第百五話
「やあ。私もたまには、海の生き物たちから生態系のインスピレーションを得ようと思ってね。いやあ、良い天気だ」
秋の爽やかな海風が吹き抜ける、水族館の芝生エリア。
木陰で最高の手作り弁当を囲み、完璧な雰囲気に包まれていた三神零と羽衣緋雪の前に、全身打撲で入院中のはずの新実由鶴が立っていた。
首には痛々しいコルセット、右手には杖。グレーのトレンチコートの下から覗く包帯が、彼女の満身創痍ぶりを物語っているが、その瞳だけはマッドサイエンティスト特有のギラギラとした執念に満ちていた。
「ゆ、由鶴……!? あなた、特別病棟で絶対安静だったはずじゃ!?」
緋雪が、唐揚げを飲み込み損ねてむせながら叫ぶ。
「フフッ。緋雪の氷柱の脅しがあまりにも怖かったので、規則通りに『普通に』外出許可をもぎ取ってきました。……三神くん、そのお弁当、非常に生体エネルギーが高そうで素晴らしいですね。私の細胞にも、少し分けてもらえませんか?」
「……なんで俺たちがここにいるって分かったんですか」
零が冷や汗を流しながらジト目を向けると、由鶴は杖をついたまま大仰に肩をすくめた。
「情報班トップの私に、探せない人間などいませんよ。都内の防犯カメラの映像を『たまたま』解析し、あなた方の歩行ルートから『海風を防げる木陰の芝生エリアで昼食をとる確率が98%』と弾き出しただけです。ストーカー? 失礼な、これも国家の安全(と私の探求心)のための情報収集の一環です」
「職権濫用もいい加減にしなさいよ!!」
緋雪が立ち上がり、猛烈な勢いで由鶴と零の間に割って入った。
彼女の周囲の気温が急激に下がり、芝生にうっすらと霜が降り始める。氷の女王にとって、せっかくの零との水族館デート(しかも手作り弁当付き)を邪魔されることは、魔獣の襲来よりも許しがたい大罪であった。
「三神くんのプライベートに付き纏わないでって、あれほど言ったわよね!? これ以上彼を困らせるなら、本当にそのコルセットごと氷漬けにして、東京湾の底に沈めるわよ!」
「ヒッ……! ひ、緋雪、一般の公園での武力行使は協会の規定違反ですよ! それに、私はただ偶然ここを通りかかって、お弁当のお裾分けをお願いしただけです!」
由鶴は一歩後ずさったが、それでもなお、零の弁当箱へと執拗に視線を送っていた。
「三神くん……あなたが丹精込めて作ったその料理。あなたの汗と労力と、未知なる生体エネルギー(ジャマーキラーの秘密)がたっぷりと詰まっているはずです。特にお願いしたいのは、その『タコさんウインナー』! あなたの指先で繊細に飾り切りされたそれさえ検体袋に入れさせてもらえれば、私はすぐに引き下がりますから……!」
由鶴がポケットからジップロック(検体保存用)を取り出し、震える手で弁当箱へと伸ばそうとする。
しかし、その手は緋雪によって無情にも叩き落とされた。
「ダメよ!! 三神くんのタコさんウインナーは、全部私のなんだから!! あなたなんかに、足の先一本だって渡さないわ!!」
日本のトップエースが、赤ウインナーの所有権を巡って全身包帯の少佐に本気でブチギレている。
周囲でピクニックをしていた家族連れが、「なんだあの人たち……」と奇異の目を向けていた。
零は完全に頭を抱え、「……羽衣さん、声が大きいです。周りが見てますから」と小声で窘めつつ、小さく息を吐いた。
「まあ、羽衣さん。食事くらい減るもんじゃないですし、いいじゃないですか」
「えっ? で、でも三神くん……っ!」
零は立ち上がると、持参していた予備のラップを取り出し、弁当箱から和風サンドとBLTサンドを一つずつ、手際よく包んだ。
「それにしても由鶴さん。全身打撲の重傷で、わざわざ病院を抜け出してここまで来るなんて。その異常な執念には、呆れるのを通り越してある意味敬意を表しますよ。……はい、タコさんウインナーは羽衣さんの分なんでダメですけど、サンドイッチならどうぞ」
零がラップに包んだサンドイッチを差し出すと、由鶴の瞳がカッ! と見開かれた。
「おお……っ! これが、ジャマーキラーの未知なる生体エネルギーの塊……! 感謝します、三神くん! さっそくラボに持ち帰って、成分を細胞レベルで解析し——」
「いや、普通に食えよ」
主夫としてのまっとうなツッコミが入るが、由鶴は「フフッ、冗談ですよ」と言いながらも、サンドイッチを大切そうにジップロックへと収めた。(絶対に解析に回す気である)。
「さて。貴重な検体(お弁当)のお礼と言っては何ですが、三神くん。少しだけお話を聞かせてもらえませんか?」
由鶴は杖をつき直し、眼鏡の奥の瞳を鋭く光らせた。
