第百一話
三神家のダイニングキッチンには、リズミカルで心地よい作業音が響いていた。
ペチッ、ササッ、キュッ。
三神零は黒いエプロン姿のまま、完全な無の境地に至っていた。左手の手のひらに丸い餃子の皮を乗せ、右手でヘラを使って特売の豚ひき肉とニラがたっぷりと入った餡をすくい、滑らかな手つきで美しいヒダを作りながら包み上げていく。
「……六十一、六十二、六十三……よし」
銀の大皿に、芸術的な均等さで並べられていく生餃子の群れ。
テレビからは昨日と同じく、「全国で相次ぐ野良魔法少女の組織化」や「反逆のカリスマ・ゴースト」といった胃の痛くなるようなニュースが流れていたが、今の零の耳には全く入っていない。
(反乱軍のリーダーだの、カルトの神だの……知ったことか。俺はただの男子高校生で、宇宙一の主夫だ。この餃子のヒダの美しさこそが、俺の真実なんだ……)
現実逃避を極め、一心不乱に餡を包み続けていた零だったが、やがてヘラがボウルの底を擦る音に気づき、ハッと我に返った。
「しまった。餡を作りすぎた。……皮が足りない」
ボウルにはまだ三分の一ほどの餡が残っているが、手元の餃子の皮は最後の一枚を使い切ってしまっていた。零にとって、食材の分量配分ミスは痛恨の極みである。
「このまま肉団子スープにする手もあるが……いや、今日の家族は完全に『焼き餃子を腹一杯食う口』になっている。妥協は許されない」
時計を見ると、時刻は午後四時半。近所のスーパー『ヤオヨシ』の夕方のタイムセールが始まる時間だ。
零はエプロンを外し、エコバッグを手に取った。
「母さん、ちょっとヤオヨシまで餃子の皮を買い足してくる」
「はーい、気をつけてねー」
財布をポケットに突っ込み、零は足早に家を出た。
この時の彼はまだ、自分の預かり知らぬところで『ゴーストのカリスマ性』がどれほど暴走しているか、本当の意味で理解していなかったのである。
スーパー『ヤオヨシ』の駐車場。
普段なら夕飯の買い出しに訪れる主婦たちの自転車や車で賑わうはずのその場所は、異様な集団によって完全に占拠されていた。
「皆の者! ここが、我らがカリスマ・ゴースト様が先日、単独で特A級魔獣を粉砕された『聖なる交差点』のすぐ横……聖地『ヤオヨシ』だ!!」
駐車場のど真ん中で、揃いの黒い腕章をつけた数十人の魔法少女たちが、気勢を上げていた。彼女たちは協会の管理を嫌ってドロップアウトした、いわゆる不良魔法少女たちの集まりである。
「協会に縛られるな! ゴースト様のように、己の力だけを信じ、自由に生きるのだ!」
「ゴースト様万歳! 反逆のカリスマ万歳!」
拡声器を持ったリーダー格の少女が叫ぶと、集まったヴィジランテたちが熱狂的な歓声を上げる。
先日、ゴーストがこの近くの交差点で魔獣を討伐したという情報がネットの裏掲示板で広まり、彼女たちはこの場所を勝手に『ゴースト反逆の聖地』として崇め、決起集会を開いていたのだ。
そのせいで、ヤオヨシの店舗前には物々しい空気が漂い、買い物客たちは遠巻きに怯え、店長はシャッターを半分下ろして警察と協会に泣きつく事態となっていた。
「……おいおい、なんだあれ」
買い出しにやってきた零は、遠目からその惨状を見て完全に呆れ返っていた。
(聖地ヤオヨシ? ふざけるな。そこはただの俺の行きつけのスーパーだ。……というか、あいつらが入り口を塞いでるせいで、一般客が買い物できないじゃないか)
零の額に、ピキリと青筋が浮かんだ。
今日のヤオヨシは、餃子の皮だけでなく、新鮮なキャベツと卵の特売日でもあるのだ。このまま臨時休業にでもなられたら、今夜の夕飯の計画が根本から崩壊してしまう。
「チッ……協会は何をやってるんだ。早く鎮圧に来いよ」
零が舌打ちをした、まさにその時だった。
『——警告。地脈の異常波長を検知。特B級魔獣の群れが転送されます』
零のスマホの探知アプリが、けたたましい警告音を鳴らした。
それと同時に、ヤオヨシの駐車場の空間がドス黒く歪み、中から三匹の巨大な狼型の魔獣が咆哮を上げて飛び出してきた。全国的な地脈の異常(スタンピードの予兆)が、早くもこんな場所にまで影響を及ぼし始めたのだ。
「ひぃっ!? ま、魔獣だ!」
「怯むな! 我らはゴースト様の意志を継ぐ者! 協会に頼らず、我々だけで討伐して力を見せつけるのだ!」
リーダー格の少女が号令をかけ、ヴィジランテたちが一斉に魔法を放つ。
しかし、彼女たちは所詮、正規の訓練を受けていない野良の魔法少女。連携もバラバラで、放たれる魔法の出力も特B級の強靭な毛皮には弾かれてしまう。
「きゃあああっ!」
「だ、ダメだ、速すぎる……!」
魔獣の素早い動きに翻弄され、次々と吹き飛ばされていくヴィジランテたち。
魔獣の一匹が、シャッターが半分閉まったヤオヨシの入り口に目を向け、巨大な顎を開いて突進を開始した。
(——あそこには、特売のキャベツが山積みになっているはずだ。それを潰されるわけにはいかない!!)
