第百四話
水族館の順路を大幅にショートカットし、逃げるように屋外の海浜公園(芝生エリア)へとやってきた零と緋雪。
秋の爽やかな海風が吹き抜ける広大な芝生広場には、家族連れやカップルたちが思い思いに場所を取り、ピクニックを楽しんでいた。
「わぁ……海が見えて、すごく気持ちいい場所ね!」
潮風に銀髪を揺らしながら、緋雪が嬉しそうに深呼吸をする。
しかし、零の顔には先ほどの双子遭遇の冷や汗とはまた別の、極めて深刻な『絶望』の影が落ちていた。
(……やらかした)
零は、手に提げた保冷バッグを見つめながら、自身の『零のプライド』が音を立てて崩れ去っていくのを感じていた。
彼の完璧な弁当設計では、昼食は『十一時半から始まるイルカショーのスタンド席(プラスチック製のベンチがある)』で食べる想定だった。だからこそ、レジャーシートなどの敷物を持参する荷物をカットしていたのだ。
だが、ルカとリリアという歩く特大地雷から逃れるため、予定を大幅に前倒しして「芝生エリアに行きましょう」と強引に誘導してしまった。
(敷物がない……! 休日の芝生エリアのベンチなんて、すでに家族連れに占領されてて一つも空いてないじゃないか!)
零は愕然とし、周囲を見渡した。やはりベンチは全滅している。
隣に立つ緋雪の服装は、気合の入った真っ白なフレアワンピースだ。こんなところで直接芝生に座らせれば、確実に草の汁や泥で汚れてしまう。
「三神くん? どこか座れそうな場所、あるかしら?」
「あ、えっと……」
主夫として、女性の晴れ着を汚すことなど絶対に許されない。
零は瞬時に思考を巡らせ、一つの決断を下した。
「羽衣さん、あそこの木陰に行きましょう」
零は芝生の端にある、比較的平坦で海風の防げる木陰へと緋雪を誘導した。そして、自分が羽織っていた秋物の薄手のジャケットをサッと脱ぐと、躊躇うことなくバサッと芝生の上に広げたのだ。
「えっ……三神くん!?」
「ごめんなさい、俺のミスです。イルカショーのスタンド席で食べるつもりだったんで、敷物を持ってきてなくて。……ちょっと男物で無骨ですけど、俺の上着、洗いたてで綺麗なんで。羽衣さんの白い服が汚れちゃうから、ここに座ってください」
零は「主夫としての失態を、物理的なカバーで補うしかない」という、極めて実務的な理由でそう言った。
しかし。
その光景を見た緋雪の脳内では、またしても常人には理解し難い凄まじい化学反応(乙女の暴走)が起きていた。
(み、みみみ三神くんの上着の上に、座る!?!?)
緋雪の顔が、ボンッ! と音が鳴りそうなほど真っ赤に染まる。
女の子の服が汚れないように、自分の上着をサッと脱いで敷いてくれる。それは少女漫画やドラマでしか見たことのない、完璧な『紳士』の振る舞いではないか。
しかも、彼がさっきまで着ていた温もりと、爽やかな洗剤の匂いが残るその上着に座るということは、実質的に『彼に後ろからハグされているも同然(※同然ではない)』である。
「そ、そんなの悪いわ! 三神くんの服が汚れちゃうじゃない!」
「いいんです。俺の服は後で強力な酵素系漂白剤でウルトラウォッシュすれば簡単に落ちますけど、羽衣さんのワンピースの繊細な生地は、草のシミがついたら取り返しがつかなくなりますから。ほら、遠慮せずに」
漂白剤の効能という全くロマンチックではない説得をされたが、緋雪には「君のためなら服が汚れても構わない」という騎士の誓いのように聞こえていた。
「あ、ありがとう……じゃあ、お言葉に甘えて……っ」
緋雪はモジモジとしながら、ゆっくりと零のジャケットの上に腰を下ろした。
(あったかい……三神くんの匂いがする……っ!)
