第53話 敵対的買収(ヘッドハント)の提案と、温かいスープ
王立・第一物流拠点の裏路地。
深夜の冷たい石畳の上に倒れ伏した黒装束の女を、魔力ランタンの温かい光が照らし出していた。
「……アレン中隊長。この女性、全身黒ずくめで、ベルトには暗器(投げナイフ)まで仕込んでいます。間違いなく、どこかの工作員か暗殺者ですよ……っ!」
見回りの途中で彼女を発見したティノが、警戒して魔導銃のセーフティを外そうとする。
しかし、アレンは静かに片手を上げてそれを制止した。
「警戒は不要です、ティノ。……彼女からは一切の殺気も魔力も感じられません。ただ、極度の『睡眠不足』と『栄養失調』、そして過剰なストレスによるシステムダウン(気絶)を起こしているだけです」
アレンは倒れた女――帝国スパイのイリヤの傍らにしゃがみ込み、彼女のポケットから転げ落ちていた『胃薬の瓶』と、かじりかけのパサパサの『携帯保存食』を拾い上げた。
「……粗悪な保存食に、大量の胃薬。おまけにこの酷い隈と、ボロボロの髪の毛。暗殺者というより、悪質なブラック企業に使い潰されて過労死寸前の、哀れな社畜といったところですね」
アレンの瞳に、ほんのわずかな同情の色が浮かぶ。
「彼女の身柄を保護します。ティノ、本部へ連絡して、ゲストルーム(医務室)のベッドと、消化に良くて温かいスープを手配してください」
「えっ!? でも、敵の工作員かもしれないんですよ?」
「ええ。ですが、倒れた労働者を目の前で見捨てるような真似は、我が特務監査部隊の理念に反しますからね」
アレンは軽々とイリヤの身体を抱き上げると、本部へと向かって歩き出した。
※ ※ ※
「……ん……ぁ……」
どれくらいの時間が経ったのだろうか。
イリヤが重い瞼を開けると、そこは見たこともないほど清潔で、暖炉の火がパチパチと心地よい音を立てる、温かい部屋だった。
彼女は、自分が信じられないほど柔らかく、フカフカの羽毛布団に包まれていることに気づいた。シーツからは、太陽の光とお日様のようないい匂いがする。
(……あれ? 私、死んだの? ここは天国……?)
「お目覚めですか。とりあえず、脈拍と魔力の数値は正常値まで回復したようですね」
「……っ!!」
すぐ横から聞こえた極めて冷静な男の声に、イリヤはバネのように跳ね起きた。
長年のスパイとしての訓練が、瞬時に彼女の身体を戦闘態勢へと移行させる。……はずだった。
「ぐぅぅぅぅぅぅぅぅ〜〜〜〜ッ……」
部屋中に響き渡る、盛大な腹の虫の音。
イリヤは顔を真っ赤にして、自分のお腹を両手で強く押さえた。
「無茶な動きは控えた方がいいですよ。三日はまともな食事を摂っていないでしょう。……まずは、これを」
ベッドの脇にあるサイドテーブル越しに、一人の青年が座っていた。
漆黒の軍服に純白のスカーフ。その端正な顔立ちと、見透かすような冷徹な瞳。
王国軍・特務監査部隊の中隊長、アレン・ロスト。
イリヤが監視対象とし、そして幾度となく帝国の作戦を完璧な論理で粉砕してきた、あの「最強の社畜」が、イリヤにトレイを差し出していた。
トレイの上には、湯気を立てる濃厚なコーンポタージュスープと、焼きたてのふんわりとした白いパン。そして、甘い香りのするホットミルクが乗っていた。
「あ、アレン・ロスト……! 私を捕まえて、拷問する気ね! 無駄よ、帝国のスパイはどんな苦痛にも耐える訓練を――」
「拷問? 人権を無視した非人道的な尋問など、非効率の極みです。我が部隊はそんな野蛮な手段は取りませんよ。……冷める前にどうぞ」
アレンはそう言うと、一切の敵意を見せず、ただ静かにスープを勧めた。
イリヤは警戒しながらも、その暴力的なまでの『美味しそうな匂い』に抗うことができなかった。
震える手でスプーンを取り、黄金色のスープをすくい、恐る恐る口に運ぶ。
「……っ!」
一口飲んだ瞬間。
