第62話 帝国スパイの初出社と、カルチャーショック
王都の朝。
澄み切った青空から降り注ぐ爽やかな日差しの中、王城の敷地内にある『特務監査部隊』の本部オフィス前で、一人の女性がガチガチに緊張して立ち尽くしていた。
「……ふぅ。落ち着け、私。帝国軍情報部でトップの成績を収めたエリートスパイなんだから。どんな過酷な洗礼が待っていようと、絶対に耐え抜いてみせるわ」
元・帝国スパイのイリヤは、新調された特務監査部隊の黒い軍服(タイトスカート仕様)に身を包み、ゴクリと生唾を飲み込んだ。
昨日、アレン・ロストによって『中途採用』という名目でこの部隊に引き抜かれた彼女にとって、本日は記念すべき「入社初日」である。
帝国の軍隊における新入りの初日といえば、上官からの理不尽な暴力、終わりのない掃除、そして睡眠時間ゼロの地獄の訓練と相場が決まっている。
(アレン・ロストは『ホワイトな好待遇』だと言っていたけれど……騙されないわよ。スパイを寝返らせるための、口八丁に決まってる。きっと部屋に入った瞬間、刃物か暗器が飛んでくるに違いないわ……っ!)
イリヤは隠し持っていた護身用の短刀に手をかけ、覚悟を決めて、オフィスの重厚な扉を勢いよく開け放った。
「新入りのイリヤです! 本日からお世話になりま――えっ?」
怒鳴り声も、飛んでくる暗器もない。
扉の向こうに広がっていたのは、イリヤの予想(スパイとしての常識)を根底から覆す、異次元の空間だった。
まず耳に飛び込んできたのは、部屋の隅に置かれた真鍮製の『魔導蓄音機』から流れる、ゆったりとした低音の環境音楽。
心臓の鼓動を落ち着かせるような、極めてリラックス効果の高いリズムが、部屋全体を優しく包み込んでいる。
そして、日当たりの良い大きな窓際。
最高級のレザーソファーの上では、赤い長髪の女騎士エルザが、アイマスクを着けたまま豪快な寝息を立てていた。
「にゃーん」
そのエルザのお腹の上では、真っ白な毛並みの猫が、香箱座りをして気持ちよさそうに喉を鳴らしている。
「……おはようございます、イリヤさん。出社時間(定時)ぴったりですね。素晴らしいタイムマネジメントです」
部屋の中央にあるデスクでは、中隊長のアレン・ロストが、湯気を立てるコーヒーカップを片手に持ちながら、優雅に朝の読書(経済誌)を楽しんでいた。
「あ、アレン、中隊長……? えっと、これは、一体何の罠ですか?」
イリヤは短刀を構えたまま、部屋の隅を警戒してキョロキョロと見回す。
「罠? 何の話ですか。我が部隊のオフィスは、構成員の集中力と生産性を極限まで高めるため、徹底的な『ストレスフリー環境』として設計されています。……音楽のボリューム、少し大きいですか?」
「いえ、そうじゃなくて! その……新入りの私に対する、厳しいしごきとか、理不尽な雑用とかは……」
イリヤが困惑していると、資料室の奥から、分厚いファイルを持った経理官のティノが出てきた。
「おはようございます、イリヤさん! 理不尽な雑用なんて、この部隊にあるわけないじゃないですか。我が特務監査部隊は『適材適所』と『定時退社』がモットーですからね!」
ティノはにこやかに笑い、オフィスの空いているデスクを指差した。
「さあ、あちらが今日からイリヤさんのデスク(居場所)です。備品のチェックをお願いしますね」
「わ、私のデスク……」
イリヤは恐る恐る案内された席へと歩み寄り……そして、息を呑んだ。
そこには、人間工学に基づいて設計された、背中をすっぽりと包み込む超高級なメッシュチェアが用意されていた。
机の上には、最新の暗号解読用魔導具、帝国軍でも将軍クラスしか使えない最高級の万年筆、そして目に優しい魔力フィルター付きのデスクライトが、完璧な配置でセッティングされている。
「な、何よこれ……。こんな高級な椅子、帝国の情報部では、三年連続でトップの成績を出して、やっとボロボロのパイプ椅子から木製の椅子に昇格できるレベルなのに……っ」
イリヤは震える手で、ふかふかのチェアの座面を撫でた。
「我が部隊では、デスクワーカーの腰痛は『重大な労災』として処理されます。最高のパフォーマンスを発揮してもらうために、初期投資(インフラ整備)をケチるような無能なマネジメントは行いません」
アレンが、コーヒーを一口飲んで涼しい顔で言う。
「あ、アレン中隊長……っ!」
イリヤは感動のあまり、危うく涙をこぼしそうになったが、ハッと我に返って首を振った。
(い、いけない! こんな飴に騙されちゃダメよ! 待遇が良いってことは、それだけ危険で過酷な任務が待っているってことなんだから!)
