第63話 白髪魔道士の淹れる至高のコーヒー
特務監査部隊に入社して数日が経過し、元・帝国スパイのイリヤは、この部隊の「異常なまでのホワイト環境」に少しずつ順応し始めていた。
フカフカの椅子。最新のデスクライト。
そして何より、誰も裏切らないし、足も引っ張らない。
帝国の情報部では、同僚は全員「蹴落とすべき競争相手」であり、隙を見せれば手柄を奪われるのが当たり前だった。しかし、ここではそんな無駄なストレス(社内政治)は一切存在しない。
「……はぁ。なんて働きやすい環境なのかしら……」
イリヤが溜まっていた書類の整理を終え、一つ伸びをしたその時だった。
「――ふむ。本日の焙煎は、会心の出来ですね」
オフィスの奥にある給湯室のカウンターから、低く渋い、落ち着いた男性の声が響いた。
同時に、部屋全体に「極上の香ばしい匂い」がフワリと広がる。
「わぁ……いい匂い」
イリヤが誘われるように顔を向けると、そこには純白の髪を後ろで束ねた壮年の魔道士――クラウスが、黒いエプロン姿で立っていた。
彼は、魔法の杖を「コーヒーミル」に持ち替え、極めて真剣な眼差しで豆を挽いていた。
ガリ、ガリ、ガリ……と、一定の心地よいリズムで豆が挽かれる音が、ローファイな環境音楽と見事に調和している。
「あら、イリヤさん。タスクに区切りがついたようですね。一杯いかがですか?」
クラウスが、片眼鏡の奥の瞳を優しく細めて微笑んだ。
「い、いいんですか? でも、私なんかがクラウスさんの淹れたものを……」
「気になさらず。我が部隊において、適度なカフェイン摂取とリフレッシュは『推奨される業務プロセス』の一部ですからね」
クラウスはそう言うと、挽きたての豆をドリッパーにセットし、細口のケトルを手に取った。
そこから先は、もはや「魔法」だった。
「……抽出温度は、摂氏八十二度。一滴の乱れも許さない」
クラウスの指先から微かな魔力が放たれ、ケトルの中の湯の温度が『完璧な八十二度』に固定される。
さらに、彼の手首は機械のように正確な円を描き、お湯が極細の糸のように豆の上に注がれていく。豆がふっくらと膨らみ、オフィスの空気がさらに芳醇な香りで満たされた。
「……すごい。魔法を、コーヒーを淹れるためだけに使ってる……」
イリヤが感嘆の声を漏らす。
「魔法とは、日常を豊かにするための技術でもありますからね。……お待たせしました」
クラウスは、湯気を立てる漆黒の液体をアンティークのカップに注ぎ、イリヤと、そしてデスクで資料を読んでいるアレンの前にそっと置いた。
「ありがとうございます、クラウス」
アレンは資料から目を離さず、カップを手に取って一口飲んだ。
「……素晴らしい。エチオピア産の浅煎りですね。果実のような酸味と、クリアな後味。脳の疲労がクリアに初期化されるようです」
「お気に召して何よりです。中隊長が現在処理している『複雑なタスク』には、この豆が最適かと」
クラウスも自分のカップを持ち、アレンのデスクの脇に静かに立った。
ここから、二人の「大人のやり取り」が始まる。
「……クラウス。例の『王立魔法研究所』から提出された、今期の予算書と開発スケジュールですが」
アレンが、目線をコーヒーカップに落としたまま問いかける。
「ええ。私も確認しました。……少し『ノイズ』が混じっていますね」
「同感です。新型魔導ゴーレムの開発納期が、当初の予定より『二ヶ月も前倒し』されている。それにも関わらず、人件費の予算枠は一切増えていない」
アレンの言葉に、クラウスは片眼鏡をキラリと光らせた。
「納期だけを短縮し、リソース(人員と予算)を追加しない。……物理法則を無視した、魔法以上の『奇跡』ですね」
「ええ。そのような奇跡が起きる理由は、一つしかありません」
「現場の労働者による、不当なサービス残業(自己犠牲)。……ですね」
「午後のスケジュールを『視察(お散歩)』に変更します。同行をお願いできますか?」
「承知いたしました。防刃コートと、少し強めの結界術式を準備しておきましょう」
二人の会話は、ほんの数十秒で終わった。
しかし、その短いやり取りの中に、お互いの思考を完全に先読みし、一切の無駄なく次のアクションを決定する『完璧な相互理解』が存在していた。
それを見ていたイリヤは、手元のコーヒーカップを握りしめながら、静かな衝撃を受けていた。
(……すごい。これが、本物のプロフェッショナル……)
帝国軍では、上官への報告は常に「怒られないための言い訳」から始まり、手柄の奪い合いと責任の押し付け合いばかりだった。
しかし、アレンとクラウスの間には、上司と部下という階級を超えた、確かな「信頼関係」がある。互いの能力を完全に認め合い、背中を預け合っているのだ。
「……おいしい」
イリヤが、冷めないうちにコーヒーを一口飲む。
雑味が一切なく、華やかな香りが口いっぱいに広がる。こんなに美味しいコーヒーを飲んだのは、生まれて初めてだった。
「美味しいですか、イリヤさん?」
クラウスが、優しく微笑みかけてくる。
「はい……っ。すごく、美味しいです。目が覚めました」
イリヤはカップを両手で包み込みながら、決意を込めた瞳でアレンを見た。
「あの、アレン中隊長。午後の王立魔法研究所への視察、私も同行させてください!」
「おや。入社数日のあなたに、さっそく外回り(フィールドワーク)をさせるのは少し早い気もしますが?」
アレンが少し驚いたように眉を上げる。
「いいえ! 私は元・帝国スパイです! 情報の収集や、裏帳簿の隠し場所を見つけることなら、絶対に誰にも負けません!」
イリヤは立ち上がり、力強く宣言した。
「私にも、この部隊(会社)に貢献させてください。……こんなに美味しいコーヒーと、素晴らしい環境を与えてくれた、恩返しをしたいんです!」
その純粋なモチベーション(やる気)を見て、アレンは少しだけ目を細め、満足そうに頷いた。
「……素晴らしい意欲です。ではイリヤさん、午後からは清掃員に変装し、我々とは別ルートで研究所へ潜入してもらいます。……期待していますよ」
「はいっ!!」
イリヤが元気よく返事をする。
「ふふっ。頼もしい新人が入ってきましたね、中隊長」
クラウスが嬉しそうにコーヒーを啜る。
「ええ。我が部隊のリソースは、ますます強固なものになりました」
ローファイな音楽と、至高のコーヒーの香りに包まれた特務監査部隊。
十分な休息と完璧な連携によってチャージされた彼らの矛先は、いよいよ「魔法の探求」という仮面を被ったブラック研究室へと向けられようとしていた。