トウモロコシの自然な甘みと、バターの豊かなコクが、長年パサパサの保存食ばかりを胃に流し込んでいたイリヤの味覚を、優しく、暴力的に蹂躙した。
「おい、しい……っ」
温かいスープが、冷え切って空っぽだった胃の腑に染み渡っていく。
それは単なる食事の味を超えた、「誰かに自分の体を労わってもらえた」という、スパイとして生きてきて初めて感じる『温もり』だった。
「うぅ……っ、ひぐっ……おいしい、です……っ」
気づけば、イリヤはポロポロと大粒の涙を流しながら、子供のように泣きじゃくりながらパンをスープに浸して無我夢中で頬張っていた。
どんな厳しい拷問にも耐える自信があった彼女の強靭な精神(スパイとしての誇り)は、たった一杯の『温かいスープ(福利厚生)』によって、あっさりと陥落してしまったのだ。
アレンはそんな彼女の姿を、まるで迷子の子猫を見るような静かな瞳で見守りながら、手元のバインダーにペンを走らせていた。
「……さて。お腹が落ち着いたところで、少しだけ『労働環境のヒアリング(面談)』をさせてもらいましょうか。帝国軍情報部、スパイ番号〇〇七のイリヤさん」
「……! どうして、私の名前と所属を!?」
口の周りにスープをつけたまま、イリヤが驚愕して固まる。
「王立魔導工廠の事件から、あなたの不自然な動き(残業の痕跡)はずっと捕捉していました。……あなたが昨日、第一物流拠点の周辺を偵察していたこともね」
アレンは足を組み直し、極めて事務的なトーンで告げた。
「しかし、驚きました。帝国の誇るエリート工作員が、あんな粗悪な装備と、過労で今にも倒れそうなコンディションで、あの超重要拠点をたった一人で偵察していたとは」
「うっ……」
イリヤは図星を突かれ、気まずそうに目を逸らす。
「イリヤさん。あなたの所属している組織(帝国)のトップは、あなたに『十分な人員』と『爆薬や資金(予算)』を与えずに、あの拠点の破壊という無茶な目標(KPI)を押し付けたのではないですか?」
「な、なんでそこまで分かるのよ……」
「簡単なプロファイリングです。現場の人間の悲鳴を無視し、精神論(気合)だけで不可能なタスクを押し付ける。……それは、組織として完全に腐りきった『最悪のブラック企業』の手口そのものだからです」
アレンの言葉が、イリヤの胸にグサグサと突き刺さる。
「……うるさいわね。帝国軍は実力主義なの。結果を出せない末端が切り捨てられるのは当然よ。私はスパイとしての誇りがある。帝国の命令は絶対なのよ……っ!」
強がるイリヤ。だが、その声はひどく震えていた。
そんな彼女に対し、アレンは冷酷な尋問官ではなく、有能な人事責任者(HR)のような顔で、一枚の書類を差し出した。
「……なん、なの? これ」
「我が王国軍・特務監査部隊の『中途採用のオファー条件書』です」
イリヤが目を丸くして書類を受け取る。
そこには、信じられない文字が並んでいた。
『基本給:帝国軍の現在の給与の二倍を保証』
『労働時間:一日八時間(完全シフト制)。月間の残業時間は原則ゼロ』
『休日:完全週休二日制。年間有給休暇二十日(※取得率100%を義務付け)』
『福利厚生:一日三食の温かい食事付き。最新鋭の防音・空調完備の個室提供。部隊専属の猫によるアニマルセラピー完備』
「な、なにこれ……。有給取得率、百パーセント……? 猫……?」
「我が部隊では現在、敵国(帝国)の内部情報に精通し、かつ裏工作が得意な『プロフェッショナルな人材』を急募しています」
アレンは純白のスカーフを指で整えながら、堂々と告げた。
「イリヤさん。あなたは極めて優秀なリソース(人材)だ。それを、人員も予算も与えずに使い潰すような無能なトップの元で腐らせる必要はどこにもない。……どうです? 帝国のブラックな労働環境を辞め、我がホワイト部隊へ『転職』しませんか?」
