第百三話
日曜日、午前十時。
抜けるような青空の下、待ち合わせ場所である駅前のシンボルツリーの陰で、羽衣緋雪は限界まで張り詰めた緊張と戦っていた。
(落ち着け、落ち着きなさい羽衣緋雪。あなたは日本トップエース、『氷の女王』よ。特A級魔獣の群れを前にしても決して乱れない心を、ただの男子高校生との水族館デートくらいで崩してどうするの……!)
胸の前で両手をギュッと握りしめ、必死に自分を律する緋雪。
今日の彼女は、清楚な白のフレアワンピースに、淡い水色のカーディガンを羽織った、気合十分(しかし気合が入りすぎていると悟られないよう絶妙に調整された)デート服である。
早起きして髪のセットとメイクに二時間を費やした結果、道ゆく人々が思わず振り返るほどの圧倒的な美少女オーラを放っていたが、本人の内心はパニック寸前だった。
「お待たせしました、羽衣さん」
「ひゃいっ!?」
背後から声をかけられ、緋雪は素っ頓狂な悲鳴を上げて振り返った。
そこには、シンプルなモノトーンの私服を着た三神零が、少し大きめの保冷バッグを提げて立っていた。
「あ、ご、ごめんなさい! ちょっと考え事をしてて……! お、おはよう、三神くん!」
「おはようございます。……羽衣さん、その服、すごく似合ってますね。涼しげで水族館にピッタリです」
「えっ……あ、ありがとう……っ!」
サラリと告げられた褒め言葉に、緋雪の顔が一瞬にして沸騰したように赤く染まる。
(やった! 似合ってるって言われた! 三時間悩んで選んだ甲斐があったわ!)と内心でガッツポーズを決めつつ、彼女は「三神くんの私服も、すごく似合ってるわ」と、どうにか氷の女王としての平然とした微笑みを返した。
「それじゃあ、行きましょうか」
「ええ!」
二人は並んで歩き出し、目的地の『アクアワールド東京』へと向かった。
休日の水族館は、零の予想通り、多くの家族連れやカップルで賑わっていた。
薄暗い館内に足を踏み入れると、巨大な水槽の中を色鮮やかな魚たちが泳ぎ回る、幻想的な海の世界が広がっている。
「うわぁ……綺麗……」
巨大なアクリルガラスに顔を近づけ、緋雪が目を輝かせる。
彼女の横顔を淡いブルーの照明が照らし出し、その透き通るような銀髪が美しく煌めいていた。隣を歩く零に向かって、緋雪は嬉しそうに微笑みかける。
「三神くん、見て! あそこのエイ、すごく大きいわ!」
「本当ですね。……あのヒレの部分、エイヒレとして炙ったら何人前取れるんだろうな。マヨネーズと七味で食べたら最高だ」
「えっ、そっち!?」
ロマンチックなムードなど微塵もない、あまりにも実利(食欲)に直結した主夫の感想に、緋雪は思わずズッコケそうになった。
「次行こう。おお、イワシのトルネードだ」
「すごい数ね……圧倒されちゃう」
「これ全部つみれ汁にしたら、町内会の炊き出しが三回はできそうですね」
「水族館の魚を食材目線で見るの、やめない!?」
緋雪がツッコミを入れるが、零は「冗談ですよ」と笑って歩き出す。
(もう、三神くんたら……)と呆れつつも、緋雪の胸の奥はぽかぽかと温かかった。激務の続く日常から離れ、こうして好きな人と並んで歩き、他愛のない会話で笑い合える。それだけで、彼女にとっては最高の幸せなのだ。