零は人気のない路地裏に飛び込むと、胸のペンダントを強く握りしめた。
漆黒の魔力が弾け、男子高校生の姿が、白フリルをあしらったゴシックドレスの美少女へと変貌する。
「——行くぞ」
ゴーストは足元の影に沈み込み、特B級魔獣の目の前へと空間跳躍した。
「——【深淵の爆炎】」
ヤオヨシの入り口に突進していた魔獣の眼前に、突如として真っ黒なドレスの少女が立ちはだかった。
彼女が虚空に向かって手をかざした瞬間、圧縮された黒い炎が爆発的に膨れ上がり、特B級の狼魔獣を顔面から丸焼きにして吹き飛ばした。
「ゴ、ゴースト……様……!」
地面に倒れ込んでいたヴィジランテのリーダーが、震える声でその名を呼んだ。
闇の空間跳躍から現れ、炎の魔法で魔獣を瞬殺する。誰もが知る【トリプルスペル】の使い手であり、彼女たちが崇拝してやまない反逆のカリスマの降臨。
「おおおおっ! ゴースト様が、我々を導きに来てくださった!」
「見よ、あの圧倒的な力! やはり我々のカリスマだ!」
残りの二匹の魔獣に追い詰められていた不良魔法少女たちが、歓喜の涙を流して熱狂する。
しかし、ゴーストの紫の瞳に宿っていたのは、信徒に向けるような慈愛などではなく、ただの『買い物の邪魔をされた高校生の怒り』であった。
「……勘違いしないでちょうだい」
ゴーストは背中に背負った大剣を引き抜き、冷酷な声で言い放った。
「私がここに来たのは、あなたたちを導くためじゃない。」
ゴーストが空高く跳躍する。
彼女の周囲に、炎と氷の魔力が同時に展開され、猛烈な吹雪と熱風が混ざり合う異常な空間が生み出された。
「——【絶対零度の断頭台】」
大剣を振り下ろす。
その一閃から放たれた絶対零度の斬撃が、残りの二匹の魔獣を両断し、一瞬にして氷の彫像へと変えた。それと同時に、魔獣の死骸は内側から発生した炎によって音もなく灰へと帰していく。
氷、炎、闇。三つの相反する高位魔法を息をするように使いこなし、特B級の群れをわずか数秒で完全消滅させたその力に、ヴィジランテたちは言葉を失って平伏した。
「すごい……! これが、協会に反逆する最強の力……!」
「ゴースト様! どうか我々も、あなたの軍門に……!」
「黙りなさい」
ゴーストは、大剣の石突きでアスファルトをドンッ! と強く叩いた。
その瞬間、放射状に広がった氷の魔力が、駐車場にいた数十人のヴィジランテたちの足元を完全に凍りつかせ、地面に縫い付けた。
「ひっ!?」
「足が、凍って……!」
「反逆? 革命? ……くだらないわ。ただ力が欲しいだけのひよっこが、徒党を組んで他人の迷惑になる場所で群れるんじゃないわよ」
ゴーストは、恐怖に震えるリーダーの少女を見下ろし、冷え切った声で告げた。
「真の強さとは、己の足で立ち、己の日常を守ること。こんなスーパーの入り口を塞いで悦に浸っているような甘えた連中に、私を名乗る資格はないわ。」
それだけ言い捨てると、ゴーストは再び足元の影に沈み込み、夕闇の中へと完全に姿を消した。
残された駐車場は、水を打ったような静寂に包まれた。
足元を凍らせられ、身動きが取れなくなったヴィジランテたちは、呆然と互いの顔を見合わせた。
自分たちが崇拝するカリスマに、手酷く拒絶され、お仕置きを受けたのだ。普通ならこれで心が折れ、組織は解散するだろう。
——しかし。
カルト教祖に「神」と崇められる特S級の亡霊の放つオーラは、不良たちの思考をも斜め上の方向へと捻じ曲げてしまったのである。
「……ああっ! なんという慈悲……!」
リーダーの少女が、足元を凍らせられたまま、ポロポロと涙を流し始めた。
「ゴースト様は、徒党を組んで満足していた我々の『甘さ』を叱ってくださったのだ!」
「そうか……!『真の強さは己の足で立つこと』……! 協会に反発して群れるだけでは、結局は協会と同じ! 孤高に生きるゴースト様から見れば、我々はただの烏合の衆だったんだ!」