アレンの堂々たる引き抜き(敵対的買収)の提案に、イリヤの頭は完全にフリーズした。
敵国のスパイを捕まえて、尋問でも処刑でもなく、まさかの「待遇改善によるヘッドハント」を持ちかけてくるなど、帝国軍の常識では絶対にありえないことだ。
「わ、私をからかってるの!? いくら待遇が良くても、私は帝国のスパイよ! 帝国を裏切ったら……裏切り者は、帝国の『隠密暗殺部隊』に絶対に消されるわ! 将軍はそういう男なのよ!」
イリヤは恐怖に身を震わせ、布団をギュッと握りしめた。
帝国の暗殺部隊の恐ろしさを、彼女は誰よりも知っている。彼らは任務失敗者や裏切り者を、地の果てまで追いかけて文字通り「物理的に消去」する、冷酷無比な死神の集団だ。
「……なるほど。社員の退職(退職の自由)を認めず、暴力的な引き止め(ハラスメント)を行う悪質な企業体質、ということですね」
アレンの瞳の温度が、スッと絶対零度にまで下がる。
その時だった。
イリヤの脱ぎ捨てられた上着のポケットに入っていた、帝国との通信用水晶球が、突如として不吉な赤い光を点滅させ始めた。
「……! 将軍からの通信……っ!」
イリヤが顔面を蒼白にして震える。
アレンは無言で水晶球を手に取り、あえて通信を繋いだ。
『おい! イリヤ! なぜ定時連絡を怠った!』
水晶球から響く、バルデス将軍のヒステリックな怒号。
『貴様の動きは、すでにこちらで把握している! 任務(拠点の爆破)を遂行せず、あろうことか王国軍の施設にノコノコと入り込み、寝こけているとは何事だ! この穀潰しがッ!』
「しょ、将軍! 違います、私は過労で倒れてしまって、それで……っ!」
イリヤが必死に弁解しようとするが、将軍はそれを冷酷に遮った。
『言い訳など聞きたくもない! 貴様のような無能な末端は、もはや我が帝国には不要だ! ……安心しろ、貴様の手を煩わせるまでもなく、すでに王都には我が帝国の最強の剣である【隠密暗殺部隊】を三十名、送り込んである』
「え……っ?」
イリヤの呼吸が止まった。
『王国の特務監査部隊とやらもろとも、裏切り者の貴様を物理的に完全消去してやる! 貴様の命という最後のコストで、せいぜい帝国に貢献して死ねッ! ハッハッハッ!』
通信が一方的に切断される。
イリヤは絶望のあまり、顔を覆ってベッドに泣き崩れた。
「終わりよ……。もう終わり。帝国の暗殺部隊が三十人も来たら、この本部ごと木っ端微塵にされるわ……っ。アレン・ロスト、あなたたちも早く逃げて! 私と関わったら、殺されるわよ!」
自分のせいで、温かいスープをくれたこの不思議な青年たちまで巻き込んでしまう。その罪悪感が、イリヤの心を激しく苛んだ。
しかし。
アレン・ロストは、逃げるどころか、水晶球を机に置き、極めて不快そうに眉をひそめていた。
「……不要な人員を不当に解雇するだけでなく、その命まで奪おうとする。……どこまでも腐りきった、最悪のブラック経営陣ですね」
アレンは懐中時計を取り出し、パチンと蓋を開けた。
「イリヤさん。逃げる必要など一切ありません。……我が特務監査部隊の『福利厚生』には、社員を悪質な元職場(ブラック企業)の嫌がらせから徹底的に守る【物理的防衛サポート】も含まれているのです」
アレンの冷たくも、頼もしい宣言。
その直後、オフィスの外から、窓ガラスが割れるけたたましい音と、複数の黒い影が侵入してくる気配が響き渡った。
「おや。どうやら、あなたの元の会社(帝国)から、随分と気の早い『退職引き止め(クレーム)』の使者が到着したようですね」
アレンは漆黒の軍服の襟を正し、静かに立ち上がった。
「さて、バックオフィス(我々)の出番です。……我が部隊に、アポなしで残業(戦闘)を強要してきた無礼な害虫どもに、最高級の『物理的監査』を叩き込んでやりましょうか」
絶望する元・帝国スパイを背に、最強の社畜が、帝国の暗殺部隊を迎え撃つべく静かに歩み出した。