帝国のブラック企業体質が骨の髄まで染み込んでいるイリヤは、気を引き締め直し、アレンに向かって敬礼をした。
「だ、騙されませんよ! で、では、本日の私の任務を教えてください! 他国の要人の暗殺ですか!? それとも、敵対派閥の武器庫の爆破ですか!?」
悲壮な覚悟で命令を待つイリヤ。
しかしアレンは、手元のバインダーをパラッとめくり、極めて真面目な顔で本日の指示を告げた。
「本日は入社初日ですから、まずは我が部隊の空気に慣れてもらうことが最優先のタスクです。……ですので、午前中の業務は『各種保険の手続き書類へのサイン』。午後の業務は『シロ(猫)のブラッシングと、おやつの給与』です」
「……はい?」
イリヤの口から、間の抜けた声が漏れた。
「猫の、ブラッシング……? それが、私の初仕事?」
「ええ。シロの機嫌を取ることは、我が部隊の福利厚生を維持するための、極めて重要なミッションです。……粗相のないよう、頼みますよ」
「にゃ〜ん」
アレンの言葉に合わせるように、エルザのお腹の上で寝ていたシロが、イリヤに向かって「早く撫でろ」とばかりに前足を伸ばした。
「……」
イリヤは、用意された専用の高級ブラシを受け取り、ふかふかのシロの毛並みを、恐る恐る撫でてみた。
「ゴロゴロゴロ……」
シロが気持ちよさそうに喉を鳴らし、イリヤの手元に頭をすり寄せてくる。
その温かく、柔らかい感触。
窓から差し込む陽だまりの暖かさと、ローファイな音楽。
ふかふかの椅子。そして、誰も自分を怒鳴らない、命を脅かされない、絶対的な安心感。
「……うぅ……っ。ひぐっ……」
イリヤの目から、ついに大粒の涙がボロボロと溢れ出した。
「どうしました、イリヤさん? ブラシの使い方が分かりませんか?」
アレンが不思議そうに首を傾げる。
「違いますぅ……っ! 帝国軍では……失敗したら処刑で、予算は自腹で、毎日睡眠時間三時間で……っ。こんな、こんな温かい場所でお仕事できるなんて……私、私……っ!」
イリヤはシロを抱きしめながら、子供のように声を出して泣きじゃくった。
彼女の中に残っていた「帝国スパイとしての誇り(ブラック企業への洗脳)」は、入社初日のたった一時間で、特務監査部隊の圧倒的なホワイト環境によって完全に浄化されてしまったのである。
「よしよし。前職のトラウマ(ブラック労働)が深かったようですね。……ティノ、彼女に温かいココアを淹れてあげてください」
「了解です! イリヤさん、マシュマロも入れますからねー!」
泣きじゃくる元・帝国スパイを温かく迎え入れる、特務監査部隊の面々。
こうして、裏工作と情報収集のプロフェッショナルであるイリヤという強力なリソースを手に入れたアレンたちは、次なる巨大なバグ(魔法研究所の闇)へと立ち向かう準備を整えていくのだった。