クラゲの展示コーナーにやってくると、円柱型の水槽の中で、無数のクラゲがフワフワと浮遊していた。
零は水槽の前に立ち止まり、その規則的な動きをボーッと眺める。
「……涼しげでいいな。何も考えずに、永遠に見てられる」
日々のカルトからのストーカー被害や、新人からの正体バレの危機、不良からのカリスマ扱いなど、胃の痛くなるようなストレスの数々が、クラゲの浮遊感と共にスゥッと溶けていくのを感じる零。
その隣で、緋雪は水槽ではなく、零の穏やかな横顔に見惚れていた。
(三神くん……最近、少し疲れた顔をしてたけど、リラックスしてくれてるみたい。よかった……)
並んで立つ二人の距離は、わずか数センチ。
緋雪はゴクリと唾を飲み込み、自分の右手を、そっと零の左手の方へ寄せていく。
(このまま、ちょっとだけ……手が触れたら……)
ドキドキと心臓が早鐘を打つ。あと一センチ。あと五ミリ。
氷の女王の決死の接触が成功しようとした、まさにその時だった。
「——ねえねえ、そこのお兄さん」
背後から、無邪気な声が掛かった。
ビクッ! と緋雪が肩を震わせて手を引っ込め、零も「ん?」と振り返る。
そこに立っていたのは、小柄な双子の少女だった。
二人ともゴスロリ調の黒いフリルワンピースを着ており、片方は元気いっぱいの笑顔、もう片方は少しクールな無表情を浮かべている。
「私たち、スマホで写真撮りたいんだけど、上手く撮れなくて。お兄さん、あそこの大きな水槽の前で、二人で写るように撮ってくれない?」
元気な方の少女が、零に向かってスマホを差し出してきた。
ごく普通の、休日の水族館によくある光景だ。
しかし。
その双子の顔を見た瞬間、零の心臓がヒュッと音を立てて凍りつき、全身から凄まじい勢いで冷や汗が噴き出した。
(——えっ? う、嘘だろ……!?)
零の記憶の引き出しが、危険信号をガンガンと鳴らしている。
つい先日、京都の修学旅行の最中。路地裏で『福音の鐘』の教祖ルディアと対峙した際、彼女の護衛として潜んでいた暗殺特化の双子。
大剣の腹で殴り飛ばして右腕を粉砕した『ルカ』と、柄頭で腹部を突いて悶絶させた『リリア』。
——間違いない。目の前にいるのは、あのカルト組織の高級幹部である!!
「お兄さん? どうしたの、顔色悪いよ?」
ルカが、不思議そうに首を傾げて零の顔を覗き込んでくる。
(ななな、なんでこいつらが東京の水族館にいるんだ!? テロリストだろうが! しかも、あんな重傷を負わせたのに、もうピンピンして遊び歩いてるのかよ! カルトの治癒魔法、どうなってんだ!)
内心で大パニックを起こしながらも、零は持ち前の特S級のポーカーフェイスを全力で発動し、顔の筋肉を硬直させた。
相手は自分が『ゴースト』だとは気づいていない。ここで動揺を見せれば、逆に不審がられる。
「あ、ああ……ごめん、ちょっとボーッとしてて。写真だな、いいよ」
「ありがとー!」
零はルカからスマホを受け取り、水槽の前に立つ双子にカメラを向けた。
(早く撮って、さっさと離れよう……!)
