第百二話
東京・魔法少女協会 日本支部本部。その一角にあるエース専用待機室では、信じられないほど長閑な空気が漂っていた。
「いやー、平和ですねぇ。ここ数日、東京方面での魔獣の出現率も低いですし、何よりあの面倒なヴィジランテの不良たちが一斉に大人しくなったのがデカいですよ」
土属性のエース・只野真奈が、ソファに寝転がってポテトチップスを齧りながら呑気に言った。
風属性のエース・弓飛鳥も、呆れたような、しかしどこかホッとしたような顔で同意する。
「本当にね。ヤオヨシの駐車場での『解散宣言』以降、彼女たち……道端のゴミ拾いを始めたり、お年寄りの荷物を持ってあげたり、『孤高の戦士は日常を重んじるのだ』とか言いながら普通に学校やバイトに行き始めたらしいわよ。……ゴーストはいったい、あの短時間で彼女たちにどんな恐ろしい洗脳を施したのかしら」
「まあ、理由はどうあれ、私たちがパトロールでヤンキー狩りをする手間が省けたんですから万々歳じゃないですかー」
二人の会話を聞きながら、氷属性のトップエース・羽衣緋雪は、自分のデスクで静かに震えていた。
(ゴーストがどうやって彼女たちを更生させたかは謎だけど……おかげで今週末のシフトに空きができた! これは、神様が『休みなさい』と言っているに違いないわ!)
「あの、飛鳥、真奈」
緋雪は立ち上がり、努めて冷静な——しかし内心の興奮を抑えきれない上ずった声で切り出した。
「今週の日曜日なんだけど……私、丸一日お休み(オフ)をもらってもいいかしら? もちろん、緊急事態が起きたらすぐに駆けつけるわ!」
「え? 緋雪が自主的に休みを取るなんて珍しいですね。全然いいですよ、最近ずっと働き詰めだったんですから」
「そうね。ここは私たちで回しておくから、緋雪はゆっくり羽を伸ばしてきてちょうだい」
後輩二人の快諾を得て、緋雪は「ありがとう!」と満面の笑みで待機室を飛び出していった。
残された真奈と飛鳥は、バタンと閉まったドアを見つめて顔を見合わせる。
「……飛鳥さん。緋雪のあの顔、絶対に『彼氏さんとデート』の顔ですよね」
「……ええ。恋する乙女みたいな顔だったわ。まあ、緋雪が幸せならそれでいいんだけど」
部下たちに生温かい目で見守られていることなど露知らず、緋雪は誰もいない仮眠室へと駆け込み、ベッドにダイブしてスマートフォンを取り出した。
「よしっ! 休みは取れた! あとは彼を誘うだけよ!」
彼女の手元には、先日協会の福引きで当たった『アクアワールド東京・ペアチケット』がある。
しかし、ここからが本番にして最大の試練だった。
メッセージアプリを開き、三神零のトーク画面を表示させる。
『今度の日曜日、水族館に行かない?』
「——って、これじゃまるでデートの誘いみたいじゃない! 直球すぎて引かれちゃうかも! 却下!」
緋雪は文字をバックスペースで全て消し、また一から打ち直し始める。
『この前はバーベキューで美味しいお肉をご馳走様でした。そのお礼も兼ねて、今度の日曜日に水族館のチケットがあるのですが、一緒に行きませんか?』
「……これよ! 大義名分(お礼)もしっかりしてるし、重すぎない完璧な文面!」
文章は完成した。あとは『送信』ボタンを押すだけだ。
——しかし。
完璧な文面を作り上げたにも関わらず、緋雪の右手の親指は、画面の右下にある紙飛行機のアイコンの上で、ブルブルと激しく震えていた。
(押せない……っ! もし『その日は友達とゲームの約束が』とか『家族で出かけるから』って断られたらどうしよう! 『二人きりはちょっと』なんて言われたら、私、絶対に立ち直れない……!)
