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タイピングの授業はそう難しいものではなかった。
まずは紙のはさみ方など、基本的な操作を教わり、それから基本的な指使いを教わる。
一通りの指の動かし方を習うと、
「あとはひたすら反復練習です。ひたすら打ちつづけて、キーを見なくても打てるくらい、指にキーの場所を覚えさせてください」
と、さっそく課題が出された。
「まずは、初歩の試し打ちからはじめましょう。この単語を打ってみてくだい、制限時間は二十分です」
差し出された紙に印字されたのは数十個の単語で、どれも文字数の少ない物ばかりだ。
指示に従い、クローディーヌはキーを叩きはじめる。
授業は一時間で、時間内に出される課題をひたすら打っては添削をうけ、間違えた箇所を打ち直す。そのくりかえしだった。
一時間が過ぎると執事がきて「お茶の用意が整いました」と告げる。
それが終了の合図だった。
クローディーヌはフォーレ先生を連れて、クローディーヌ専用の勉強室兼書斎(約束どおりマティアス卿が作ってくれた)を出て、居間に移動する。ブランシュ夫人は今日は別の友人のお茶会に出席していて留守だ。
芳香のただようお茶をいただき、焼きあがったばかりのスコーンにたっぷりのクリームとジャムを塗って、ほおばる。
話題は自然とタイピストについてとなった。
「女性のタイピストは、そんなに需要があるのですか?」
「はい。今は事務処理の需要が右肩上がりですから。肉体労働と違って、タイピングは男女の実力差の少ない分野ですし、そもそも女性のお給料は男性の半額が相場ですから。だから雇用側も、男性一人分のお給料で女性を二人雇ったほうが得なのです。女性側としても、半額でも工場労働やお針子に比べれば十倍近いお給料ですから、タイピスト志望は増える一方です」
「そんなに?」
クローディーヌは目を丸くする。
「もちろん、本格的に仕事にするなら、相応の技術や質は求められます。速さはもちろん、正確さも必要ですし。渡された手書き原稿の誤字脱字や、間違った知識や情報が書かれていれば指摘しなければならないので、ある程度以上の知識や教養も必要です」
「フォーレ先生もそうなのですか?」
「先日、ひどい癖字の原稿を渡されて。打つより解読に時間がかかりました」
先生は困ったように笑い、クローディーヌも思わず吹き出した。
お茶を終えると、クローディーヌはフォーレ先生を強引に馬車に誘った。
「ちょうど新刊を買いに行く予定でしたので。先生も途中まで一緒にどうぞ」
外出用の外套と帽子、手袋を身に着けて馬車に乗り込む。
大通りに建つ目当ての書店の前まで来ると、二人で馬車を降りた。
書店に入ると目当ての棚に直行する。
「あら、『へんくつ探偵』シリーズですね。クローディーヌお嬢様もお好きなのですか?」
「ええ、とっても。恋愛小説や冒険小説も楽しいですけれど、今は推理小説が一番好きです」
フォーレ先生は少し考えるそぶりを見せた。
「…………もしや、お嬢様がタイピングを習いたかった理由は…………」
「内緒にしておいてください」
クローディーヌは人差し指を自分の唇にあて、先生に口止めした。
目当ての新作を購入すると、二人で書店を出る。
近くを適当に走っているはずの馬車を道端で待っていると突然、声をかけられた。
「あら! もしかして、イリス!?」
「え? まあ、カロリーヌ!」
ふりかえると、日傘をさした外套姿の長身の女性が寄って来た。
「久しぶりね、イリス。そちらは…………親戚のお嬢さん?」
「違うわ、カロリーヌ。こちらはクローディーヌ嬢。私が今、タイピングを教えているお嬢様よ。クローディーヌ様、こちらはカロリーヌ・ボーシャン夫人。私の友人で、シュゼット様とも女学院時代の友人です」
「シュゼット…………」
ぴくり、と『カロリーヌ』と呼ばれた女性の眉が動いた気がした。
「はじめまして、クローディーヌ嬢。カロリーヌ・ボーシャンと申します」
間近で見ると、カロリーヌ・ボーシャン夫人は目鼻立ちのくっきりした、勝気そうな女性だった。はきはきした口調で、クローディーヌ達を誘ってくる。
「良かったら、我が家に寄って行かない? 久しぶりに近況を知りたいわ」
「せっかくだけれど、今日はクローディーヌ様がいらっしゃるから…………」
フォーレ先生はお断りしようとした。が、その直後。
ばしゃあん、と派手な音を立てて馬車の車輪が勢いよく水たまりを踏み、通り過ぎていく。
飛沫が大きく飛んで、フォーレ先生のスカートを濡らした。いや、汚した。
「大変! フォーレ先生、大丈夫ですか!?」
クローディーヌは慌てたが、明らかに大丈夫な状況ではない。間の悪いことに、この日フォーレ先生は明るめのスカートをはいていたため、泥汚れがはっきり視認できてしまう。
「あらあら」と、ボーシャン夫人も気の毒そうに友人のスカートを見た。