「はい、チーズ」と声をかけ、シャッターを切る。
「はい、撮れたよ」
「わぁ、綺麗に撮れてる! リリア、見て見て!」
「……うん。お兄さん、写真撮るの上手」
リリア(クールな方)が、小さく頭を下げた。
ごく普通の仲良し姉妹にしか見えないが、彼女たちの本性は、いざとなれば容赦なく人を殺めるテロリストである。胃の痛みが限界を突破しそうな零の隣で、緋雪がにこやかに二人に話しかけた。
「アナタ達、二人で遊びに来たの?」
(バ、バカ羽衣さん! テロリストに気安く話しかけるな!)と零が心の中で絶叫するが、緋雪はルカとリリアの顔を知らない。彼女が京都で対峙したのは須藤真里だけであり、この双子とは面識がないのだ。
「うん! 私たち、ずっと怪我で入院してて、今日やっと『退院祝い』のお出かけなんだ!」
ルカが無邪気に答える。
「あら、そうだったの。大変だったわね。交通事故か何かに遭ったの?」
「ううん、違うの。この前、京都に行った時にね——」
ピタッ、と零の心臓が止まりかけた。
「すっごく怖い人に、ボコボコにされちゃったんだ!」
「そう。真っ黒なドレスを着た、化け物みたいな女の人。大剣でドーンッてやられて、私のお腹、グシャッてなった」
「私も右腕バキバキにされちゃったし!」
双子が、まるで「転んで擦りむいた」くらいの軽いテンションで、ゴースト(零)による物理的折檻の恐怖体験を語り始めた。
「……えっ?」
緋雪の表情が、スッと険しいものに変わる。
真っ黒なドレスに、大剣。その特徴は、緋雪が最も警戒し、同時に因縁を持つ存在と完全に一致していた。
「……あなたたちに怪我をさせたのって、もしかして『ゴースト』って名前じゃなかった?」
「え? あー、うん。ルディ……じゃなくて、一緒にお出かけしてたお姉ちゃんが、そんな名前で呼んでたかも」
「ルカ。あんまり話しすぎると、マリーお姉ちゃん(須藤真里)に怒られる」
リリアがルカの袖を引いて窘める。
しかし、緋雪の目には、テロリストへの警戒ではなく、『無抵抗な(ように見える)子供たちに重傷を負わせたゴーストへの怒り』がメラメラと燃え上がっていた。
「やっぱり……あの子は危険な存在ね。いくら魔獣を倒しているとはいえ、こんな小さな子たちにまで怪我をさせるなんて……! 絶対に許せないわ!」
氷の女王の正義感が、あらぬ方向へと暴走を始める。
(違う! 違うんです羽衣さん! こいつら、俺を後ろから暗殺しようとしてきたカルトの実行犯なんです! 小さな子とかじゃなくて、ゴリゴリのテロリストなんですよォォッ!)
真実を叫びたい衝動に駆られるが、それを言えば「なんで三神くんがそんなこと知ってるの?」となり、即座に正体がバレる。
零は完全に詰んでいた。自らの正体と平穏を守るため、彼はただ黙って、胃を押さえて冷や汗を流すことしかできない。
「お姉さん、怒ってるの? でも大丈夫だよ! 私たち、すっごい治癒魔法のおかげで完全に治ったから!」
「うん。じゃあね、お兄さん、お姉さん。写真ありがとう」
ルカとリリアが手を振り、クラゲの展示コーナーから去っていく。
二人の背中を見送りながら、ルカが小声でリリアに囁いているのが、零の聴覚にだけ微かに届いた。
「ねえリリア。さっきのお兄さん、なんかすごく……いい匂いがしたね」
「……うん。実家の匂いみたいな、安心するオーラだった。ちょっとだけ、ルディア様に近かったかも」
「また会いたいなー」
(二度と会いたくねぇよ!!!)
新人アイドルの星眼だけでなく、暗殺者の双子にまで『実家のような安心感』を嗅ぎ取られ、変なフラグを立ててしまった零。
彼の祈りは完全に虚空へと消え去り、水族館の平穏はもはや風前の灯火となっていた。
「……三神くん、大丈夫? すごく汗かいてるけど。やっぱり、最近の疲れが出てるんじゃ……」
「い、いえ! 大丈夫です! ちょっと館内が暑いだけですよ、ハハハ……。ほら、そろそろお昼にしましょう! 芝生エリアに行って、弁当を食べましょう!」
これ以上この館内に留まれば、またどんな知人にエンカウントするか分かったものではない。
零は強引に話題を切り替え、手作り弁当という最大の防衛ライン(ごまかし)へと緋雪を誘導する。
「お弁当……! そうね、行きましょう!」
ゴーストへの怒りから一転、緋雪の顔に再びパァァッと乙女の笑顔が戻る。
彼らの水族館デートは、カルトの双子という特大の地雷をどうにか踏み越え、いよいよ本番の『お弁当タイム』へと突入していくのだった。