「なんて厳しい、けれど深いお言葉だ……! 我々は、解散するぞ! そして一人ひとりが孤高の戦士として己を磨き、いつか再びゴースト様にお目通りするのだ!!」
「「「おおおおおおっ!! ゴースト様万歳!!」」」
ゴーストの『スーパーの入り口を塞ぐな』という主夫としてのマジギレは、ヴィジランテたちの間で『孤高の哲学』として見事に脳内変換されてしまった。
彼女たちの狂信は冷めるどころか、より純度の高い『個の崇拝』へと昇華されてしまったのである。
「……どういう状況、これ?」
数分後。
魔獣の発生とヴィジランテの暴動を知らせる警報を受け、日本支部から急行してきた羽衣緋雪、只野真奈、弓飛鳥のエース部隊三人は、ヤオヨシの駐車場に降り立ってポカンと口を開けた。
そこには、魔獣の痕跡は一切なく。
ただ、数十人の黒い腕章をつけた少女たちが、足元を氷で地面に固定されたまま、なぜか全員がすがすがしい顔で『正座』をして空を見上げていたのだ。
「あのー……君たち、ここで何してんの? 暴動起こしてたんじゃないの?」
真奈が巨大なハンマーを肩に担ぎながら、不思議そうに首を傾げる。
「我々は悟ったのです。群れることの愚かさを……! 今日から我々はゴースト様の教えを胸に、自主解散します! さあ、協会よ、我々を連行するがいい!」
リーダーの少女が、謎の達成感に満ちた顔で両手を差し出してきた。
「は、はあ……? ゴーストの教え……?」
飛鳥が困惑し、緋雪は深くため息をついた。
「またあの子の仕業ね。……まあ、ヴィジランテが勝手に解散してくれたなら手間が省けていいけど。氷漬けにされてるのに、なんでこんなに嬉しそうなのかしら……」
トップエースたちの理解を超えた狂信の連鎖。
ゴーストの影響力は、もはや協会の管理能力を完全に置き去りにして、日本中で勝手に増殖と進化を続けているのだった。
その日の夜。
三神家の食卓には、絶妙な焼き加減で羽付きに仕上がった、大量の特製餃子が並んでいた。
肉汁たっぷりの餡と、パリパリの皮。一口噛めば、家族全員から「美味しい!」と歓声が上がる。
「うーん! お兄ちゃんの餃子、やっぱり最高!」
「零、今日のは一段と美味しいわね! 皮がモチモチしてる!」
玲奈と母の奈々美がご機嫌で箸を進める。
零はエプロン姿のまま、「まあな。ヤオヨシの特売の皮は、小麦の香りが強くて良いんだ」とドヤ顔で頷いた。
あの後、路地裏で変身を解いた零は、臨時休業を免れたヤオヨシに滑り込み、無事に最後の一袋の餃子の皮を確保することに成功したのだ。
しかし。
リビングのテレビから流れてきた緊急の夜のニュースが、零の箸をピタリと止めさせた。
『——速報です。本日夕方、スーパーの駐車場で集会を開いていたヴィジランテの集団が、突如として解散を宣言しました。現場にいた少女たちによれば、「ゴースト様が直接降臨し、我々の甘さを叱責してくださった」「孤高の教えを胸に刻んだ」と供述しており——』
「…………」
零は、箸を持ったまま完全に硬直した。
(なんでそうなるんだよォォォォォォッ!!)
心の中で、絶望の叫びが木霊する。
ただ「買い物の邪魔だからどけ」と言っただけなのに、なぜかそれが『孤高の教え』として美化され、不良少女たちを精神的に成長させてしまっている。
「うわぁ、ゴースト、不良の更生までしてるの? 実は案外いい人なのかもね」
姉の澪が、テレビを見ながら呑気に餃子を頬張っている。
(いい人じゃない。ただの高校生だ……。これじゃ、ますますカリスマ扱いが加速するじゃないか……!)
カルト組織に神と崇められ、新人アイドルには正体を疑われ、野良魔法少女たちには孤高のカリスマとして教義化される。
特S級の亡霊の平穏な日常は、自らの圧倒的な力と主夫としての行動原理が引き起こす『勘違い』の連鎖によって、果てしない混沌へと転がり落ちていくのだった。