完全に沸点を超えた氷の女王は、頭から湯気が出そうなほどに幸せを噛み締めていた。日本のトップエースを、自らのジャケット一枚で完全撃破した零は、そんな彼女の内心など知る由もなく「よし、服は守れたな」と安堵の息を吐いていた。
「それじゃあ、改めて。……朝早くから作ってきたんで、お腹空いてたら嬉しいんですけど」
零は芝生の上に直に座り込み(自分のズボンの汚れは一切気にしない)、保冷バッグから二段重ねの大きなランチボックスを取り出した。
カチャリ、と留め具を外し、蓋を開ける。
「——わぁっ……!!」
緋雪の口から、感嘆の吐息が漏れた。
そこに広がっていたのは、まさに『完璧』と呼ぶに相応しいお弁当の風景だった。
分厚い出汁巻き卵が美しく挟まれた和風サンドと、こんがり焼けたベーコンと鮮やかなトマトが層を成すBLTサンド。二度揚げされてカリッとした衣のキツネ色の唐揚げ。そして、その隙間を彩るように配置された、真っ赤な『タコさん』と『カニさん』の飾り切りウインナー。
別の容器には、一口サイズにカットされた瑞々しいリンゴとキウイが添えられている。
「すごい、すごいわ三神くん! お店で売ってるピクニックセットみたい! それに、このタコさんウインナー、すごく可愛い……っ!」
緋雪の瞳が、本物の宝石のようにキラキラと輝いている。
その純粋な喜びに満ちた表情を見て、零の胸の奥にあった『敷物を忘れた』という主夫の敗北感や、先ほどの双子に遭遇した胃の痛みも、少しだけ和らいでいくのを感じた。
「羽衣さんがそういう可愛いのが好きかと思って、少し手間をかけてみました。さあ、食べてください」
零がウェットティッシュを手渡すと、緋雪は丁寧に手を拭き、少し迷った後、BLTサンドを手に取った。
パクリ、と小さな口でかぶりつく。
「——んんっ!!」
緋雪の目が、驚きに限界まで見開かれた。
シャキシャキのレタス、ジューシーなトマト、そして肉厚なベーコンの旨味が、絶妙なバランスで口の中に広がる。内側に塗られたバターの結界のおかげで、パンは全く水分を吸っておらず、フワフワのままだ。
「美味しい……! すごく美味しいわ、三神くん! パンも全然ベチャッとしてないし、お店のサンドイッチよりずっと美味しい!」
「よかった。野菜の水分が出ないように工夫した甲斐がありました。唐揚げもどうぞ。冷めても美味しいように、生姜を利かせてあるんで」
「うんっ!」
緋雪は無邪気な笑顔で唐揚げを頬張り、「んふーっ」と幸せそうに頬を押さえた。
氷の女王の面影はそこにはなく、ただ美味しいご飯に感動する一人の少女の姿がある。
(……うん。やっぱり、俺が作った飯を美味そうに食ってくれるのを見るのは、悪くないな)
零も和風サンドを齧りながら、秋の穏やかな風を感じていた。
カルト教祖だの、反逆のカリスマだの、そんな世界の裏側の狂騒などどうでもいい。今、この瞬間、自分が作った弁当で誰かが笑顔になってくれている。それこそが、三神零という人間の『日常』であり『真実』なのだ。
「三神くん、このタコさんウインナー、食べていい?」
「ええ、もちろん」
「……えへへ」
緋雪は嬉しそうにタコさんウインナーをつまみ上げると、それをパクッと口に入れた。
海風が吹き抜ける木陰。彼の上着の上に座り、彼の手作りのお弁当を二人で食べる。
緋雪にとって、これまでの人生で最も幸せで、平和な休日だった。
双子との遭遇という爆弾はあったものの、結果的に最高の雰囲気に持ち込むことができた水族館デート。
しかし、零の祈りが完全に天に届くことは、この世界においては絶対にあり得ない。
「——あら? 三神くんに、緋雪じゃないか。奇遇だね」
穏やかなお弁当タイムの空気を切り裂くように、聞き覚えのある、理知的でギラギラとした大人の女性の声が、木陰のすぐ傍から降ってきたのである。
ビクッ! と零と緋雪の動きが同時に止まった。
恐る恐る声のした方を見上げる。
そこには。
「やあ。私もたまには、海の生き物たちから生態系のインスピレーションを得ようと思ってね。いやあ、良い天気だ」
白衣の代わりに、グレーの地味なトレンチコートを着込んだ女性。
全身打撲で絶対安静のミイラ状態だったはずの魔法少女協会情報班トップ——新実由鶴少佐が、首にコルセットを巻き、杖をついた痛々しい姿で、なぜか不敵な笑みを浮かべて立っていた。
「ゆ、由鶴……!? あなた、特別病棟で絶対安静だったはずじゃ!?」
緋雪が、唐揚げを飲み込み損ねてむせながら叫ぶ。
「フフッ。大佐の氷柱の脅しがあまりにも怖かったので、規則通りに『普通に』外出許可をもぎ取ってきました。……三神くん、そのお弁当、非常に生体エネルギーが高そうで素晴らしいですね。私の細胞にも、少し分けてもらえませんか?」
「……お断りします」
零の顔から、再び全ての感情が抜け落ちた。
(なんで……なんで俺が弁当食おうとする度に、テロリストやらマッドサイエンティストやらが湧いてくるんだよ……!)
平和なはずの水族館の芝生エリアは、一触即発の魔境へと変貌を遂げるのだった。