相手はただの男子高校生である。
緋雪はこれまでに、街を破壊する巨大な魔獣とも、狂信的なカルト組織とも、そしてあの底知れぬ恐怖を放つ特S級の化け物『ゴースト』とも最前線で対峙してきた。氷の女王として、どんな死地でも決して怯むことはなかった。
あの時——ヤオヨシの駐車場で、ゴーストが特B級魔獣を消し飛ばした直後に放っていた、あの背筋も凍るような殺気を前にした時でさえ、彼女は退かずに刀に手をかけたのだ。
だが、今。たった一つのメッセージの送信ボタンを押すという行為が、あのゴーストと対峙した時の殺気よりも遥かに恐ろしく、心臓に悪いプレッシャーとなって彼女を襲っていた。
「ああっ、もう! 私は日本トップエースよ! 特A級魔獣を一刀両断できる決断力が、ここで発揮できなくてどうするの!」
緋雪は目をギュッと瞑り、心臓を口から吐き出しそうな勢いで、「ええいっ!」と自棄糞気味に画面をタップした。
ピコン。
軽快な送信音が鳴り、緑色の吹き出しがトーク画面に表示される。
「お、送っちゃった……! あああ、どうしよう! 今なら送信取り消しできる!? でもそれじゃ不審がられるし……!」
緋雪はスマホをベッドに放り投げ、枕に顔を埋めて足をバタバタとさせた。世界を救う氷の女王の威厳など、そこには微塵も存在しない。
一分経過。既読にならない。
二分経過。まだ既読にならない。
三分経過。
——ピロリン。
放り投げたスマホが鳴った。
ビクッと肩を震わせ、緋雪は息を止めて恐る恐る画面を覗き込む。
『三神くん:水族館か。いいですね。最近ちょっと疲れ気味だったんで、涼しいところで息抜きしたかったんです。行きましょう』
「…………やったぁぁぁぁぁぁっ!!」
仮眠室に、緋雪の歓喜の絶叫が響き渡る。
ベッドの上でピョンピョンと跳ね回り、ガッツポーズを繰り返す日本トップエース。彼女は急いで深呼吸をして心を落ち着かせ、震える指で次のメッセージを打ち込んだ。
『よかった! それじゃあ、日曜日の朝十時に駅前で待ち合わせでどうかな? あとお昼ご飯はどうする? 水族館の中のレストランで食べる?』
送信。
すぐに既読がつき、返信が返ってくる。
『三神くん:時間はそれで大丈夫です。お昼は……レストランはやめときましょう。休日の水族館のレストランは一時間待ちはザラだし、待ってるだけで疲れますから。俺が弁当を作って持っていきますよ。羽衣さん、嫌いなものはありますか?』
「——っ!!!」
緋雪は、スマホを抱きしめてその場に崩れ落ちた。
三神くんの手作りお弁当。あの、バーベキューの安いお肉を高級焼肉店の味に変えた、宇宙一美味しい彼の手料理を、二人きりの空間で食べられるという事実。
もはやこれは、ただのお出かけではない。完全な『デート』の確定演出であった。
『三神くんの手作りお弁当!? 嫌いなものなんてないわ! 何でも美味しく食べる! 楽しみにしてるね!』
緋雪は限界まで高まったテンションのまま返信を送り、日曜日までの三日間をどう生き延びるか、真剣に悩み始めるのだった。
同じ頃、三神家。
自室のベッドで寝転がりながらスマホを操作していた三神零は、「よし、今週の日曜の予定は決まりだな」と呟いた。
「水族館か。羽衣さんも激務が続いてたみたいだし、涼しい館内でクラゲでも見ながらボーッとするのは、いい息抜きになりそうだ」
最近の零は、カルト教祖に「神」とストーカーされ、新人アイドルに直感で正体を疑われ、挙句の果てにはヤンキー魔法少女たちの『反逆のカリスマ』に祭り上げられるという、胃の休まる暇もない理不尽なストレスに晒され続けていた。
休日に水族館。この提案は、そんなカオスな日常から離脱するための、渡りに船とも言えるオアシスに感じられたのだ。
