった保冷バッグは、朝のずっしりとした重みが嘘のように軽い。
最寄りの駅へと向かって歩き出しながら、零は小さく息を吐いた。
「ただいまー」
「あ、お兄ちゃんおかえり! 水族館どうだった!?」
「おかえりなさい、零。緋雪ちゃんとのお出かけ、楽しかった?」
三神家に帰り着き、玄関のドアを開けると、妹の玲奈と母の奈々美がリビングから顔を出した。二人とも、零と緋雪の進展に興味津々といった様子でニヤニヤと笑っている。
「ただの息抜きだよ。水族館自体は面白かったし、弁当も好評だった。……夕飯、どうする? 俺が何か作ろうか」
「ううん、今日は零は疲れてるだろうから、私がおでんを作っておいたわよ。もう大根もしみしみだから、着替えたら降りてらっしゃい」
「おっ、ありがたい。じゃあちょっと着替えてくる」
母の気遣いに感謝しつつ、零は階段を上がって自室へと向かった。
部屋着のスウェットに着替え、ベッドにどさりと仰向けに倒れ込む。
「……疲れたぁ」
肉体的な疲労というよりは、完全に精神的な疲労だった。
カルト組織『福音の鐘』の双子のテロリスト・ルカとリリアとの遭遇。そして、全身打撲のまま病院を抜け出してきた情報班トップ・新実由鶴の強襲。
一歩間違えれば正体がバレるどころか、修羅場に発展しかねない特大の地雷を、わずか数時間のうちに連続で踏み抜いたのだ。寿命が縮むような思いだった。
「……あいつら、なんで俺の行く先々に湧いてくるんだよ。休日の水族館だぞ? 普通に考えたら、エンカウント率ゼロの安全地帯だろうが」
天井の木目を睨みつけながら、零はブツブツと愚痴をこぼす。
しかし。
ゴロンと寝返りを打ち、机の上に置いた空の保冷バッグとランチボックスに視線をやった時。
『——美味しい……! すごく美味しいわ、三神くん!』
『私、すごく楽しかった。三神くんが作ってくれたお弁当、本当に、世界で一番美味しかったわ』
海風に吹かれながら、満面の笑みでタコさんウインナーを頬張る緋雪の姿が、脳裏に鮮明に蘇ってきた。
彼女は、日本のトップエースとして日々過酷な任務に就いている。自分の正体を追っているという厄介な立場ではあるが、その根底にあるのは「市民の平穏を守りたい」という純粋な正義感だ。
そんな彼女が、今日一日は肩の荷を下ろし、年相応の女の子として心から笑ってくれていた。
「…………」
胃の痛くなるようなトラブルの連続だった。
それでも、自分の作った弁当を、あんなにも幸せそうに綺麗に平らげてくれた。
大きな水槽の前で、クラゲやエイを見つめながら、二人でたわいもない会話をして笑い合った。
「……まあ、悪くなかったな」
零の口元から、自然と笑みがこぼれた。
主夫としての達成感だけでなく、一人の男子高校生として、純粋に誰かと過ごす休日を楽しむことができた。その事実は、特S級の亡霊として孤独に魔獣を屠る日々の、何よりの癒やしとなっていた。
「思ってたよりも……ずっと、楽しめた」
自分の頬が緩んでいることに気づき、零は少し気恥ずかしくなって、枕に顔を押し付けた。
もし今、あの直感お化けの新人アイドル(星宮きらり)がこの部屋にいれば、彼の奥底から『特大の実家のような安心感と温かさ』が漏れ出ているのを完璧に感知していたことだろう。
「……よし。明日からまた、日常の始まりだ」
数分後。
零はベッドから勢いよく跳ね起き、軽く両頬を叩いて気合を入れ直した。
世界の裏側では、魔獣の大量発生の予兆や、福音の鐘の陰謀が渦巻いている。だが、そんなことは彼にとってはどうでもいい。
彼が守るべきは、この平和で騒がしい三神家の食卓と、当たり前に続く日常だけだ。
「とりあえず、下に行って母さんのおでんを食うか。……明日の弁当のおかず、どうしようかな」
最強の魔法少女であり、宇宙一の主夫である少年は、空になった弁当箱を洗うために部屋を出た。
彼が自覚せぬままに振り撒く『無自覚な優しさと圧倒的な力』が、また新たな勘違いと騒動を引き起こすのは、もう少し先のお話である。