「天のお告げね。我が家で休んでいけ、との仰せよ。どうぞ、お嬢様も一緒に」
フォーレ先生はがっくりと肩をおとし、クローディーヌも迷ったがついて行くことにした。
都会の事業家や商家の暮らしぶりとは、どのようなものだろう。
ボーシャン家は高級住宅街の一角にあった。
それなりの家格だったが、事業に失敗して邸を手放す羽目になった貴族から買い取ったものだそうで、産業革命により大勢の事業家が財を築きあげた、今のご時世らしい話である。
クローディーヌとフォーレ先生がお邪魔すると、ふくよかめの白髪まじりの女性がおっとりと迎えてくれた。
「あら、カロリーヌちゃん、おかえりなさい。うしろの二人は、お客さま?」
「ただいま戻りました、お義母様。ええ、女学院時代の友人と、その生徒さんなのですけれど、馬車に泥水をはねられてしまって」
「あらあら、大変」
ちっとも大変そうでない口調と表情で『お義母様』と呼ばれた女性がフォーレ先生のスカートを見る。
「イリスをランドリーへ。スカートの染み抜きをお願い。待っている間の着替えは、私のものを貸すわ。長靴も…………乾かしたほうがよさそうね、室内履きを持ってきて。それから人数分のあたたかいお茶を」
カロリーヌ・ボーシャン夫人は日傘と外套を召使いに預け、別の召使い達にはきはきと指示を出していく。女達も当然のようにてきぱき動く。
フォーレ先生は召使いの案内に従っていったんクローディーヌと別れ、クローディーヌはボーシャン夫人に居間へと案内されかける、その時。
「なんだ、もう帰って来たのか」
まるで計ったようにタイミングよく、横柄な男の声がふってきた。
顔をあげると、玄関ホールにつづく階段の上に、上等の外套をはおって帽子をかぶり、杖を持った若い男がいる。
なかなかの色男だが、軽薄な、ややくずれた印象もうける。
男は乱暴な足取りで階段をおりてくると、玄関ホールでボーシャン夫人と対峙した。
男につづいて、いかにも頼りなげな、やはり外出姿の小柄な美女が階段をおりてきて、男の横に立つ。すると男は夫人に見せつけるように、その女の腰に手をまわして引き寄せた。
「あら、オーブリー。これからお出かけ?」
「相変わらず可愛げのない女だ。夫が出かけるというのに、挨拶も見送りもなしか」
ボーシャン夫人が平然と話しかければ『オーブリー』と呼ばれた色男は舌打ちを響かせる。
「貴様の相手をしてやる暇はないぞ。私はこれから、エマと新作歌劇を観に行く。今夜は帰らない」
鼻を鳴らしたオーブリー・ボーシャン氏に、カロリーヌ・ボーシャン夫人は犬を追い払うかのような口調で応じる。
「はい、りょーかい。いってらっしゃい、オーブリー。くれぐれもエマに手間をかけさせないように、ボーシャン家の跡取りらしく堂々とふるまってきてちょうだいな」
「なんだ、その態度はぁ!!」
オーブリー・ボーシャン氏が人差し指を突き立て、妻を糾弾する。
「仮にも、夫が愛人と出かけると言っているのに、それが妻の態度か! 貴様のそういう可愛げのない言動が、昔から人を苛立たせるんだ!!」
「はいはい、いってらっしゃい、いってらっしゃい」
カロリーヌ夫人は『エマ』と呼ばれた愛人の女に向き直る。
「エマ、お願いされていた、あなたの妹さんの女学院入学の件だけれど。紹介状を書いてくださる方が見つかったから、来学期から入学が可能よ。あとで入学に必要な学用品一式のリストを渡すから、早めにそろえておいて。購入費や学費、学院への寄付金は、契約どおり、すべてこちらが用意します。ただ、紹介状を書いてくださる方へのお礼の手紙はすぐに書いて、こちらに預けてちょうだい。渡しておくから」
「はい、奥様」
「オーブリーをお願いね。我が儘をいうようだったら、叱り飛ばしていいから」
「なんだ、その言い草はぁ!!」
耐えかねたようにボーシャン氏は怒鳴り、客人の姿も目に入っていない様子だったが、カロリーヌ夫人はけろりとして、居合わせた召使い達もとそれぞれの仕事に集中している。
「貴様が、そういう態度だから…………!!」
「はいはい、早く出かけなさい。愛人を待たせるなんて、スマートじゃないわよ」
「しっしっ」と手をふりそうな奥方の反応に、夫は「ぐぬぬ」と歯を食いしばる。
呆然と見守っていたクローディーヌに、白髪交じりの女性がのんびり話しかけてきた。
「ごめんなさいねぇ、お嬢さん。見苦しいところをお見せして。あの二人は、昔からあんな調子なの。なまじ幼い頃からの付き合いなだけに、遠慮も恥じらいもなくって」
ボーシャン夫人に『お義母様』と呼ばれていた以上、この女性があのボーシャン氏の実母なのだろう。ずいぶん人柄に違いがある母子である。
クローディーヌは、つい感心してしまう。
「今夜は帰らないからな! 後悔するなよ!!」
オーブリー氏が「行くぞ!!」と愛人に呼びかけ、肩をいからせて大股で玄関を出て行き、愛人が慌ててそのあとを追う。