「それにしても、休日の水族館のレストランに行こうとするなんて、羽衣さんも甘いな」
零はベッドから起き上がり、机に向かってノートを開いた。
零の血が、静かに、しかし熱く騒ぎ始めている。
「家族連れとカップルでごった返すテーマパークの昼食時は、まさに戦場だ。列に並んでいる間に疲労が蓄積し、午後の観覧へのモチベーションが著しく低下する。それに、観光地価格でコスパも悪い。……弁当一択だ」
零はペンを握り、真剣な眼差しで弁当の設計図を書き出し始めた。
相手は日本のトップエース。激務で疲れた彼女の胃袋と心を満たすための、完璧なメニューを構築しなければならない。
「水族館のルートを想定すると、イルカショーのスタンド席か、海風の当たる屋外の芝生エリアでの昼食になる可能性が高い。……となると、箸を使わずに片手で手軽に食べられて、かつ腹持ちの良いものがベストだ。メインはサンドイッチだな」
カリカリとペンが走る。
「ただの卵サンドじゃ芸がない。厚焼きの出汁巻き卵を挟んで、辛子マヨネーズを少し利かせた『和風サンド』。それと、この前特売で買ったブロックベーコンを使った『BLTサンド』だ。パンが野菜の水分でふやけないように、内側にはしっかりとバターを塗ってコーティングを張る」
零の弁当設計は、魔獣の弱点を分析する一流の司令官のような精緻さであった。
「おかずは、冷めても美味しい鶏の唐揚げ。朝に二度揚げして、衣のカリッと感を保たせる。そして水族館らしさを演出するために、赤ウインナーを『タコ』と『カニ』の形に飾り切りして入れるか。……羽衣さん、ああいう可愛いのが好きそうだしな」
唐揚げの下味は醤油と生姜ベース。サンドイッチの味を邪魔しないように、ニンニクは控えめにする。
最後に、彩りと食後の口直しとして、一口サイズにカットしたリンゴとキウイのフルーツ盛り合わせを別容器で用意する。
「保冷剤はフルーツの容器の下に一つ、サンドイッチの横に一つ配置。これで完璧な温度管理ができる。……よし、隙のない最高の弁当になるぞ」
メニューと買い出しリストを完成させ、零は満足げにノートを閉じた。
冷蔵庫の余り物も消費でき、特売品を最大限に活かした上で、相手を喜ばせることができる。主夫としての達成感に包まれながら、零はふと、窓の外に広がる夕焼け空を見上げた。
(……このところ、外出するたびにロクな目に遭ってないからな)
買い物に行けばジャマーの結界に閉じ込められ、修学旅行に行けばカルト教祖と理系ストーカーの怪獣大決戦に遭遇し、夕飯の準備をしていれば特A級魔獣が降ってくる。
ヴィジランテが解散してくれたおかげで、街は少し静かになったが、いつ何時理不尽なトラブルが降ってくるか分かったものではない。
「でも、水族館なら魔獣が出るような場所じゃないし、協会の上層部(由鶴少佐)も今は入院中で動けない。何より、隣にはトップエースの羽衣さんがいるんだから、不良に絡まれることもないだろう」
零は両手を合わせ、沈みゆく夕日に向かって深く、切実に祈った。
「どうか、この日曜日だけは。……魔獣も、カルト組織も、ヤンキー魔法少女も出てこないでくれ。何の厄介ごとにも巻き込まれず、ただ羽衣さんと一緒に美味しい弁当を食べて、クラゲを見て帰ってくるだけの、平穏な休日になりますように」
最強の魔法少女であり、宇宙一の主夫である少年の、心の底からの願い。
——しかし。
彼がこれほどまでに完璧に、芸術的なまでのフラグ(前振り)を建築してしまった以上、運命という名の悪戯がそれを放置しておくはずがない。
日曜日。
日本のトップエースと、反逆のカリスマの水族館デートは、静かなる波乱の幕開けと共に始まろうとしていた。