その顔には、先ほどまでのふざけたマッドサイエンティストの態度はなく、情報班トップとしての冷徹な観察眼が宿っていた。
「数日前の、京都での出来事です。……あなたは修学旅行で京都に行っていた。そして、出会いましたね、京都の裏路地で私と。そして、『福音の鐘』の教祖ルディア交戦しました。……あそこには比較的強力な『広域結界』が展開されていた。しかし、そのジャマーの結界内をまるで散歩でもするように平然と歩いているのは……不思議だと思いませんか?」
——ピクッ。
零の心臓が、嫌な音を立てて跳ねた。
(……カマをかけてきやがった。俺がゴーストの関係者だという決定的な証拠はないはずだが、状況証拠だけで追い詰めようとしてるんだ)
零は、表面上は完全に無表情を貫き通した。
少しだけ眉をひそめ、さも心外だというように由鶴を見上げる。
「……何の話ですか? 修学旅行で京都には行きましたけど、俺はずっと友達と一緒に、錦市場で出汁用の昆布を買ったり、辻利で抹茶パフェを食べてたりしてましたよ。テロがあったのはニュースで見ましたけど、俺みたいな一般人が、そんな危ない場所に近づくわけないじゃないですか」
完璧な一般人の模範解答。
しかし、由鶴はフフッと薄気味悪く笑った。
「ええ、そうでしょうとも。ですが、あなたのように、魔力干渉を無効化する特異体質を持つ人間なら、意図的に結界をすり抜けて——」
「由鶴!! いい加減にしなさい!!」
緋雪が、今度こそ本気の殺気を放って叫んだ。
彼女の足元の芝生がパリパリと凍りつき、周囲の空気が一気に冬のように冷え込む。
「三神くんは一般人よ! 彼を危険なテロリストみたいに疑うなんて、絶対に許さない! それ以上彼の平穏を脅かすなら、本当にここであなたを始末するわよ!!」
氷の女王の激怒。
自分が愛する心優しい少年を、狂信的なカルト組織の絡む事件の当事者として扱うなど、緋雪にとっては最大の侮辱であった。
「ゲホッ、ゴホッ……!」
緋雪の放つ物理的な冷気とプレッシャーに耐えきれず、由鶴が激しく咳き込んだ。
ただでさえ全身打撲の重傷である。病院を抜け出してここまで来るだけでも、彼女の体力は限界に達していたのだ。
「……ッ、少し、肋骨が軋みますね……。さすがはトップエース、容赦がない」
由鶴は痛みに顔を歪めながら、ジリジリと後退した。
「……今日のところは、これで引き下がりましょう。ですが三神くん、私は諦めませんよ。あなたのその特異な細胞が解き明かされる日まで……私はいつでも、あなたを見ていますからね……!」
三流悪役のような負け惜しみを残し、由鶴はジップロックに入ったサンドイッチを大事そうに抱えながら、足を引きずって芝生エリアから去っていった。
「……はぁ。ごめんなさい、三神くん。せっかくのお弁当の時間だったのに、変なのが来ちゃって」
由鶴の姿が見えなくなると、緋雪はスンッと冷気を収め、申し訳なさそうに零に向かって頭を下げた。
「いえ、羽衣さんが追い払ってくれたおかげで助かりました。……でも、彼女、相当執念深いですね」
「うん。でも安心して! あいつがまた三神くんに近づこうとしたら、私が何度でも氷漬けにしてやるから! 三神くんの平穏(とお弁当)は、私が絶対に守るわ!」
力強く宣言する緋雪。
その純粋な好意と正義感は、零にとって本当にありがたいものではあったが——同時に、彼女の敵視する『ゴースト』の正体が自分であるという罪悪感が、零の胃をギリギリと締め付けていた。
(……羽衣さんに守られれば守られるほど、俺がゴーストだってバレた時の反動が恐ろしすぎる……。絶対に、墓場まで持っていかないと……!)
零は深い深いため息をつき、再び弁当箱の蓋を開けた。
「さあ、気を取り直して食べましょう。まだ唐揚げも残ってますし」
「うんっ! ……あ、じゃあ私、この死守したタコさんウインナーを……パクッ。ん〜! やっぱり美味しい!」
白衣のストーカーという特大の嵐が過ぎ去り、ようやく訪れた二人だけの時間。
海風に吹かれながら、手作りのサンドイッチと唐揚げを頬張る緋雪の笑顔は、この世界で一番平和なものに見えた。
しかし、水族館に来てからというもの、双子のテロリストと狂気のマッドサイエンティストに立て続けに遭遇した零の疲労は、すでに限界を突破していた。
(……頼むから、もう誰も来ないでくれよ。俺はただ、休日にのんびり弁当を食いたいだけなんだ……)
零のささやかな願いは、秋の空高くへと吸い込まれていく。
水族館での波乱に満ちたピクニックは、こうしてなんとか『日常』の枠内に収まり、終わりの時間を迎えようとしていた。




